19.繋がる痛み
その日の夜。
一人になった瞬間急に力が抜けた。
「……っ」
ふらついた身体を支える様に壁に手をつく。息が荒くなって、視界が揺れてしゃがみ込んだ。
……おかしい。回復しているはずなのに。
むしろさっきよりも消耗していた。体の奥が、空に近い。何かが削れている感覚が今までより深くなっている。
胸の奥がざわついているようで、落ち着かない。何かが溢れだしそうな、知らない感覚で、危険だと本能でわかる。
――そのとき。
「……フェリシティ、いる?」
扉が開く音と、テオドールの声。振り返る間もなく、視界がぐらりと傾いた。
その瞬間、空気がわずかに歪む。触れていないのに、周囲のものが、微かに揺れたように感じた。
理解する。
これは――魔力制御が、崩れかけている。体から溢れていく。満たされているはずなのに足りないのは溢れて減っていくから息が、うまくできないのだと。
「……フェリシティ、しっかりして」
テオドール今までにない、わずかな焦りが混じったような声を出す。
視線を上げると、ぼやける視界の中でテオドールの姿だけが、はっきりと見えた。
その感情が初めて、はっきりと形を持った。視界が、揺れる。息が、うまく吸えない。
「……フェリシティ!」
強く名前を呼ばれる。
腕を掴まれる。引き寄せられる。
テオドールの顔が、すぐ近くにあった。
その声には、明らかな焦りが感じられた。
今まで聞いたことのない響き。
「……っ、」
答えられない。言葉にならない。
ただ、苦しい。それしか、わからなかった。
小さな音が響いた。視界の端。
机の上のガラス器が、ひび割れている。触れていないのに、空気が、歪んでいる。風もないのにカーテンが揺れる。壁にかけられた装飾が、わずかに軋む。
魔力を制御できそうになかった。
「……まずいな」
テオドールが小さく呟く。
その手が、強く私を引き寄せる。
「フェリシティ、俺を見て」
顎を軽く持ち上げられる。視線を合わせられる。
「こっち」
逃げ場を与えないように。まっすぐに。
……ほしい。その衝動が、はっきりと形になる。
目の前にいる存在。それだけを、求めてしまう。
「……っ、」
無意識に、彼の服を掴む。指先に力が入る。
離れたくない。もっと——
「……そんな顔、するんだ」
低く、かすれた声。驚きと、何かを堪えるような響き。
次の瞬間。テオドールの顔から迷いは消える。
「……しょうがない」
次の瞬間。
強く、引き寄せられた。
抱きしめられる。逃がさないように。
背中に回された腕が、しっかりと力を込める。
そのまま唇が、重なった。最初からさっきまでとは違う。深く、強く、逃がさないように。
「……っ、」
息が詰まる。けれど、すぐに流れ込んでくる熱と、圧倒的な感覚。
空だったはずの内側が、一気に満たされていく。
……これが求めていたもの。
はっきりと、わかる。思考が、ほどける。力が抜ける。
でも同時にまだ足りないと感じてしまう。
無意識に彼に縋る。離れないように。逃がさないように。
「……っ、フェリシティ」
名前を呼ばれる。今度は、はっきりとした焦りを含んでいた。それでも。離れない。むしろ、深くなる。抑え込むように。暴れるものを、無理やり鎮めるように。
その瞬間。抱きしめる腕がさらに強くなる。
「……落ち着いて、大丈夫だから」
耳元でテオドールの声がした。
「大丈夫だから」
その声に、わずかに意識が引き戻される。
そして。次の瞬間——違和感が走った。
流れ込んでくるはずの力。その一部が。
逆に、引き抜かれるような感覚。一瞬、理解が遅れる。でも確実に、自分の中から溢れたものがテオドールの方へ流れていた。
「……っ、」
ほんの一瞬だけ。彼の呼吸が、わずかに乱れる。
苦しそうに見えたが、それは、すぐに消える。
それは見逃せるものではなかった。
……今のは、いったい——。何が起きたのかわからない。それでも確かなのは、自分の負荷が、ほんの一瞬、軽くなったこと。
その間にもキスは続く。
やがて、少しずつ溢れ出ていた魔力が収まっていく。空気の歪みも静まる。これ以上この室内が荒れることもない。
そしてゆっくりと唇が離れる。荒い息遣いだけが、部屋に響いている。
「……は、」
息を吸う。やっと。空気が入る。
体の震えが、少しずつ収まっていく。
視界が戻った。目の前にいるのは——テオドール。
その表情が、安堵に変わっていた。
「落ち着いた?」
「ごめんなさい。迷惑かけました」
縋りついて離れたくないと思ってしまったことが恥ずかしくて、目を逸らす。
「無事ならいいんだ。でも、一つ教えて……今の、何」
低く問う。
冷静を装っているが、明らかな動揺を完全には隠せていない。
「……わかりません」
正直に答えるしかない。本当に、わからなかった。
テオドールは、しばらく黙ったままこちらを見ていた。
本当に、わからない。ただ一つだけはっきりしていることがある。
……ほんの一瞬だけ軽くなった。自分の負担が、軽減された。その代わりに、彼の呼吸が、乱れた。
テオドールは、しばらく黙っていた。
何かを考えるようにした後。彼はゆっくりと息を吐く。
「……さっき一瞬、力が抜かれるような感覚があった」
その言葉に、息が止まる。
「……その後俺の方に流れ込んで来た」
視線が、鋭くなる。
それが意味するものは何なのか、まだ、完全ではない。それでも今起きたことは、明らかに異常だった。
「……力を使った後はいつも、あの痛みを伴うの?」
「そうですね」
「なんで今まで黙ってたの?……っ、それが、君にとって当たり前だったんだよね、ごめん。怒鳴ったりして」
私が黙っていたことも、瞬時に理解して判断する。
私がうまく説明できなくても、こんなふうに、すぐ察してくれるのはテオドールだけ。
「……さっきより、落ち着いてる」
確認するように言う。
「……はい」
頷く。さっきまでの暴走は、収まっている。
完全ではないが力は安定していた。
「……たまたま、俺が来たからよかったけど。これ、放っておいたらどうなってたんだろうね」
「それは……」
ぞくり、とする。それはあまりにも、嫌な予感を伴っていた。
「……次から、何がおかしいと思ったらすぐに些細なことでも相談して。あと力は半分程度しか使わない、使い過ぎない。おかしい時はすぐ回復。分かった?」
「はい、ありがとうございます」
こんなにも、私の心配をしてくれる人がいるなんて。私の能力に触れ続けていたら、依存しておかしくなると、アウグストは言ったけれど。テオドールは変わっていない、と思う。
抱きしめられた腕の中離れられない距離で、彼の側は落ち着いて、居心地がよかった。
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