14.残したくないもの
広瀬邦夫は誠実な医師である。
整形外科医としての腕前にも問題はなかった。
ただ一つの問題は地方のそれなりに規模のある
総合病院の入り婿になってしまった事だろう。
人間関係を盾にとられ断りきれない時点で経営の才能がないのは明白だった。
それでも30年は頑張った。後半は赤字続き、自治体から補助を受けようとしたが
間に合わず病院は倒産してしまった。
地方の人口減で患者数は減っているのに、面倒な患者は減らない。
医師も看護婦も薬剤師も足りなくなり、対応できない科目が増えてからは一気だった。
抵当に入っていた病院の土地建物だけでは足らず借金の残った彼は家族を地方に残し
単身赴任で都会の美容整形病院の勤務医になった。
あまりにも違う環境、国立大学で学び命を救うという事に誇りを持っていた彼にとって
余りにも違う環境だった。
借金を返すまでと思いながら働いていたが、誠実な施術より数をこなす方が稼げる職場
に戸惑っていた彼は今賀という怪しい男の誘いに乗ってしまった。
結果、本当に帰れなくなるとは思っていなかったが、意外なほど後悔していなかった。
嫁と高齢の姑は病院を倒産させた穀つぶしとして口もきいてくれないし、」
子供はとっくに独立した。
親を見て医療関係者にならなかった賢い子だ。
私が消えても問題ないだろう。
問題はこっちの世界だ。問題しかない。
抗生物質がないどころではない。無い物づくし、あまりに乱暴な処置。
医科大学で講義する前に病院の現状を視察したが、この医者たちに
処置される事だけは避けなければならないと思わされた。
「最も改善内容がこれでは、この世界の連中を悪く言えんな」
目の前には飴玉と膏薬があった。
合成麻薬フェンタニル入りという大変危険な代物だった。
飴玉は特に注意してくれと何度も言われた。
甘い物に飢えた人が多く盗まれかねないが5個口に入れたら
確実に・・・らしい。
中田という化学の研究者が合成に成功したという。
「フェンタニルといい、VXガスといい、化学式や合成過程が公開されてたのは
どうかと思いますね。適当で良ければ簡単に作れてしまう。
雑な奴が作ると大変な事になる」
こちらの研究者を使ったら何回も事故が起きたと中田が溜息をついた。
「持ってきたという事は製品化出来たんだね?」
「ええ、人体実験済ですよ。モルヒネまで不足してるとかで軍の連中
無断で持ち出して使いやがった。幸い事故にならなくて
新薬の驚異的効果に感謝されていますがね」
「量産はできそうなのか?」
「人数当たりの必要量が少ないから何とかなってますが、計量器や
分析器関係が持ち込んだ物しか使えませんからね。
需要が増えない事を祈りましょう。
史実では麻酔なしの手術があちこちで行われたと聞いたんで、
それは防ぎたいから協力しましたけど、これ本当に有用なんですか」
「元の世界では末期がん患者に使っていた。」
「そうなんですね。こんな危ない物、後世に残さない方が良いかと思ったんですけどね」
「医師の手から離れないという事さえ守れば、薬局で覚せい剤を売ってる現状よりは
ずっと良いさ」
「それは今賀がやってます。寝ずに働いて不良品を沢山作るより寝て良品を作ろう
少数でも精鋭が勝つとかプロパガンダ考えてましたよ」
「なるべく早めに禁止して欲しい物だ。中毒患者の治療なんて私はやった事無いぞ」
「・・・先生の仕事も大変そうですね」
広瀬の部屋に積み上げられた膨大な資料を見ながら中田が言った。
「今使われている薬品や治療法の整理だけでも大仕事だ。
抗生物質に使う放線菌の探索部隊は有用株の
写真を持たせてあちこちに派遣したが
簡単に見つけられるとは思わない。前途多難とはこの事だよ」
「この資料整理するだけで年単位じゃないですか?」
中田の返答に頷きながら広瀬医師は話を続けた
「君のようにこの状況を見て察してくれる人ばかりなら良いんだけど
どうしても診察しろとねじ込んで来る人もいてね。
専門外の病気なんか分からんと何度言ってもどうしてもという事で
日に数人診察している。全く迷惑な事だ」
いかにも迷惑そうに語った広瀬医師だったが、その表情は
元の世界で美容外科医をしていた時より生き生きしているように
見えた。




