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聖女のくちづけは、毒よりも甘く  作者: 星那


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35/41

35.誰かの言いなりではなく


 神官たちが去ったあとも、しばらく動けなかった。


 静かになったはずの部屋はほっとするはずなのに、少し居心地が悪くて息苦しい。さっきまでそこにあった高圧的な空気が、まだ残っているみたいで、うまく呼吸ができない。自分で選んだはずなのに、その選択の重さが、今になってゆっくりとのしかかってくる。


 戻らないと決めたのだ。

 テオドールの側に、ここにいると自分で決めた。

 それは間違いだったのだろうか。


 考えようとするたびに、神官の言葉が蘇る。消費、効率、管理、早期消滅。どれも冷たくて、でも否定できない現実で、胸の奥に小さな棘のように残る。


 怖い。

 正直な気持ちが、浮かぶ。


 消えてしまうかもしれないことも。自分の命が思っていたよりずっと短いかもしれないことも。でも、それ以上に、自分がそれを選んでしまったことが、怖かった。


 逃げることもできたのに。従うこともできたのに。

 どうして私は、あの言葉を選んだのだろう。戻ったからといって、長く生きられる保証なんてどこにもないのに。


「……フェリシティ」


 名前を呼ばれて、顔を上げる。


 すぐ近くに、テオドールがいる。

 さっきと同じ距離だったが、その目の奥にあるものが、少しだけ違って見えた。

 どこか張り詰めているような、優しいのに、逃がさないようなそんな矛盾した目だった。


「とりあえず、座ろうか」


 静かに促されるまま、椅子に座る。自分の足で歩いているはずなのに、どこか感覚が曖昧で、地面を踏んでいる実感が薄い。


 私が座ると、その前にテオドールがしゃがみこんだ。


 視線の高さが合う。さっきまでとは違って、怖くはなかった。


「……無理してない?」


 テオドールの優しい声。

 無理していない、と言えば嘘になる。


「……わかりません」


 テオドールは、少しだけ目を細める。

 否定もしないし、肯定もしない。ただ、そのまま受け取る。


「……そっか」


 それだけ言って。


 そっと、手を取られる。触れられる感覚。

 あたたかい。それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。


 ——回復。その言葉が、頭をよぎる。

 反射的に、手を引きそうになったが、そのまま手は握られていた。


 今は、その行為が回復だけの意味を持つわけではないと分かった。ここにいるために。側にいたいから、触れている。


 そう思いたい。そう思ってしまう。


 テオドールは何も言わないまま、指先を軽くなぞるように触れる。その仕草があまりにも自然で、まるで壊れ物を扱うみたいで、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「……あいつら、絶対また来るよ」


 その声は落ち着いているが完全に敵を見る声だった。


「強行手段に出るかもしれない。今度は、話し合いじゃ済まないかも」


 その言葉に、現実が戻ってくる。

 終わっていない。むしろ始まったばかりだということ。私は神殿に逆らった。それがどういう意味をもつのか、ちゃんと理解しなければいけない。


「……はい」


 小さく頷く。怖くても、もう知らないふりはできない。


「だから、これからは、俺がしっかり管理する」


 テオドールが、少しだけ近づく。視線が、まっすぐに重なる。

 その言葉に、一瞬、思考が止まる。


「……管理」


 繰り返す。どこかで聞いた言葉。ついさっきまで、違う人たちが使っていた言葉。それと同じ響き。それなのに、まったく違う意味に聞こえる。


「無茶させないって言ったでしょ。消費も、回復も、全部」


 一つ一つ、確認するように。


「俺が見る」

 

 それは守る、ということ、

 全部、これからは私たちの、自分たちの中で完結させなくてはいけない。

 胸に手を当てる。心臓は、まだ速い。

 怖さも消えていない。それでも、ここにいたいと思った自分がいる。その気持ちは消えていない。


「……はい」


 それを受け入れる。

 ほんの少しだけテオドールの表情がわずかに緩む。

 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 ……ああ、気づいてしまう。


 この人のそんな顔をまた見たいと思っている。

 それが、どれだけ危ういことかも、わかっているのに。

 テオドールは、ゆっくりと立ち上がる。手は、まだ繋がったまま、離さない。


「……今日は、もう休んで」


 立ち上がろうとしたとき。少しだけ、視界が揺れる。


「……っ」


 ぐらりと身体が傾いた。消耗という言葉が頭をよぎった。

 テオドールの支える手が強くなった。転ぶことはなかった。


「……大丈夫?今、減ったよね」


 その声に、はっきりとした苛立ちが混じる。神殿に向けたものか、自分に向けたものか、わからない。


「やっぱり座って」


 立ち上がったばかりだったけれど、すぐに元の椅子に腰を下ろした。少しだけ安心する。身体を預ける、その瞬間。ほんの少しだけ、楽になる。


 ……ああ。

 これも、回復。でも、これはそれだけじゃない。そう思いたい自分がいる。

 テオドールが、静かに息を吐く。

 そのままゆっくりと、顔を近づける。

 触れる寸前で、止まる。確かめるように、こちらを見る。


「……いい?」


 小さく、問う。今まで、聞かれたことのない問い。

 選ばせるような言葉。それに、一瞬、戸惑った。


「……はい」


 頷く。自分で、選ぶというその感覚を忘れないように。ここにいると望んだのは私なのだから。


 唇が重なる。あたたかくて。やわらかくて、少しだけ、満たされる感覚。


 それと同時に、どこかが、削れていく感覚もある。


 それでも嫌じゃないと思ってしまう。


 唇が離れる。視界が、少しだけはっきりする。

 呼吸が、整う。さっきより、楽になっている。


 でも、その裏で、何かが減っている。

 それも、ちゃんとわかる。


 ……これが、自分の選んだもの。

 その実感が、ゆっくりと胸に落ちていく。

 テオドールが、額を軽く合わせる。


「……大丈夫」


 その言葉が、何に対してなのかは、わからない。


 それでも今はその言葉を信じてしまいそうになる。


 やさしい檻の中で、私はまたひとつ、自分で選んでしまった。


 少しずつ、戻れない方向へと進んでいると知りながら。

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