3. ミストリアの夜、再び
あの夜、境界は音を立てて裂けた。
冷たい光が空を覆い、町は昼と夜の境目を見失った。
7年前リオが境界監視官を退いた原因となった事件。
通称、“境界事件”。
リオは当時、異界の理を誰よりも深く理解していた。
そして同時に、誰よりも危うく踏み込みすぎていた。
彼が見つけたのは、異界と現実の往来を可能にする詠唱だった。
リオはその意味を確かめようとした。
だが、その一瞬は、永遠のように長く続いた。
夜空は反転し、建物の影が宙に浮かび、現実の輪郭は、まるで夢のように揺らいでいった。
異界の光と音が街路を満たし、人々は恐怖と混乱の中で逃げ惑った。
それが、ミストリアが初めて本当の異界を見た夜である。
事件は一夜にして終息したが、痕跡は町の各地に今も残る。
消えた人々、戻らぬ記憶、そして境界の歪み。
「……カルムさん。あなたは、ノエルさんに私のノートを見せ、『異界と現実の行き来ができるようになる詠唱だ』と教えましたか?」
「……え? ノエルくん……?」
カルムは目を見開いた。
唇がわなわなと震え、かすれた声を漏らす。
「……お、おしえた……」
「あれは、異界と現実を自由に行き来できる詠唱などではありません。……訂正やノートの処分をしなかった私の責任でもあります、申し訳ありません」
「そ、そう、なの……?」
「所長、何を言っているのか分かりません」
リオはほんの一瞬、目を伏せてから息を吸い、言葉を続けた。
「サンナさん。ノエルくんは、13個の魔石とナミさん、子どもの魂を供物に、異界へと足を踏み入れようとしています」
「……異界?」
「人間は、たとえハロウィンの夜でも、境界が緩むこの時でも、異界に行くことはできません。行ってはならないのです。そこは、私たちの理も、時間の流れも通用しない場所です」
「人間がもし、異界に入ってしまったら……?」
「この世界に、生きて帰ってこられる者は、ほんの一握りでしょう」
「そんな」
リオは立ち上がる。
「急ぎましょう。彼を取り戻さなければなりません」
空気がひっくり返るような音がした。
遠くの鐘の音が歪み、風向きが逆転する。
地面の石畳が震え、街灯が一斉に弾け飛ぶ。
空の色がゆっくりと褪せ、黒と紫が入り混じった膜が町全体を覆い始めた。
ハロウィンの飾りが、まるで命を得たようにうごめく。
笑っていた仮面が裂け、紙の蝙蝠が空中で羽ばたいた。
サンナは耳を塞いだ。
どこからともなく、足ではない何かの這う音が響いてくる。
「……」
7年前の光景が頭をよぎる。
空が割れ、人々が消え、現実と異界の色が混ざり合っていったあの夜。
「境界が……また、壊れた」
人々の悲鳴、どこからともなく響く泣き声、そして異者のうめき。
すべてがひとつの渦になって押し寄せる。
「サンナさん、カルムさん、こっちは危険です。別の道から詠唱の中心へ」
その言葉を遮るように、黒い影が壁を這い出てきた。
膨張した瞳、歪んだ手足。
「下がって!」
リオは咄嗟に振り返った。
サンナとカルムのいる通りが、崩れ落ちた瓦礫に塞がれている。
瓦礫によって、彼らは二手に分かれてしまった。
「所長!」
「リオさん!」
声は届くのに、道はもうつながっていなかった。
「空に昇る光が見えますか? あそこの下が、おそらく詠唱場所です。確証はありませんが」
サンナは瓦礫の隙間から夜空を仰いだ。
黒と紫が混ざる空に、1本の光がゆっくりと立ち上っていた。
それは炎でも稲妻でもない、静かに震える光柱。
風が逆流し、周囲の灰が吸い込まれるようにその光へと舞い上がっていく。
「……見えます!」
「北側の小路から中心を目指してください。遠回りになりますが、そちらの方が危険は少ないはずです」
