2. 夜の隙間で境界は笑う
境界監視官とは、現実世界と異界の境界を監視し、両世界の秩序を保つ専門職である。
境界の緩みによって現れる異者や、人間側の不正な干渉を取り締まる。
人目に付きにくく、異界との接触を伴う危険な任務であり、観察記録や方法論は秘密扱いで民間人にはほとんど知られていない。
リオは子どもの頃から異界に強い興味を抱いていた。
今から約10年前、彼はミストリアの境界監視官として職に就く。
最初の頃は真面目に職務を全うしていたが、次第に好奇心が逸脱し、非行めいた行動も増えていった。
「リオ、お前また余計なことをして…」
「すみません。ですが、この書物は異界や境界の仕組みについてさらに深く知ることが出来る大物です!」
「だからといって異者の落とし物に軽々しく触るなって言ってるだろうが!」
その一方で、ダリウスはリオの失敗を自分の責任として肩代わりし、場合によってはリオが処罰される証拠をこっそり隠してくれた。
そのおかげで、リオは自由に異界の研究を続けることができた。
「しっかり持ち主の方には自分で許可を取ります」
「そういうことじゃなーい! 馬鹿が!!」
しかし、逸脱の積み重ねが祟り、やがて境界監視官の職を離れることになる。
それでも、異界への興味と知識は消えることなく、ルナクロス探偵事務所の探偵として、今もミストリアの町に居座っている。
「どうして所長は境界監視官の仕事をまともに勤めずに終えて、この町にいられるんですか?」
「それは、この町の寛容さについてでしょうか。それとも私のメンタルの話ですか?」
「まあ、どっちもですよね」
「たしか、7年くらい前のことでしたか。とある事件がありましてね。私はその被害者として関わり、体の治療のために退職してはどうかと、ほとんど強引に辞めさせられたんです。ダリウスさんのおかげもあって、会社の望みどおり退職する代わりに、この町にいさせてくれと頼みました。そのおかげで、目を付けられたり、追われたりすることは一度もありません」
「へえ……、あんまり知らなかったです。あ、所長のメンタルがやばいことは知ってますよ」
「そんな、普通ですよ」
そんな話を事務所の中でしていると、17時を知らせる鐘が建物全体に響いた。
時計塔の1階にある事務所では、その音はとんでもない響きになるが、もう慣れた。
「もう町には異者でにぎわっている頃ですね。私は祭りに行きますが、サンナさんはどうされますか」
「ええ、私も行きますよお」
屋台からは甘い焼き菓子の香りが漂い、子供たちの笑い声と大人たちの話し声が交差する。
小さな人間の女の子が、目を輝かせながら青年に手渡されたお菓子を受け取った。
その青年は、肩に小さな羽の生えた猫のような異者を乗せ、楽しそうに笑う。
広場では、ゴブリンの異者が子供たちと鬼ごっこをしていた。
人間の男の子が転びそうになると、手を伸ばしてそっと支える。
大人たちも祭りを楽しんでいた。
黒いマントを羽織った学者風の異者が、熱々のかぼちゃスープをふるまう。
人間の大人たちも、異者の芸を見て拍手を送り、祭りは活気に満ちていた。
通りの片隅では、背の高い影のような異者が、ゆったりとした足取りで歩く子供たちの影に合わせて、光の演出を楽しんでいる。
祭りの音楽が流れ、鐘の音と混ざり合い、異者と人間、子供と大人が入り混じる。
ミストリアの町は、まさに1年に1度だけの非日常に包まれていた。
「あー! リオちゃん! 1年ぶりだねえ!」
「アラーナさん、お久しぶりです。元気そうで何より」
リオは微笑みながら、蜘蛛のようにしなやかに動くアラーナの姿を眺めた。
「元気も元気。あんたこそ、相変わらずこの町に居座って……危なっかしい生活してるんじゃないの?」
アラーナは軽く首を傾げ、金色の瞳をキラリと光らせる。
「まあ。ところで、祭りはどうですか? まだまだ人間も異者も元気ですか」
リオが通りを見ると、子供たちと異者が混ざって遊ぶ姿がちらりと見えた。
「ええ、もちろん。子供たちは今年も元気いっぱい、異者も結構はしゃいでる。あたしの屋台の綿あめを狙う輩もいるしね」
「それは良かった」
リオは少し懐かしそうに言った。
「それで? お隣のお嬢さんはどなたかしら? もしかして、って感じ?」
アラーナはにやりと笑った。
「違いますよ。私の探偵事務所で働いてもらっている方です」
「あ、初めまして! サンナです」
サンナは少し恥ずかしそうに頭を下げた。
「サンナちゃん! よろしくねえ。あらあら、かわいらしいお顔ねえ」
「ありがとうございます!」
「ふーん? まあまあ、女の趣味は悪くないんじゃない?」
「はいはい、ではまた」
「えー、もう行っちゃうの? また来てよねえー!」
2人が見えなくなるまでアラーナは6本の腕を勢い良く振った。
「あれ、あいつら……店番ほっぽってどこ行ったのよ」
町の中心へとふらふら歩いていると、焦ったような表情を浮かべるノエルが早歩きで2人の隣を通り過ぎる。
「ノエルくん?」
ノエルはびくっと体を震わしたあと、こちらを向いた。
「あ、リオさん、サンナさん……」
「どうかしたの? 顔色悪いよ…?」
「……カルムくんがどこにもいなくて、探してるんです」
「え、どういうこと?」
サンナは少し困惑しながら、ノエルの表情を覗き込む。
