36.願いのくちづけ
その日の夜は、思っていたよりも静かだった。
神殿の使いが去ったあとの城は、どこか息を潜めているよう。まるで何かが起きる前触れのような、不自然な静けさ。その中で、与えられた部屋にひとり座っていると、昼間の出来事がゆっくりと現実になっていく。
戻らないと決めたこと。
寿命が削れていると知ったこと。
それでもここにいたいと、口にしたこと。
全部、自分で選んだはずなのに、指先が少し冷える。
……これが、怖いということ。
小さく息を吐く。怖くないわけがない。消えてしまうかもしれない未来を、自分で引き寄せたのだから。でも、それでも、テオドールの側にいたいと、あのとき口にした言葉に嘘はなかった。
そのとき、控えめなノックが響いた。
「……フェリシティ」
名前を呼ぶ声に、顔を上げる。扉の向こうにいるのが誰か、確かめるまでもない。
「……はい」
返事をすると、静かに扉が開く。
入ってきたテオドールは、昼間と同じようでいて、どこか違って見えた。怒りを内に沈めたままの静けさではなく、何かを決めたあとのような落ち着き。けれど、その奥にあるものは、やはり強い。
「良かった、まだ起きてた」
そう言って、こちらへ歩いてくる。
自然な動きで、当たり前のように、隣に座る。
その距離に、もう戸惑わなくなっている自分に気づく。
「……眠れなくて」
正直に答えると、テオドールは小さく息を吐いた。
「そうだよね」
否定も、無理に励ますこともしない。
ただ、同じ側に立つような言い方だった。
そのことが少しだけ心を軽くしてくれた。それから、しばらく言葉はなく、ただ二人並んで座っていた。
沈黙が続いても、不思議と苦しくはない。
ただ、テオドールの隣にいることが、自然に感じられる。
その中でふと気づく。
今は――触れられていない。
いつもなら、手を取られるか、距離を詰められるか、何かしらの接触があるはずなのに、今日はそれがない。
それなのに、離れてるのに、さっきよりも、近く感じる。理由はわからないが、確かにそう思う。
「……フェリシティ」
不意に、名前を呼ばれ、現実へと引き戻される。
顔を上げると、視線が合った。
「……ひとつ、聞いていい?」
珍しく、テオドールが問いかける形になる。
そのことに、少しだけ驚いて息を呑む。
「……はい」
「昼間のこと、後悔してる?」
まっすぐな問いは、私が心の底でずっと考えていたことと同じだった。
ほんの一瞬だけ考えるたが、答えは決まっていた。
「……いいえ、後悔はしていません」
はっきりと伝える。怖さも、迷いもある。それは消えはしない。けれど、選んだことは間違いではないと思っていた。
側にいたいと思ったこと、それを今も望んでいることは確かだった。
テオドールが、少しだけ目を細める。
「……そっか」
少しだけ視線を落として、ほっとしたような表情をみせた。その仕草が、ほんの人間らしく見えた。
それを見て、胸の奥が、静かに揺れる。
「……あの、」
言葉を探すより先に、口が動いたことに、自分でも驚く。
少しだけ、迷ったが、最後まで伝えることにした。
「今は……触れても、いいですか」
言ったあとで、息が止まりそうになる。
テオドールの目が、ほんの一瞬わずかに見開かれる。
今までとは逆。本来必要としているのはは私だったのに、いつも、テオドールからだった。自分から、求めている。はじめて、求める側になった。その事実に、心臓が強くはねた。
「……いいよ」
やがて、静かに返される。その声が、少しだけ掠れていた。いつも、テオドールがしてくれたように、ゆっくりと、手を伸ばす。
頬に触れる指先が、かすかに震えているのがわかる。緊張しているのかもしれない。
触れた頬は温かくて、テオドールがここにいるということを実感させてくれた。
それだけで、張り詰めていたものがほどけていく。
これは、回復のためじゃない。義務でもない。
ただ――今は、私が彼に触れたいと、そう思ったから。そのまま、少しだけ距離を詰める。
テオドールは、拒まなかった。そこにいて、私が何をするのか待っている。
そのことが、なぜか嬉しくて少しだけ、苦しくなる。息が近づいて、視線が絡む。
「……テオドール」
名前を呼ぶ。初めて、意識して名前を呼んだ気がする。その響きが、自分の中に静かに落ちる。テオドールの瞳が、揺れたような気がした。
それを見て、もう、止まれないと思った。
確かめるように優しく重ねた。テオドールがいつもしてくれたように。唇が、ゆっくりと触れる。
一回離れてからも、どちらからでもなく、ただ、重なった。ただ、そこにある温度を分け合うような感覚だった。
あたたかくて。やわらかくて。少しだけ、切ない。
その中でふと、気づいた。
今までのものと明らかに何かが違うと。流れ込んでくる感覚が、穏やかだった。
無理に満たされるものではなくて、じんわりと、広がる。
違和感はほんの僅かなもの。けれど、これまでとは違う確かな変化だった。呼吸が重なる距離で、目が合う。
「……今の」
思わずそう呟くと、テオドールも、同じことを感じているようだった。
「……うん、違った」
それ以上の言葉はなかったが、お互いに、理解している。
何かが、ほんの少しずつ変わったのかもしれない。力の使い方や、流れや、関係が。
「どうして」
答えはないはずなのに、そう言わずにはいられない。
テオドールは、少しだけ考えてから。
「恐らく、無理に使ってないから……あとは、欲しかったから」
その言葉が、胸に落ちて、理解する。
消費でも、奪取でもない。分け合っている。だから壊れないという、そのことに、少しだけ、救われる。
テオドールが、ゆっくりと手を重ねられた。少しだけ握り返す。
「……ねえ、フェリシティ」
低く、呼ばれる。
「もう一回」
その言葉に、心臓が、強く跳ねる。
それでも、嫌じゃない。
「……はい」
今度は迷わない。少しだけ近づいてまた、唇が重なる。
今度は、少しだけ深く。それでもやっぱり優しい。
苦しくない。怖くない。
彼の側はあたたかくて。このまま、ずっとこうして、二人だけでいられたらいいのにと思ってしまった。
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