22.嫉妬
早朝、私は聖女としての仕事のため、城内を移動していた。
「……こちらへ」
リアが先導し廊下を進む。
人の気配はあるが、近づいてこない。
視線だけが、遠巻きに向けられるようになった。それはきっとテオドールが根回ししたからだろう。最初は違和感を感じていたが、今はテオドールがいれば十分だと思っていた。
それにしても今日は人が随分と少ない。
ざわざわと喧騒が大きくなったと思った時、軽い声が突然後ろから響いた。
「やっと見つけた」
振り返ると、そこにいたのは——第一王子エメリヒだった。
初めて会った時と同じ余裕のある笑みをしていたが、その歩みには迷いがない。明確にこちらに向かっている。
「……殿下」
リアがエメリヒの行動を遮るように、すぐに前に出る。
「聖女、今ちょっといい?」
リアの静止も気にせず、エメリヒはそのまま歩み寄ってくる。
「本日はご予定が——」
「知ってる。だから来た」
あっさりとまたその言葉を遮る。その視線がまっすぐ私に向けられた。
……意図的に、エメリヒが人払いをしていたのだと理解する。この邂逅も偶然ではないのだと。
「少し話すだけだからさ」
そう言って、さらに距離を詰める。
「……お控えください」
リアが強く言う。
「じゃあさ、本人に聞こうか」
第一王子は、気にした様子もなく続ける。その言葉で、空気がわずかに変わる。
「聖女」
エメリヒは、私を名前ではなく、役割で呼ぶ。ここにいる誰もがそうだ。私を私個人として扱うのは、テオドールくらいのもの。けれど、エメリヒのその目は真剣だった。
「話すくらい、問題ないよな?俺はこないだ尋ねたことも知りたいし、確認したいことがあるんだ」
第一王子側には、護衛も控えている。ここで変に波風立てるわけにもいかない。
本来なら、制限されている。接触も、会話も。それを理由に拒むのは。それは誰の意思なのか。……私の意思ではない。決めたのはテオドールだと、そう気づいてしまう。それでいいと思っていた。けれど、私も、彼の言う自分の意思が何なのか知りたかったのかもしれない。
「……少しだけ、でしたら」
気づけば、そう答えていた。リアが息を呑む気配がしたが、もう遅い。
「ほら」
エメリヒが、満足そうに笑う。
「本人はいいって言ってる」
そのまま、一歩、近づいて距離が近づく。そうして、エメリヒの手が、こちらへと伸びる。手を取られた。
わかっている。これは、本来許されていない。
でも。止める言葉が、出ない。その瞬間——
「——兄上」
低い声がその場に割り込む。
空気が一気に張り詰めた。振り向かなくてもわかる。テオドールがいた。次の瞬間、腕を引かれ、体が後ろへ引き寄せられる。今までの距離が一瞬で変わった。
「……勝手なことをしないでいただけますか」
テオドールの声は静かだったが、明確に怒りを孕んでいた。
「いいだろ、別に。聖女がどんなものか知りたい。それだけなのに」
エメリヒが肩をすくめる。余裕を崩さない表情だ。
「兄上には必要ありません」
テオドールはそのまま私を抱き寄せる。まるで、見せつけるように。
「……さすがに、過保護すぎない?」
エメリヒの視線が私たちふたりをなぞるように向けられる。
「それとも、所有物だと思っている?」
エメリヒの問いかけにテオドールは何も言わなかったし、否定もしない。腕の力がわずかに強くなる。
「……へえ。なるほどね」
エメリヒがゆっくりと笑う。今度は少しだけ楽しそうに見えた。
その視線が、再び私へ向けられた。
「——やっぱり、気に入った」
小さく呟かれた言葉は、明らかに私への興味を示すものだった。
「邪魔が入ったらしょうがない。聖女、また来る」
手をひらひらと振ってエメリヒは背を向けた。引き際はしっかりと理解しているのだろう。けれど、残された空気は重かった。
そのまま腕を引かれ、無言のテオドールに連れられていく。
近くの誰も居ない部屋へ連れ込まれると、テオドールは私を壁に押し付けた。
「……フェリシティ」
低く名前を呼ばれる。
顔を上げると、テオドールの目が、こちらを見ている。
静かで。冷静な声。それでも、明らかに怒っていた。
「……さっきの、何」
言葉が出ない。
ただ胸の奥が、少しだけざわついていた。
エメリヒに話をしてもいいと答えたこと。それが想像以上に、テオドールの心を騒がせることだったなんて考えもしなかった。
