24.引き返せない
――ただの気まぐれだった。
あのとき、聖女を見に行こうと思い、足を運んだのも、声をかけたのも。距離を詰めたのも。全部。軽い興味の延長の、はずだった。
書類を前にして。
エメリヒは、ペンを止めたまま動かない。
視線は紙の上。しかし、頭の中には何も入ってこない。
浮かぶのは、聖女――フェリシティの顔だった。
わずかに揺れた表情。迷い。拒まなかったあの一瞬。
それが。頭の中で、何度も繰り返される。
「……重症だ、これは」
ぽつりと呟く。本来なら。関わるべきじゃない。
テオドールの管理下あり、神殿の駒。明らかに神殿が送り込んだものだと分かっている。政治的に最悪の位置。
エメリヒも立場を悪くすると理解している。
それでも彼女のことを考えるのをやめられない。
彼女の扱われ方にも疑問を抱いているし、目が離せなくなっていた。
好意を抱いているのかもしれない、そう思ってしまった時点で、もう駄目だった。
ノックの音。
「エメリヒ殿下」
扉が開かれた。
入ってきたのはエメリヒの婚約者、イザベラ・フロスト公爵令嬢だった。
非の打ち所のない所作は、王妃教育を受けた、完璧な令嬢であることが分かる。
「最近、お忙しいようですわね」
柔らかい声をしているが、その瞳は笑っていない。
「そうだな」
エメリヒは軽く流すように返事をした。いつも通りの調子で、イザベラを横目に手元に目線を戻す。
「聖女の件で、色々と動きがあると聞きました」
一瞬だけ、室内の空気が止まった。
エメリヒはあえてそのことを口にはしていなかったが、情報は回るものだ。人の視線というものは、どこにでもある。特にこの城内でおきたことはすぐに広まった。それが本当のことか、嘘のことか見抜く目も必要だった。
「よく知ってるな」
「当然です。殿下が関わっているという噂もございます」
イザベラは核心に触れる。
「所詮は噂だろ」
「そうでしょうか」
イザベラはエメリヒの方へと一歩、近づく。
「……あの方に、興味を持たれているのでは?」
それは図星だった。それでもそれを公に認めるわけにはいかない。
「仮にそうだとして何か問題ある?」
あくまで余裕を崩さずにわざとらしく、聞き返す。これまでもそうだった。婚約者というイザベラがありながら、気に入った者を側に置く。もちろん相手も婚約者がいることを知っており、後腐れない関係を築いていた。
その時も軽く咎めるようなことはあったが、ここまで露骨に話題に出す様なことはなかった。しかし、聖女という立場はやはり別格なのか、イザベラも黙ってはいられなくなったようだ。
そのあっけらかんとしたエメリヒに、イザベラの表情が、ほんのわずかに揺れた。
「……ございます」
イザベラははっきりとそう言い切る。
「殿下のお立場を、お忘れですか」
分かっている。王位継承。婚約。均衡。エメリヒは全部、理解している。
「別に、何もしてない」
それもまた事実ではある。聖女を無理矢理にでも奪ってはいない。
「……ですが」
「――分かっている」
珍しく遮って否定した。エメリヒ自身も少し驚くくらいだった。
「分かっているんだ」
イザベラが、その様子に言葉を失う。その中でエメリヒ自身もまた考えていた。……ほんとに、分かっているのか?
エメリヒは自分に問いかける。
答えはもう出ている。分かっていて、やめる気がないのだと。
「……失礼いたします」
イザベラは、静かに頭を下げる。
それ以上は、何も言わない。
ただ去る直前、ほんの一瞬だけ、振り返ったその目には。明確な、不安と疑いがあった。
扉が閉まり、一人になる。
「……最低だな」
ぽつりと呟く。全部、分かっている。
婚約者を裏切ること。立場を揺るがすこと。
政治的に致命的なことも。それでも、今頭の中に浮かぶのは――フェリシティのこと。
もう一回、話がしたい。
その程度のこと。たった、それだけの願いが、一番、厄介だった。
「……あと一回だけ」
また、同じ言葉を繰り返す。あの質問の答えを確認するだけ。そうやって理由をつける。
それでも、自分でも気づいていた。これは確認なんかではない。フェリシティの心に踏み込みたいだけだと。
フェリシティがテオドールを見る目と、テオドールがフェリシティを見る目はどう見ても愛しい者を見るそれだった。それでも、エメリヒはそれが面白くなかった。
フェリシティはそれを恋だと理解していないようだった。だからこそ、揺さぶりをかけた。
依存という言葉を使ったのも、そのためだ。
エメリヒの心に多少の罪悪感はあったが、テオドールは囲い込むだけで、二人の関係がはっきりとしていないのならばまだ付け入る隙はあると思っていた。
聖女を手に入れることができれば、王位を継承する者として万丈なものにできるだろう。あの力があれば、困った民を救うことや貴族への根回しも可能だ。
別に彼女を王妃として迎え入れなくても構わない。王位につければ、父のように複数の妻を迎え入れることもできるだろう。どのような立場でも、側に置いておきたいという気持ちは変わらなかった。
そこに、フェリシティの気持ちは存在していなかった。
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