37.満ちて、欠けていくもの
唇が離れたあとも、しばらく動けなかった。
触れていたはずの温度が、まだそこに残っているようで、指先も、胸の奥も、じんわりと熱い。さっきまで感じていたはずの不安や恐怖が、どこか遠くになくなったみたいで、代わりに残ったのは静かな満足感だった。
こんな感覚、知らなかった。
回復のときとは違う。満たされるのに、奪われていない。軽くなるのに、削られていく感じがしない。ただ、少しだけ自分の輪郭がやわらかくなって、誰かと重なっているような、不思議な感覚。
隣を見ると、テオドールも同じように黙っていた。けれど、その表情はどこか穏やかで、いつもの張り詰めた空気が少しだけほどけている。
先に口を開いたのは、テオドールだった。
「……さっきのは負担、なかったよね」
確認するような声音。私は小さく頷く。
「……はい。むしろ、楽で……」
言いかけて、少しだけ迷う。
この言葉を口にしていいのか、わからなくなる。でも、嘘をつきたくはなかった。
「……安心しました」
そう続けると、テオドールの目がわずかに揺れる。
その一瞬の変化を見て、胸の奥がまた小さく波打つ。
「……そっか」
そしてそのまま、自然に距離が近づく。今度は躊躇いもなく手が重なり、指が絡む。
その仕草すら、以前とは変わっていた。
今までは義務からくるものだったのに、今は離れたくないだけのように感じる。
ほんの少しの差なのに、それがこんなにも違って見えるなんて、思っていなかった。
しばらく、そのまま静かな時間が流れる。
何も起きていないのに、満たされている。
それが、少しだけ怖い。こんな状態がずっと続くはずがないと、どこかで知っているから。
そのとき。ふいに、胸の奥がずきんと痛んだ。
「……っ」
小さく息が詰まる。
何かが、引っかかるような感覚。
さっきまでなかった違和感が、じわじわと広がっていく。
「フェリシティ?」
すぐに気づいたテオドールが、手を強く握る。
その温度が、少しだけ意識を引き戻す。
「……大丈夫、です」
反射的に答えた。いつも、そう答えていたから、それ以外の伝え方を知らなかった。本当は、大丈夫じゃなくても。
さっきのやさしい感覚とは別のものが、確かに身体の奥で動いている。
これは知っている。力を使ったあとに来る、あの感覚に似ている。今は二人だけで、力を使ってすらいないのに。何も消費していないはずなのに。最近はそれがより顕著に感じられるようになった。
「……顔色、悪くなってる」
そのまま、顎に指がかかって、顔を上げさせられて、視線が合う。
「……俺には隠さないで」
静かに言われた言葉は、責めるわけではなかった。私を心配するための言葉。
「……少しだけ、違和感があって」
もう、ごまかさないで伝えようと思った。
「……さっきは何もなかったのに。力を使っていないのに。使った時みたいに、内側から、なくなっていくみたいに苦しくなりました」
それが、一番の違和感だった。何も力を使っていないのに、それと同じような違和感が胸の奥に残る。その話を聞いたテオドールの表情が、わずかに変わる。
考えている、そして。
「……タイミングのずれ。もしくは、力を使わなくても、聖女の力は本来減少していくものなのか?」
テオドールの言葉に、少しだけ寒気が走る。
"減少していくもの"というその言葉に、何もしなくても、神殿のものである以上、私は消費させられるためだけに存在しているのかもしれないという事実をつきつけられる。
「結局、何をしても同じなの……?」
さっきの優しい感覚も、結局は消費の一部なのかもしれない。
そう思った瞬間。胸の奥が、強く締めつけられる。
せっかく、違うと思えたのに。私は、最初から最後まで神殿のいいように使われて消えてしまうだけなのかもしれない。最初から自由なんてなかった。神殿に連れて行かれたときから、そうなる運命だったのだ。
目の前が真っ暗になりかけたそのとき、テオドールにぐっと強く引き寄せられる。
「……違うよ」
テオドールの声が、すぐ近くで聞こえる。
「同じじゃない」
テオドールははっきりと迷いなく言い切る。その言葉に、視線が揺れる。
「……でも」
反射的に、否定しかけてしまう。ずっと、そうだったから。何度も諦めて、それが普通だ思ってきたから、また、仕方ないと思ってしまった。
「ちゃんと一緒に考えるから。生きることを諦めないで」
その言い方は強かったけど、不思議と、優しかった。胸の奥のざわつきが、少しだけ静まる。
「……はい」
完全に納得したわけじゃない。
それでも、テオドールの言葉を、信じてみようと思った。
テオドールの手が、ゆっくりと背中に回された。
さっきよりも、少しだけ強く抱き寄せられる。
苦しくはない。むしろ、その圧が安心に変わる。側にいることを強く感じられる。
「……今日は、これ以上やめておこう」
珍しく、引く判断をした。それが少しだけ意外に思えた。
ちゃんと見てくれているんだと、そう思う。
ただ触れるだけじゃなくて、抑えることもできる。
その事実が、胸に残る。抱きしめられたまま、目を閉じる。
さっきの温度と、今の温度が重なって、ゆっくりと溶けていく。
満たされているのに。どこか、欠けていくような感覚。
それでもやっぱり、離れたいとは、思わなかった。
このままでいたいと、そう思ってしまう自分がいる。
危ういとわかっていても。戻れなくなると知っていても。この温度を、手放したくなかった。
静かな夜の中で、満ちていくものと、欠けていくものが、ゆっくりと重なっていく。
そのどちらもが、確かに自分の中にあるのだと。
初めて、はっきりと感じた。
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