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聖女のくちづけは、毒よりも甘く  作者: 星那


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10/30

10.知らない横顔


 聖女としての依頼を受け、軽い治療をいくつかこなした帰りのことだった。


 テオドールは会議が長引いており、彼が用意した護衛騎士とカイルが私に付き添っていた。


「ではこちらでお待ちください」


 カイルに案内され、小さな応接室へ入る。


「殿下はあと少しで終わります」


「分かりました」


 私は素直に頷いた。


 荷物から取り出した本をを開く。

 テオドールがくれた、巷で流行っているという恋愛小説。聞いたことはあったが、目にしたのは初めてだった。こんな娯楽も、神殿での生活には存在していなかった。あそこでは、そういうものは全て不必要なものだったから。


 ぱらりと栞の挟まったページまでめくり、読み始めたその時。隣室から声が聞こえてきた。

 かなり大きな声だった。


「だから予算が足りないと言っている!」


 その怒鳴り声に、思わず肩が跳ねる。

 神殿での教育の中で、上手くできないとそのように怒鳴れたこともあった。それを思い出してしまった。

 さらに別の声が響いた。


「北部の被害は無視できません!」


「だが南も限界だ!」


 これは、私の時とは違う、と瞬時に分かる。政治的な話で揉めているようだった。


 思わずカイルを見ると、カイルは慣れた様子で笑った。


「驚かれましたか」


「いつもあんな感じなのですか?」


「今日はまだ穏やかな方です」


「穏やか……?」


 信じられなかった。これが穏やかなほうだと。では穏やかではない時は、いったいどうなってしまうのか。

 そんなことを考えていると、突然、隣から低い声が響いた。


「黙れ」


 一瞬で空気が変わった。

 先ほどまで言い争っていた声が消え、完全に音が消えた。

 私も思わず息を呑んだ。

 今の声は、間違いなくテオドールのものだった。


「予算が足りない?」


 静かな声には、圧がある。


「なら削る場所を提示しろ。できないなら感情論を持ち込むな」


 誰も何も答えない。


「北部も南部も守ること。それが仕事だ」


 淡々と続く話し声。怒鳴らない。声も決して大きくはない。


「被害報告と、それに準ずる根拠を出せ。話はそれからだ」


 それから声を荒げる者はいなくて、音も聞こえなくなった。問題なく、会議が進み出したのかもしれない。

 人をまとめるのはすごいことだと、自然にそう思った。

 神殿では見たことがなかった。

 偉い人はたくさんいたが、傲慢で、力を誇示するような人しかいなかった。こんな風に人を動かす人は知らない。


 テオドールは完全に場を掌握していた。


 普段の姿と違いすぎた。いつも優しい瞳でこちらをみているテオドールからは想像もつかない様な、声と態度だった。強ち容赦がないというあの噂も間違いではないのかもしれないと思った。


 しばらくして会議が終わったのか、扉が開かれた。

 貴族たちが疲れ切った顔で出てくる。


「テオドール殿下は容赦ないな……」


「胃が痛い……」


「だが正しいんだよな……」


 そんな声が聞こえ、足音は遠ざかっていく。そして最後に、テオドールが現れた。


 書類の束を抱えている。遠くから見るテオドールは、笑いもせず感情の読めない顔をしていた。いつもとは、全然違う顔。別人のようなその姿に、声をかけるのも躊躇う。


「あ」


 目が合うと、空気が変わった。ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。

 口角が上がって、目が楽しそうに細められた。


「待たせたね」


 その声はいつものテオドールで、ほっとしてしまう。


 カイルはそんなテオドールを見て、目を逸らした。

 なぜ逸らしたのかと思いながらも、テオドールを見る。


「いえ。お疲れさまです。あの、疲れていませんか?」


 純粋に、心配する気持ちがあった。テオドールは目を見開く。

 

「平気。いつものことだからね」

 

「先ほど、お忙しそうでした」


「聞いてた?」


「少しだけ聞こえました」


 正直に答えると、テオドールは小さくため息をついた。


「騒がしかっただろう」


「いえ、大きな声がしたので少し驚いてしまいました」


「ごめんね」


「え?」


 思わず聞き返してしまった。

 まさか、こんなことで王子が謝るとは思わなかった。


「怖くなかった?」


 真面目な顔で聞かれ、少し考える。


「怖いというより……」


「うん」


「すごいなと思いました」


 テオドールが固まる。


「皆さんが殿下の話を聞いていました。きっと信頼されているんですね」


 それは純粋な感想で、お世辞などではなく、本当にそう思えた。


 テオドールは言葉を失い目を逸らした。


「……そうかな」


「そうです。私には到底できないことですから。殿下はすごい方です」


 その瞬間、カイルや、護衛騎士たちが一斉に身体ごと反対側を向いた。


 一体どうしてしまったのか、私には分からなかった。


 けれど、テオドールの横顔が、ほんの少しだけ穏やかに見えた。


 その日から少しずつ、私の中でテオドールという人の輪郭が変わり始めていた。


 

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