リオの声は低く、静かだった。
「でも、所長1人じゃ……」
「ここを抜けられるのは私しかいません。あとで会いましょう」
リオはそう言い残し、崩れた路地を駆け抜ける。
背後でサンナが何かを叫んだが、爆音にかき消された。
カルムは拳を握る。
「……行かなきゃ、サンナさん」
「……うん」
彼らは別々の道を駆け出した。
瓦礫を踏みしめる音だけが響く。
夜の路地は、炎と影の境界でゆらめいていた。
「今日の夜風はまた一段と冷たいですね」
異者の群れが、音もなくリオを取り囲む。
細い指、ひび割れた皮膚、濁った瞳、それらが一斉にリオへと伸びる。
だが次の瞬間、異者たちの動きが止まった。
ざわ、と空気が揺れる。
ひとりがリオの腕に触れる。
その指先が、わずかに震え、やがてゆっくりと引かれた。
異者たちは、互いに目を見合わせるように動きを止め、
やがてリオを避けるようにして道を開ける。
「……ありがとうございます」
リオの低い声が路地に溶けた。
「私は、あなた達が望む人間ではありません」
胸の奥がかすかに疼く。
忘れもしない。
7年前、自分があちら側へ踏み出した代償。
人間でありながら、人ではなくなった証。
リオはふと、割れた建物の窓ガラスを覗き込む。
ガラス片には、炎と影しか映っていない。
自分の姿は、映らない。
「……なにこれ、もう完全におかしいって」
サンナは息を切らしながらつぶやいた。
壁の上を、赤い影が音もなく走り抜ける。
カルムが不安げに袖を握る。
「サンナさん……ごめんなさい、俺のせいで」
「……何があったか、教えてくれる?」
「6月に、ノエルの妹のリュカが、死んじゃって」
今年この町に来たばかりのサンナは、最初の仕事としてカルムから落とし物探しの依頼を受けた。
それをきっかけに、カルムとノエルと親しくなった。
だがその後すぐ、ノエルは体調不良で学校と学童を休み、今日まで顔を合わせていなかった。
その間に、ノエルの妹リュカは事故で亡くなったそうだ。
仲の良い兄妹だったこともあり、ノエルの心は深く傷つき、殻に閉じこもってしまった。
「久しぶりに会って話してた時、探偵事務所でリオさんの日記をたまたま見て、そこに死者に遭えるかもしれないっていう詠唱が載ってたことを話しちゃったんだ」
「それが、今ノエルくんがやってる詠唱ってこと?」
答える前に、金属音が響いた。
何かが、すぐ近くでぶつかり合う。
次の瞬間、黒い霧のような異者が、狭い通りを塞いだ。
「まずい!」
サンナは咄嗟にカルムを庇う。
その時。
「下がれ!」
鋭い声とともに、眩い光が通りを切り裂いた。
「ダリウスさん!?」
サンナが叫ぶ。
「無事でよかった」
ダリウスは剣の柄を軽く叩き、深く息を吐いた。
「リオは? あのバカは一緒じゃないのか」
「さっきはぐれてしまって……。ダリウスさんも、ご無事だったんですね」
「まあ、俺はこれが仕事だから。……すでに町の半分は異界の干渉下だ。リオを止めに来たが……違うな、今回は別の誰かだろ?」
サンナは頷き、状況を短く説明する。
共に行動しているカルムの友人、ノエルが詠唱を行い、リオが単独で詠唱場所へ向かったこと。
「そうか……。分かった、起きてしまったものはしょうがない。今は境界の裂け目をどうにかすること優先だ」
ダリウスは視線を遠くに向ける。
異者の影が、壁の隙間から再び這い出してくる。
形を変えながら増殖するその気配に、カルムが震えた。
「怖くない。俺がいる」
ダリウスはそう言い、片手を掲げる。
「リオがまた1人で背負うような結末にはさせない。行くぞ」
リオが辿り着いたのは、町の中心からほどほどに離れた小山の高台だった。
地面には13のランタンが円を描くように並び、青白い光がゆらめいている。
