17.雨の日の夜
日が沈み、夜も更けた頃のことだった。テオドールは執務室で仕事を行なっていた。
窓の外では雨が降っていた。静かな雨音が部屋に響いている。
私はソファに座りながら本を読んでいた。
その向かいで、テオドールが書類を眺めている。
最近では、こういう時間は珍しくなくなっていた。
彼が仕事をして、私が終わるのを待つ。彼が疲れた頃にお茶を飲んで時々話をする。そんな時間が少しずつ増えていた。
「……まだ終わらないんですか?」
私が尋ねるが、テオドールは書類から顔も上げない。
「あと少し」
「さっきもそう言っていました」
「もうすぐ終わる」
「嘘ですね」
思わず笑っていた。テオドールも僅かに口元を緩めた。
そんな普通の会話をするみたいなやり取りが自然になっている。
初めて会ったときなら考えられなかった。敵に取り入るみたいだと思っていた。しばらくして、最後の書類に署名を終えたテオドールが大きく息を吐く。
私が立ち上がった。
「お疲れ様です」
彼の隣へ歩いていく。
最近では当たり前になった動作。
軽く屈んで目を閉じると、それが合図になった。
そっと唇が重なった。短い口づけ。温かな魔力が流れるのがわかる。
はじめてこうしたときは、顔を合わせるのも気まずいと思っていたけれど、今は普通に会話ができるようになった。
ふと、机の端に置かれた小さな写真立てが目に入った。
珍しい――と思ってしまう。テオドールの執務室には私物がほとんど置かれてなかったからだ。
銀色の髪をした、綺麗な女性だった。年は少しテオドールよりも上だろうか。柔らかな笑顔をしている。優しそうな瞳が、こちらを見ている。
「……この方は?」
何気なく尋ねたその瞬間、テオドールの手が止まった。
「ああ、母上だ」
「お母様……」
テオドールが家族の話をするのを、初めて聞いた。
テオドールは写真を見つめる。
「命日だった。だから、今日なんとなく、この写真が見たくなって飾ってたんだ。もう何年前に病死した」
どこか遠くを見るような目だった。
なんてことないような話し方に、胸が少し痛む。
家族の顔すら知らない私でも、大切な人がいなくなる悲しみは理解できた。神殿で共に過ごした皆がいなくなったときの悲しみとは比べ物にならないということも。
「そう、だったんですね……」
どう返せばいいのか分からない。
こんな時、気の利いた言葉すら言えない、何も知らない自分が嫌になる。
それでも、テオドールの声がいつもより少しだけ柔らかいことに気付いた。
「俺が十歳の頃だった」
窓の外で降る雨の音が強くなった気がした。
「会える機会が少なくて、ほとんど覚えていない」
そう言いながらも、テオドールの視線は写真から離れない。
「覚えているのは、優しかったことくらいだ」
私は黙って彼の話に耳を傾けていた。
「あの人はいつも笑っていた」
そう言うと、少しだけテオドールが笑う。
「フェリシティに似ている」
「えっ?」
思わず変な声が出る。
全くその写真にうつる人と自分は似ているように思えなかったからだ。
「似てませんよ」
「似ている」
「どこがですか」
「どうしたらいいのかわからない時に、困った顔をするところとか。自分のことは後回しで、優しくあろうとするところが」
「それはなんか、褒められてはないですね」
少しだけ笑いが零れた。その笑いの奥に。微かな寂しさが見えた。
私はテオドールから視線を戻して、またその写真を見る。
やっぱり、優しそうな女性だった。
きっとテオドールが言うように、本当に優しい人だったのだろう。
そして、この人がいなくなった後、テオドールは一人だったのかもしれない。
それに気づいた瞬間、胸が締め付けられる。
「……会いたかったです」
ぽつりと呟く。自分でもそんなことを言ったことに驚いたけれど、テオドールも目を見開いていた。
「テオドールの、お母様はきっと、素敵な方だったんでしょうね」
テオドールはしばらく黙っていた。その後本当に小さく頷いた。
「そうだね」
その横顔は穏やかそうに見えた。先ほどの寂しそうな顔はもうなくなっていた。
私はそっと彼の手に触れると、テオドールがこちらを見る。
「……今は、一人じゃないですよ」
少し照れながら伝える。こんなことを自分が言うとは。そんな風に考えることができたなんて。不思議な気持ちだった。
私の言葉にテオドールは何も返さなかったけれど、握り返された手はの力は驚くほど強かった。
まるで、ここにいることを確かめるように。
静かな雨の夜。私は初めてテオドールの心に触れた気がした。




