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聖女のくちづけは、毒よりも甘く  作者: 星那


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34.それでも、ここにいたい


 連れていかせないというテオドールのその言葉が、まだ耳の奥に残っている。


 テオドールの背中は、今まで見たどの姿よりも大きくて頼もしかった。その瞳からは迷いが感じられなくて、頼ってもいいのだと思えた。その前に立つ神官たちは変わらず整然としているのに、先ほどまでよりも距離が遠く見える。あの人たちの言葉は正しくて、昔の私なら疑うこともなく従っていたはずなのに、今はその一つ一つが、冷たい刃のように感じられる。


 ――回収。


 その言葉を思い出すだけで、心がざわついた。あれは人に向ける言葉ではない。物を扱うような、代替可能なものに向ける響き。けれど、あの人たちにとっては、それが正しいくて、普通のことなのだと分かってしまう。私はそういうふうに育てられた。番号で呼ばれ、選別され、残った者にだけ役割が与えられる。名前をもらったとき、何かが変わったと思った。でも違った。根本的なことは変わっていなかった。聖女という役職がついたことでより扱いやすくなっただけだったのかもしれない。


 寿命を削っていた。初めて聞く重い事実。回復すればいいと思っていた。触れれば満たされる、キスをすれば戻る、それで帳尻は合うのだと、そう教えられてきたし、そう信じていた。でもそれは違った。回復は救いじゃない。ただの延命で、しかもそれは次の消費を加速させる仕組みだった。知らないまま、私はずっと自分を削っていた。誰かを救うたびに、少しずつ、確実に。それなら、私は何のために生きているのだろう。救うためなのか、使われるためなのか、消えるためなのか。


 足元が崩れ落ちたかのように、身体が震えた。視界が揺れる。けれど倒れないのは、テオドールが側にいてくれるから。近くにいるだけでわかる、あの人の静かな熱。守られている、なんて言葉は似合わないはずなのに、今はそれに近いものを感じてしまう自分がいる。おかしい。私は守られるためにここにいるわけじゃなかった。そういう存在ではなかったはずなのに——どうして。


「聖女様、時間がありません」


 神官の声が現実に引き戻す。


「あなたの状態はすでに許容範囲を超えています。これ以上の自由行動は、消費を無駄に増やすだけです」


 無駄というその一言が、ひどく胸に刺さる。ここで過ごした時間が、全てが無意味なものだと言われた気がした。この人と過ごした時間も、触れ合った瞬間も、笑ったことも、全部。ただの損失だと、そう断じられたようで、胸が強く痛む。


「……違う」


 気づけば、声が出ていた。自分でも驚くほど小さい声だったのに、場が静まり返る。

 

「何がでしょうか」

 

 すぐに返される問いに、言葉が詰まる。うまく説明できない。理屈じゃないから。でも、それでも、否定しなければいけない気がした。


「……無駄なんかじゃ、ありません」


 それだけなんとか絞り出す。神官の表情は変わらない。理解する気もない顔。

 

「感情は判断基準になりません」


 淡々とした返答。だからこそ、息が苦しくなる。


 そのとき、頭上で声が落ちる。


「もういい」

 

 テオドールの声だった。静かだけれど、さっきよりもはっきりとした怒りを含んでいる。


「これ以上、話す必要はない」


 庇うように一歩前に出る気配がした。神官たちとの距離が、さらに遠くなる。


「彼女は行かないと言っている」

 

「決定権は神殿にあります」


「そんなこと知らない。今は、俺が決める」


 そのやり取りを聞きながら、胸の奥がざわざわとした。守られている。そう感じてしまうことが、怖い。ここにいたいと願う理由が、また一つ増えてしまうから。私はそういう理由で選んではいけないはずなのに。任務でも義務でもなく、ただの感情で動いてしまえば、それはきっと間違いになる。それでも――


 頭の中に、これまでの時間が流れる。初めて触れたときの、戸惑い。キスのたびに奪われるような感覚と、そのあとに残る妙な安堵。名前を呼ばれるたびに、少しだけ自分が“番号ではない何か”になれた気がしたこと。お菓子を差し出されて、初めて味わった甘さに目を見開いた自分を、嬉しそうに見ていたあの人の顔。あれは全部、任務には必要なかった。なくても成り立つものだった。なのに、確かにそこにあった。あの時間がなければ、今の私はここでこうして迷うこともなかったはずなのに。