その中央、空間そのものが裂け、まるで夜空を裏返したような黒い穴が開いていた。
「……これが、詠唱の結果。こちら側からは初めて見た」
風が渦を巻き、周囲の瓦礫や落ち葉が吸い込まれていく。
光も音も、裂け目の縁で歪み、遠くの祭りのざわめきすら届かない。
ノエルの姿はどこにもなかった。
小さな靴跡だけが、ランタンのそばに残っている。
「……ノエルくん」
リオは低く呟いた。
袖口を風にあおられながら、彼は一歩、裂け目に近づく。
あの向こうに、彼がいるのなら。
その思考が浮かんだ瞬間、手が自然と伸びていた。
指先が裂け目の光に触れようとした、その時。
「所長!!」
鋭い声とともに、誰かがその腕を掴んだ。
リオは振り返る。
サンナが、必死の形相で立っていた。
肩で息をし、土と汗にまみれた手が、リオの手首を強く掴んで離さない。
「駄目です! 帰ってこられないってあなたが言ったくせに、どうして」
「この様子を見るに、ノエルくんは既に異界に連れ去られました。こうしている間に手遅れになります」
「だからって、あなたまで行ってどうするんですか!」
サンナの声が震える。
「これは私の責任です」
「でも……でも」
リオは一瞬、サンナを見つめた。
風が吹き、ランタンの炎が揺らめく。
裂け目の奥から、誰かの声がかすかに響いた。
「……ぁ……」
ノエルの声だ。
それは風に混じって揺らぎながら、確かにこちらに届いていた。
「……!」
リオは反射的に前へ出た。
再び伸ばしかけた手を、今度はサンナだけでなく、ダリウスが押さえた。
「落ち着け、リオ!」
ダリウスの声が響く。
その顔には焦りと怒り、そして昔と同じ、大切な人を止める者の苦悩が滲んでいた。
「行かせてください」
「行ってどうする? お前に何ができる? お前はただ自分の罪を帳消しにしたいだけだろ」
ダリウスの叫びに、リオの瞳がわずかに揺れた。
「あの時、俺は言ったよな? 何があっても、自分の命を投げうってはいけない」
「忘れてなんかいません」
リオは低く呟く。
風が吹き、足元のランタンの灯が不穏に揺らぐ。
「リオさん……!」
カルムの声はかすれていた。
「俺のせいでもあります、リオさんだけが危険な行動をする責任はありません!」
リオはカルムの言葉を静かに遮るように、微笑んだ。
「所長」
「はい」
「行かないでください」
「それだとノエルくんが」
「だったら私が行きます」
「私が行くこととどんな違いがありますか?それに、私はただの人間ではない。サンナさんなら気づいていますよね」
「……」
サンナは口をつぐみ、ぽろぽろと大粒の涙を流した。
「申し訳ありません。……サンナさんの意向に沿えず、私は上司失格です」
「失格でも何でもいいですから、私は許しますから、どうか一緒にいてください」
リオは静かに首を振った。
「大丈夫です。何も、死ぬつもりで行くわけではありません。必ず、ノエルくんを助けます」
ダリウスが一歩前に出て、リオの肩を掴んだ。
「リオ……。死ぬな、絶対に戻って来い。約束できるか?」
リオはその手に自分の手を重ね、そっと力を込めた。
「前回の傾向を見るに、裂け目をすぐ閉じても、帰り道は別にある。ですから、私が行ったらここをすぐ閉めてください」
次の瞬間、リオはその手を振りほどき、裂け目の光の中へ踏み込んだ。
「所長!!!」
サンナの叫びが響く。
裂け目が激しく脈動し、空間がぐにゃりと歪んだ。
ダリウスは顔を歪めながら、裂け目に向かって手を伸ばした。
足元の石畳に複雑な紋が浮かび上がり、赤い封印の光が四方へ走る。
やがて、裂け目は音もなく閉じ、世界が静寂を取り戻す。
風が止み、散らばったランタンの破片が月光を反射して煌めいた。




