38.解けない結び目
翌朝、目が覚めたとき、最初に感じたのは重さだった。
まぶたを開くのも少しだけ億劫で、身体の奥に薄く沈むような疲労が残っている。けれど、完全に動けないほどではない。むしろ、じわじわと広がる鈍い違和感が、はっきりとそこにあると主張しているようだった。
昨日のことを思い出す。
あの時のキスは、やわらかくて、あたたかくて、初めて自分で欲しいと思って重ねたもの。
そして、そのあとに来た、わずかな減少がずれてやってきた。
テオドールのいう、力を使う使わないに関係なく、神殿が初めから私の寿命を削っているのだとしたら。
考えながら、身体を起こそうとすると、視界が少しだけ揺れる。
「……っ」
小さく息を飲む。
すぐに収まるけれど、確実に残っている感覚。
軽くなったはずなのに、どこかで減っている。
その矛盾が、胸の奥に静かに沈む。
「聖女様、お着替えを」
リアは、変わらずにここにいた。てっきりあのまま帰ったのかと思っていたが違ったようだ。リアと話しながら身支度を整える。
「リアは、どうして神殿に戻らなかったの?」
「私は、聖女様の侍女ですから、最後までお供しますよ。この選択が、どのような結果になろうとも。聖女様がこれが正しいと思い選んだのでしょう?」
「はい、そうです」
「なら、それを信じるしかありません。神殿よりも、ここがにいることが正しいと、ここにいたいと思ったその考えを裏切ってはいけません」
リアの言葉に胸を打たれた。
「私、諦めません」
「ええ。それがいいです。聖女様、それでは……殿下がいらっしゃったようなので、失礼しますね」
リアが出ていくのと入れ違いに、テオドールがやってきた。
「起きた?」
扉の近くから声がする。
「……はい」
答えると、すぐに近づいてくる。
足音は静かなのに、距離が一気に縮まる感覚がある。
ベッドの縁に腰を下ろして、迷いなく額に手が触れる。
「……熱はないけど、少しだけ顔色がよくないかな」
その声に、昨日と同じ緊張が混じる。リアには見抜かれなかったのに、テオドールは気づいてしまった。
「……大丈夫です」
反射的に答える。
けれど、すぐに視線を逸らせないことに気づく。
無理をしていることも、隠そうとしていることも、全部見抜かれていることに。
「大丈夫じゃないでしょ」
少しだけ、言葉に詰まる。否定しきれなかった。
「……昨日の、影響だと思います」
正直に伝えるしかなかった。
ごまかす意味がないと、もう分かっている。
テオドールの指が、ほんのわずかに強くなる。
「……やっぱり」
低く、押し殺した声。
あらかじめ予想していたのかもしれない。
それでも、納得はしていないといった表情だった。
「完全に、負担はなくなるわけじゃない」
言い聞かせるように、確認するように。その言葉に、小さく頷く。
「……でも、前とは違います」
自然に出た言葉だった。そう思ったから。
あのとき感じたものは、確かに違った。ただ削るだけのものじゃなかった。それを否定したくなかった。
テオドールが、少しだけ目を細める。何かを考えている様子だった。そのまま、しばらく黙る。
静かな時間。その中で、ふと気づく。
手が、まだ触れたままだということに。
額から、頬へ、ゆっくりと滑るように移動する。
その動きが、あまりにも自然で、拒む理由が見つからない。
「……やめる?」
不意に問われた。
テオドールが、触れることに選択を委ねてくる。思考が一瞬止まる。
やめる。回復しなかったら、どうなるのか。
最近はほとんど使っていなくても減っていくのを止められていない。テオドールが言ったように、使わなくても、どこかに力が奪われ続けているものなのだとしたら。
やめる。それは――テオドールの元から離れる、ということ?
胸の奥が、きゅっと締まる。それを想像しただけで、少しだけ息が苦しくなる。答えは、すぐに出た。
「……やめません」
はっきりと、言う。迷いはなかった。
怖さはある。それよりも。神殿に帰った後の方が怖かった。また全てを奪われて、人形のような思考へと作り変えられる可能性があった。今の私が抱いたこの感情が全て失われてしまうかもしれない。
「……やめたく、ないです」
小さく、続ける。
その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが確定した気がした。
テオドールの目が、わずかに見開かれ、すぐに、細くなる。そこには安堵と、深い色を含んでいた。
「……そっか」
それだけなのに空気が少し変わる。
次の瞬間、強く引き寄せられる。
驚く間もなく、身体が傾く。そのまま、胸に抱き込まれる。
「……じゃあ、やり方変える」
耳元で、低く囁かれる。
その声に、わずかにぞくりとする。
「フェリシティを削らせない方法、探す」
逃がさないように力強く抱きしめられる。
でも、それは、ここに縛るためじゃなくて。
守るための言葉に聞こえた。
……この人は、どうして、他人の私にそこまでしてくれるのだろうかと思う。
この手を取ったら、巻き込んでしまう。そうしたら、テオドールはきっと、もう引き返さない。
神殿にも、王家にも従わない。
その代わりに全部を、自分で背負おうとしている。
そのことが、少しだけ怖くて。同時に、側にいてくれるのだと安心してしまう。
「……無理は、しないでください。私のせいで、テオドールに何かあったりしたら――」
自分でも驚くくらい自然に出た言葉。
テオドールが、わずかに息を止める。
「……それ、今更言う?」
かすかに笑うような声。でも、それを否定するようなことはしない。
少しだけ、力が緩むが、それでも、離れない。
ゆっくりと、額が重なる。
「……フェリシティがここに残ることを選んだ時点で、俺は全てを敵に回してもフェリシティの側にいることを決めた。だから今更戻れないよ。生き残るために、どうしたらいいか、今日も考えよう?」
小さく頷く。
「……はい」
ゆっくりと唇が、触れる。
昨日よりも、短く。浅く。
でも確かに、あたたかい。
流れ込んでくるものは、やっぱり穏やかで。
けれど、ほんのわずかに、奥で何かが削れる感覚もある。
それでも、昨日ほどではない。確実に、変わってきた。
離れたあとは呼吸が少しだけ楽になって、身体もほんの少し軽くなる。何かが、変わってると、ゆっくりと、実感する。
テオドールが、確認するように、見逃さないようにじっとこちらを見る。
「……どう?」
短い問い。
少しだけ考えてから。
「……少し、楽です」
正直に答える。
その言葉に、テオドールの表情が緩む。
その少しだけ口元が緩んだその表情を見て、胸の奥が、また揺れる。
私たちの関係も、この力も確かに、変わり始めているのだと思った。変わって行き着く先に待つものが何なのか、まだ分からない。けれど、この選択が正しいものであってほしいと思った。
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