「テオドールの、お兄様にあられる方で、第一王子殿下です。勝手に私の一存で、断ってもいいものか、判断がつきませんでした」
なんとなく、口をついて出た言葉はこの場を収めるのに相応しい意味を持っていた。
「……確かに、兄上の立場上、フェリシティが断るのは難しい、か。ごめん。嫌な聞き方した」
「いえ、心配かけました」
「ごめん。心配したわけじゃない」
そう言ってテオドール後ずさり、押さえつけていた腕を離した。
「……嫉妬した。結局、君も兄の方がいいのかって」
顔を少し赤らめて俯いたテオドールから目が離せない。
「テオドール……」
「兄上は昔から何でもできる。剣や魔法の腕もいいし、家の期待も全部背負っている」
低く吐き出す声は、どこか苦しそうだった。
「俺が頑張っても、結局スペアでしかない。だから……」
そこで言葉が途切れた。
私は胸の奥がぐっと締めつけられた。以前、外で話していた内容を聞いてしまった時。なんてことない様に話していたけれど、テオドールも辛かったのかもしれないと。
「フェリシティが、俺の元に来たのは、アウグストの差金だと分かっていても、君が側にいて欲しいと思ってしまった。きっと、聖女としての立場をうまく使いこなせるのは、兄上の方なのかもしれないと理解はしているつもりだ」
テオドールの口から漏れた本心で、彼がこれまでの不安を抱え込んだ、不器用な男の人に見えた。全てを分かった上で、私を側に置いているのだと。彼に報いたいと、私は思った。
「……私は」
口を開きかけて、少し迷う。テオドールがこちらを見る。その瞳はいつもより弱く、揺れていた。
「私は、たしかに、アウグストの命を受けてここへ来ました。でも、今の私はテオドールの聖女です」
静かな声で言うと、テオドールの目がわずかに見開かれる。
「……そういうこと、簡単に言わないでよ」
「え?」
「期待、するじゃん」
掠れた声がして、次の瞬間、再び壁に手がついた。
逃げ道を塞ぐように、私のすぐ横へ。さっきよりも近づいた距離。
いつもなら、回復のためだからと抱きしめたり、キスをしたりしているけれど、テオドールの顔は真剣にこちらを見ていた。
「テオドール……?」
名前を呼ぶと、彼は少しだけ目を伏せた。
「今、すごく抱きしめたい」
真っ直ぐな声だった。思わず、心臓が跳ねる。
そんな風に、今まで言われて触れられたことなんてなかった。テオドールは、どうしてしまったのか。逃げた方がいいのか、離れた方がいいのか分からない。けれど足は動かなかった。
テオドールの指先が、そっと私の髪に触れる。
「……嫌なら、止めて」
囁く声が近づいてくる。その距離が、ゆっくりと縮まっていった。私は息を呑んだ。近すぎる距離に、視線を上げることもできない。テオドールの指先が頬に触れ、その熱に心臓が大きく跳ねる。どきどきと高鳴る胸を、治める方法なんて知らない。
「……止めないんだ」
低く落ちた声が耳をくすぐった。私は答えられない。今まで許可なんて求めてこなかったのに。何故今になってそんな確認をするのか、分からなかった。代わりに、ぎゅっとドレスの袖を握る。
その小さな仕草に、テオドールがふっと息を漏らした。
「フェリシティは、ずるいね」
囁いた直後、彼の額がそっと触れる。触れそうで触れない距離。焦らすように視線が絡み、時間だけがゆっくり流れていく。
私が小さく目を閉じたその瞬間だった。テオドールの唇が、そっと重なる。
驚くほど優しいキスだった。触れるだけの、確かめるような口づけだった。
離れた瞬間、私の胸は苦しいほど高鳴っていた。
「テオドール、どうして……」
互いの距離はまだ近いままだった。テオドールが掠れた声で呟く。
「思ったより、我慢できない」
そうしてもう一度、今度は少し深く、ゆっくりと唇が重なった。
壁に追い詰められたまま、私は目を閉じる。
テオドールの手がそっと腰へ触れる。
逃がさないように、けれど壊れ物を扱うみたいに優しい。そんな優しいキスは初めてで、思わずテオドールの身体にそっと腕を回した。
キスが終わっても、二人とも離れられなかった。
「……もう、兄上に劣等感を抱くのは止める。だから俺だけを見ていて」
囁かれたテオドールの声に、私は頷くことしかできなかった。
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