35.誰かの言いなりではなく
神官たちが去ったあとも、しばらく動けなかった。
静かになったはずの部屋はほっとするはずなのに、少し居心地が悪くて息苦しい。さっきまでそこにあった高圧的な空気が、まだ残っているみたいで、うまく呼吸ができない。自分で選んだはずなのに、その選択の重さが、今になってゆっくりとのしかかってくる。
戻らないと決めたのだ。
テオドールの側に、ここにいると自分で決めた。
それは間違いだったのだろうか。
考えようとするたびに、神官の言葉が蘇る。消費、効率、管理、早期消滅。どれも冷たくて、でも否定できない現実で、胸の奥に小さな棘のように残る。
怖い。
正直な気持ちが、浮かぶ。
消えてしまうかもしれないことも。自分の命が思っていたよりずっと短いかもしれないことも。でも、それ以上に、自分がそれを選んでしまったことが、怖かった。
逃げることもできたのに。従うこともできたのに。
どうして私は、あの言葉を選んだのだろう。戻ったからといって、長く生きられる保証なんてどこにもないのに。
「……フェリシティ」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
すぐ近くに、テオドールがいる。
さっきと同じ距離だったが、その目の奥にあるものが、少しだけ違って見えた。
どこか張り詰めているような、優しいのに、逃がさないようなそんな矛盾した目だった。
「とりあえず、座ろうか」
静かに促されるまま、椅子に座る。自分の足で歩いているはずなのに、どこか感覚が曖昧で、地面を踏んでいる実感が薄い。
私が座ると、その前にテオドールがしゃがみこんだ。
視線の高さが合う。さっきまでとは違って、怖くはなかった。
「……無理してない?」
テオドールの優しい声。
無理していない、と言えば嘘になる。
「……わかりません」
テオドールは、少しだけ目を細める。
否定もしないし、肯定もしない。ただ、そのまま受け取る。
「……そっか」
それだけ言って。
そっと、手を取られる。触れられる感覚。
あたたかい。それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
——回復。その言葉が、頭をよぎる。
反射的に、手を引きそうになったが、そのまま手は握られていた。
今は、その行為が回復だけの意味を持つわけではないと分かった。ここにいるために。側にいたいから、触れている。
そう思いたい。そう思ってしまう。
テオドールは何も言わないまま、指先を軽くなぞるように触れる。その仕草があまりにも自然で、まるで壊れ物を扱うみたいで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……あいつら、絶対また来るよ」
その声は落ち着いているが完全に敵を見る声だった。
「強行手段に出るかもしれない。今度は、話し合いじゃ済まないかも」
その言葉に、現実が戻ってくる。
終わっていない。むしろ始まったばかりだということ。私は神殿に逆らった。それがどういう意味をもつのか、ちゃんと理解しなければいけない。
「……はい」
小さく頷く。怖くても、もう知らないふりはできない。
「だから、これからは、俺がしっかり管理する」
テオドールが、少しだけ近づく。視線が、まっすぐに重なる。
その言葉に、一瞬、思考が止まる。
「……管理」
繰り返す。どこかで聞いた言葉。ついさっきまで、違う人たちが使っていた言葉。それと同じ響き。それなのに、まったく違う意味に聞こえる。
「無茶させないって言ったでしょ。消費も、回復も、全部」
一つ一つ、確認するように。
「俺が見る」
それは守る、ということ、
全部、これからは私たちの、自分たちの中で完結させなくてはいけない。
胸に手を当てる。心臓は、まだ速い。
怖さも消えていない。それでも、ここにいたいと思った自分がいる。その気持ちは消えていない。
「……はい」
それを受け入れる。
ほんの少しだけテオドールの表情がわずかに緩む。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
……ああ、気づいてしまう。
この人のそんな顔をまた見たいと思っている。
それが、どれだけ危ういことかも、わかっているのに。
テオドールは、ゆっくりと立ち上がる。手は、まだ繋がったまま、離さない。
「……今日は、もう休んで」
立ち上がろうとしたとき。少しだけ、視界が揺れる。
「……っ」
ぐらりと身体が傾いた。消耗という言葉が頭をよぎった。
テオドールの支える手が強くなった。転ぶことはなかった。
「……大丈夫?今、減ったよね」
その声に、はっきりとした苛立ちが混じる。神殿に向けたものか、自分に向けたものか、わからない。
「やっぱり座って」
立ち上がったばかりだったけれど、すぐに元の椅子に腰を下ろした。少しだけ安心する。身体を預ける、その瞬間。ほんの少しだけ、楽になる。
……ああ。
これも、回復。でも、これはそれだけじゃない。そう思いたい自分がいる。
テオドールが、静かに息を吐く。
そのままゆっくりと、顔を近づける。
触れる寸前で、止まる。確かめるように、こちらを見る。
「……いい?」
小さく、問う。今まで、聞かれたことのない問い。
選ばせるような言葉。それに、一瞬、戸惑った。
「……はい」
頷く。自分で、選ぶというその感覚を忘れないように。ここにいると望んだのは私なのだから。
唇が重なる。あたたかくて。やわらかくて、少しだけ、満たされる感覚。
それと同時に、どこかが、削れていく感覚もある。
それでも嫌じゃないと思ってしまう。
唇が離れる。視界が、少しだけはっきりする。
呼吸が、整う。さっきより、楽になっている。
でも、その裏で、何かが減っている。
それも、ちゃんとわかる。
……これが、自分の選んだもの。
その実感が、ゆっくりと胸に落ちていく。
テオドールが、額を軽く合わせる。
「……大丈夫」
その言葉が、何に対してなのかは、わからない。
それでも今はその言葉を信じてしまいそうになる。
やさしい檻の中で、私はまたひとつ、自分で選んでしまった。
少しずつ、戻れない方向へと進んでいると知りながら。
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