 それでも。

 胸に手を当てる。速く打つ心臓の音が、自分のものだとやっと実感できる。これは命だ。削られていくもの。消費されるもの。同時に自分で使うこともできるものだと。


「……行きません!」


 自分でも驚くくらい、大きくてはっきりとした言葉が出た。


 神官たちの視線が一斉にこちらへ向く。


「再考を」

 

 すぐに神官から言葉が飛んでくる。


「聖女様、今あなたは感情に流されています。これは長期的に見て――」

 

「それでもです」

 

 こんなふうに人の言葉を遮ったのは初めてかもしれない。いつも言われるままに行動をしてきた。それが当たり前だった。だから、こうして自分の意思を伝えることも、少しだけ勇気がいった。

 

「……それでも、ここにいたいです」


 声は震えているのに不思議ともう足は震えなかった。理由を問われる前に言葉を続ける。


「私は、聖女です。力も使います」

 

 それは変えられない事実だ。 


「削れた寿命が戻らないことも、今知りました」


 さっき知ったばかりの現実。でも、もう無視はできない。

 

「それは、神殿に戻ったから、解決するわけではないですよね。それなら、残されたものをどう使うかは……自分で決めたいです」


 神官たちは何も言わない。テオドールも口を開かずに黙っている。たぶん、私の言葉を待っている。


「……ここにいれば、無駄だと言われるかもしれません」


 視線を落とさないようにする。自分の意思でこれを伝えていると分からせるために。


「それでも、私はそう思いません。ここで過ごした時間は消費じゃないです。……初めて自分で何かを選ぼうと思えた時間でした」


 うまく言えているかはわからない。


「だから戻りません。今は……まだ」


 まだという言葉に、自分で少しだけ救われる。完全に断ち切るわけじゃない。逃げるわけでもない。ただ、今この瞬間の選択を、自分で決めるたのだ。


 長い沈黙のあと、神官の一人が口を開く。


「……記録します。聖女個体の自発的逸脱を確認」


 淡々とした声だった。


「ただし、この判断には責任が伴います。消費の加速、制御不能、最悪の場合の早期消滅――すべて、自己責任となります。今のあなたは、神殿に戻り、神の治療を受けるべきなのです」


 脅しではなく、重くのしかかる事実が述べられれ。


「……その治療を受けて、何も考えずに動くだけの機械のようになった私は、果たして私といえるのですか」


 神官たちは、私の問いかけに誰も答えてはくれなかった。

 ここに残って、ただ消えていくだけなのかもしれないという事実も怖かった。正直に言えば、今すぐ逃げ出したいくらいだ。それでも私は帰るということを受け入れることはできなかった。


「私の意思が尊重されないような場所へ、戻りたくはありません」


 神官たちはそれ以上何も言わず、静かに一礼する。


「本件は上層部へ報告いたします。対応は追って」


 それだけ残して、去っていく。足音が遠ざかるたびに、部屋の空気が少しずつ戻ってくる。


 扉が閉まったあと、しばらく誰も動かなかった。ようやく息を吐いたとき、膝の力が抜けそうになる。それを支えるように、腕が回された。


「……怖かった?」


 すぐ近くで聞こえるテオドールの声。

 少しだけ迷ってから、頷く。


「……はい」


「そっか」

 

 短い返事。そのまま、少しだけ抱き寄せられる。続く言葉は、思っていたよりも穏やかだった。


「よく言った」


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。認められた、と思ってしまう自分がいる。それがまた、少し怖い。でも――それ以上に、安心する。


「……無茶はさせないから」

 

 ぽつりと、テオドールの呟きが落ちた。

 

「あいつらのやり方じゃなくて、別のやり方でやる」


 神殿への敵意は隠さないまま、それでも声は落ち着いている。

 

「だから、ここから、俺から逃げないで」


 その言葉に、さっきと同じ重さを感じる。束縛にも似ているのに、不思議と拒めないのは、相手がテオドールだから。


「……はい」


 小さく答える。

 抱きしめられたまま、目を閉じる。怖さは消えない。寿命が削れる現実も、消えない。でも、それでもここにいると決めたのは、自分だ。その選択が正しいかどうかなんて、まだわからない。ただ、ひとつだけ確かなのは――ここにいたいと思った気持ちだけは、嘘じゃないということだった。

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