39.奪わないかわりに
最初に気づいたのは、視線だった。
廊下を歩いていると、遠巻きにこちらを見ていた人たちが、すっと目を逸らす。以前のように、熱を帯びた視線でも、戸惑いでもない。ただ普通に目線がそらされただけだった。
その行動は普通だったが、違和感が残る。
少し前までなら違った。
無意識にでも、周囲は引き寄せられていた。視線が集まり、距離が縮まっていく。そんな流れが確かにあった。
でも、今は。誰も近づこうとしない。
むしろ、避けている。
「……どうかしましたか」
後ろに控えていたリアが、小さく声をかける。
「……いえ」
首を振る。あえて口にするほどのことでもないと思った。
あの引き寄せる力が、薄れているのかもしれない。
――魅了。
神殿で教えられた、聖女の副次的な性質。
触れれば心を緩ませ、無意識に依存させる力。
弱くなってるということは、本来なら聖女としての役割を果たせないということ。以前の私なら不安になっていただろう。
力が落ちているのなら、価値が下がるかもしれないと。
けれど、私の胸に広がったのは、ほんの少しの安堵だった。
その理由は、考えなくてもわかる。
誰かを勝手に引き寄せることに、ずっとどこかで違和感があったから。その代わりに違うものが、はっきりと強くなっている。
それは、ひとつの方向にだけ、繋がっている感覚。
「……フェリシティ」
呼ばれて、顔を上げる。
少し離れた場所に、テオドールが立っていた。
視線が合ったその瞬間。はっきりとわかる。
繋がっている――と。他のすべてが薄れる代わりに。この人との繋がりだけが、異様なほど濃くなっている。
「どうしたの」
近づいてくる。その足取りはいつもと同じなのに、どこか重い。気のせいかと思った、そのとき。
「……っ」
テオドールの足が、わずかに止まる。
ほんの一瞬。でも、確かに苦しそうな顔をした。
「……テオドール?」
思わず声をかけると、テオドールはすぐにこちらに向かって歩き出す。何事もなかったように。
「……何でもない」
そう言われても、さっきの一瞬が、頭から離れない。
距離が縮まる。手を伸ばせば、触れられる位置。
そのとき、胸の奥が、強く波打つ。
「……っ」
息が詰まる。視界が、わずかに揺れる。
ほんの軽い消耗。でも、確実に今減ったと感じさせるものだった。その瞬間――
「……っ、は」
テオドールが、わずかに息を乱す。
同時だった。私の違和感と、テオドールの反応が。ぴたりと重なるように起きたのだ。
……え?
一瞬、思考が止まる。
今のは絶対に偶然じゃなかった。タイミングが合いすぎている。
「……今のは」
テオドールも、同じことを考えていたらしい。
無言で、探るようにこちらを見る。その目が、鋭くなる。
「……もう一回」
止める前に。私の手を取る。
軽く、触れる。その瞬間――じわり、と。ほんのわずかに力が流れる。
「……っ」
テオドールの呼吸が、また乱れる。今度ははっきりと肩がわずかに揺れる。やはり同じタイミングだった。これはもう偶然ではないと確信する。
「……フェリシティ」
名前を呼ばれる。
「……はい」
声が、少し震えた。何が起きているのか理解してしまったから。これは、今までとは、まったく違う。
「……たぶん」
テオドールが、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「君の消費が、こっちに流れてる」
はっきりと言い切られる。その事実に、頭の中が真っ白になる。
自分が削れるはずだったものが代わりに彼が受ける。
そんなことがあり得るのか。けれど、実際に目の前で起きていた。さっきの反応は見間違いようがない。
「……そんなこと」
否定できる材料が何もなかった。むしろ、全部が繋がっていく。魅了が弱まったこと。繋がりが一方向に強まったこと。
「……完全に変わったな」
テオドールが、ぽつりと呟く。
その声は、驚きよりもどこか納得に近かった。
「魅了が消えて代わりに、結びつきが強化された。それによって代償も共有される――と」
つまり。自分が使えば使うほど、彼が削れる。何もしていなくても減っていってしまうのに。
……そんなことって。
息が、浅くなる。怖い。今までとは違う意味で。
「……やめます、やっぱり、私。これ以上は――」
その言葉を、遮るように、手を引かれた。
「やめないよ」
テオドールは即答だった。
迷いは一切感じられなかった。
「でも――」
「やめない」
もう一度テオドールが言った。今度は、強くはっきりとした言葉だった。
「……俺が受ける。それでいい」
その言葉に、胸が強く締めつけられる。
そんなことはよくないと、そう思うのに。
言葉が出ない。
「今まで君一人で削ってたものを、半分こするだけでしょ」
テオドールは笑った。まるで、大したことじゃないみたいに。それがどれだけ重いことか、私はよくわかっている。
「……違います、これは……」
やっと出た声は震えていて、言葉が続かない。
何と言えばいいのかわからない。
危険です。負担がかかります。あなたが犠牲にならなくていいです。
どれも正しいのに、その言葉だけでは足りない。説明がつかない。こんな時、なんて伝えたらいいのだろう。どうして、うまく伝える言葉が思いつかないのだろう。
テオドールが、一歩近づく。距離が、さらに縮まった。
「……じゃあ、何」
答えられない。胸の奥では、わかっている。
これは、ただの力の変化じゃない。
――これまでの関係の結果だと、そう思ってしまう。
「……嫌?」
試すような問いかけに、その瞬間、考えるより先に首を横に振っていた。
「……嫌じゃ、ないです」
それが、本心だった。怖いのに。不安なのに。
それでも嫌じゃない。テオドールと自分が一つのものとしていられることが、嫌だとは思えなかった。
テオドールの目が、わずかに揺れる。
そして、満足そうに口元が弧を描く。
「……そっか」
小さく、呟く。
そのままそっと、抱き寄せられる。彼の腕の中にいることに、安心してしまった。そのことが一番、危険だとわかっているのに。
「……じゃあ、これでいい。本当に、他から取らなくてよくなった」
その言葉に、息が止まる。
今は、それを否定できない。
「全部俺で回せばいい」
閉じた、完璧な循環。外を必要としない関係。
それはあまりにも危ない。
そう理解しているのに、離れられない。離れたくないと思ってしまう。
結びつきは、もうほどけない。他から奪わない代わりに、逃げられない形で二人を繋ぎ始めていた。
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