4.知らない感情
アウグストの気配が完全に消えたことで、室内の空気が変わった。張り詰めていたものが少しだけ緩んだが、彼とこれからどう接していけばいいのか分からなかった。
「……フェリシティ」
さっきよりも、柔らかい声で名前を呼ばれる。
振り向くと、テオドールがこちらを見ていた。
さっきまでの鋭さは、ほんの少しだけ引いている。きっと本来の姿は、こちらなのだろう。
「疲れているでしょ」
距離を測るようにゆっくりと近づいてくる。今は、アウグストがいた時の様な圧は感じられなかった。
「いえ……」
「ここに来るまで、いろいろあったみたいだし」
いろいろ、それは先ほどの廊下での出来事を指しているのだろうか。ここに訪れるまでの一瞬で、そのことを知っているだなんて。
私をどうするつもりなのかとそっと彼の行動を確認する。ちらりと彼の横顔を盗み見る。
「少し座ろうか」
促されるまま、ソファに座った。
特に拒否する理由はなかった。
テオドールは対面ではなく、少し斜めの位置に腰を下ろした。
近すぎず、遠すぎない距離。
「……こういうの、君は慣れていないよね」
ふと視線が重なり慌てて目を逸らす。視線が合っても熱に浮かされたような瞳をしていない、普通の人の顔をしていた。
不自然だったかとちらりと再度彼の方を見た。彼の話し方は優しいが、見抜かれていた。
「……はい」
正直に答える。今更隠す意味もないと思った。
「だろうね」
小さく笑う。テオドールは否定もしないし、責めもしない。一体どんな意図があって、私を留まらせることを選んだのか。
「大丈夫。俺が側にいる限り、無理させないから」
胸の奥が、わずかに揺れる。こんなはずじゃなかった。私は道具で、役目を果たさなければ未来はないのに。どうして、敵に情けをかけられているのか。
「ここでは、君は安全だよ」
この関係も、矛盾しているはずなのに。彼の優しさを拒否できない。
「あの、」
「他の人間はなるべく近づけない」
テオドールは静かに断言する。
「さっきみたいになるから」
あの熱のこもった視線と、急に伸びてきた腕を思い出すと無意識に、指先が震える。
あの壊れ方は尋常じゃなかった。
それに気づいたのか、テオドールが、少しだけ身を乗り出す。
「怖かった?」
彼の優しさにつけ込んでいるみたいで、それが嫌で否定しようとしたのに私の口から出てきたのは肯定の言葉だった。
「……少しだけ」
初めて、他人に自分の感情を口にする。
テオドールの目がわずかに細められた。
「そっか」
それ以上は深く尋ねることもせず、踏み入ったことは聞かれなかった。ただ、受け止めてくれた。そんな風に扱われたことがこれまでなかったせいで、とても変な気持ちになる。
「じゃあ、なおさら外には出さない。ここにいれば、ああはならない」
その言葉は守るためのもののように聞こえた。
「壊すものは、全部排除しよう」
淡々と当たり前みたいに、それができる立場だから、そう提案してくれているのだろう。
息が、少し詰まる。逃げられないと、そう思うのに。同時に、何故だか安心してしまった。
そんな感情を抱いてしまったことが、怖い。
「フェリシティの侍女はいるか」
テオドールが侍女を呼ぶ。
すぐに扉の外から気配が返る。
「はい、殿下」
「この隣の部屋を使わせる。滞在できるように準備を。必要なものは、適宜伝えてほしい」
「かしこまりました」
二人の会話が淡々と進む。まるで、ずっと前から決まっていたみたいに、何の迷いもなくここにいることが当たり前になつていく。
少しだけ間を置いて、テオドールがこちらを見た。
「あと、彼女に触れる人間は、俺か君だけにして。いくら側近とはいえ、男に触れられるのは嫌だろう」
壁際に控えていた、テオドールの側近は何も言わずに目を伏せる。
「……かしこまりました」
リアもそれを静かに受け入れる。
完全に外界との接触が遮断される。
「フェリシティ」
再び名前を呼ばれる。視線が合う。
「困ることがあったらすぐ言って、我慢しなくていい」
穏やかな声。優しい言葉。
でも、その実。頼る先は一つに限定されている。
——彼だけ。私がここにいる以上、頼れるのはテオドールだけになってしまった。
「……どうして」
気づけば口にしていたことに自分でも驚く。それでも止められなかった。
「どうして、初対面の私に、そこまで、してくださるんですか」
テオドールは、少しだけ目を細め迷いなく答える。
「君が欲しいから」
あまりにも、あっさりとそんな事をいうものだから、
視線が逸らせない。
「……だから、逃げないで。自分の望みをここでは言っていいんだ」
望むものなんて思いつかなくて、無言になる。逃げ道は最初からなかった。こうなってしまったからには、なるように身を任せるしかない。
不思議と、息苦しさは感じなかった。
……どうしてこの人の側は、ほんの少しだけ居心地がいいと思ってしまうのだろう。
その感覚が、一番危険だと分かっていた。