「お昼に、教会のみんなとかくれんぼしてて、カルムが鬼で、ずっと隠れてたんだけど…遅いなと思ってカルムの方を探し始めて、でも見つからなくて。多分僕らのことをからかってるだけだと思います」
ノエルは小さく首を振り、焦りで声が震えている。
「……わかりました。一緒に探しましょうか?祭りで人も異者も多いので、はぐれないようにしてください」
リオは冷静に提案し、サンナも頷く。
「あ、でも……」
「大丈夫、大人に任せて」
ノエルは焦った顔でリオとサンナの間を行き来する。
「カルムー!」
リオは冷静に周囲を見渡す。
通りの人々に声をかけていくが、答えはなかなか得られない。
「すみません、カルムくん見ませんでしたか?」
「ナミ、カルムくんって……あれ、ナミ?」
「……え?」
「ナミ?ナミ?どこに行ったの?」
最初はカルムだけを探しているはずだった。
だが、聞き込みを続けるうちに、行方不明の報告は次々と増えていった。
気づけば、迷子になった子どもは10人にものぼっていた。
「どうしよう……みんな、どこに行っちゃったんだろう」
ノエルの声は震えている。
祭りの喧騒に混ざる泣き声や叫び声が、さらに不安を煽る。
リオが静かに眉をひそめる。
「落ち着いて、焦ると見失う。まだ行方不明になってから時間は経っていないから、行き先はある程度推測できます」
サンナは小道を指さしながら言った。
「こっちの路地、子供たちの足跡があります。異者の影もちらほら……おそらく森の方へ誘導されているみたいです」
2人はノエルと共に路地を進むが、途中で黒い影が建物の隙間をするすると通り抜けるのが見えた。
「サンナさん、あれは……?」
ノエルが指さす先には、小さな蜘蛛のような異者が、ささやくように声を上げながら消えていく。
その瞬間、ノエルの手を何者かが引っ張った。
「わっ」
振り返るとノエルは視界から消えてしまった。
「ノエルー!?」
サンナが必死で追いかける。
リオもすぐに後を追い、2人は細い路地と建物の隙間を縫うようにして駆ける。
影は消えたり現れたりしながら、複雑な迷路のような建物の間を誘導していく。
「まさか……異者が仕組んだことか……」
リオが低くつぶやき、サンナは息を切らしながらも足を止めない。
建物の隙間を抜けると、細い光の糸がいくつも垂れ下がっているのが目に入った。
「……あれは……?」
サンナが見上げると、黒い小さな影が屋根の上にちらりと動いた。
さっき見た蜘蛛の異者たちだ。
金色の瞳がきらりと光り、糸を巧みに操っている。
「天井から糸を使って子どもを連れ去っているようですね」
リオが低くつぶやく。
手際の良さに眉をひそめながらも、異者たちの巧妙さに感心する。
2人は糸を辿りながら路地の裏へ進む。
路地の裏に着くと、すでにカルムを含む迷子たちが集められていた。
蜘蛛の異者は子供たちの間を小さく跳び回り、くすくすと笑いながら遊びの指示を出している。
リオは周囲を警戒しつつ、子供たちの安全を確認する。
「いたずら……だけど、危害はなさそうですね、良かった」
「これは……どうやら、子どもたちを集めて遊んでいるだけですね」
蜘蛛の異者は人間の言葉を理解しているようで、金色の瞳をきらりと光らせながら近づいてきた。
「大人の人間さんだ! 一緒に遊ぼうよ」
「あなたたち……子供たちをこんなところまで?」
サンナが問いかけると、異者のひとりがくすくすと笑った。
「僕ら、お祭りのお手伝いをしてるだけだよ」
「お手伝い……?」
「そう! 昨日はかぼちゃ運び、今日は子供の誘導! 人間さんが大変そうだったからサプライズで手伝ってあげたんだ」
「かぼちゃ……。そ、そっか。うーん……」
話を聞くうちに、大量のジャックの灯を運んだのは蜘蛛の異者たちだとわかった。
だが、彼らが人間と呼ぶ存在はいったい誰なのか。
恐らく、その人物こそランタンを盗んだ犯人だ。
「とりあえず、勝手に子どもたちを連れて行ってはいけませんよ。きちんと大人たちに確認して、子どもには優しく話しかけてくださいね」
「ご、ごめんなさーい……」
「あれ、2人も連れてこられたの?」
泥だらけのまま遊んでいるカルムがこちらに気づいて近づいてきた。
「ええ、なんでそんなに泥だらけなの」
「えへへ、ちょっとね」
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「あれ? ノエルくんは? さっき連れていかれたように見えたけど」
「え、知らなーい。服に着いた糸洗いに行ったんじゃない? きれい好きだし」
「ナミちゃん、疲れて眠っちゃったみたい」
女の子が壁にもたれかかってすやすやと寝息を立てていた。
「……。私が親御さんのところまで運びます」
「ぐっすりですもんね。ありがとうございます」
リオがおんぶをすると、直しても腕がだらんと落ちる。
かわいらしく純粋な子どもたちを見て、サンナは思わず口角が上がった。
異者たちは糸を使って子供たちを軽やかに浮かせ、建物の間の路地を通りながら元の通りまで送り届ける。
最初は不安そうな顔を浮かべていた子供たちだったが、だんだん楽しそうな顔になっていく。
「ゆっくり、焦らずね」
サンナが優しく声をかけ、ノエルやカルムも少し安心した表情を見せる。
路地を抜け、広い通りまで戻ってくると、迷子になっていた子供たちは地面にそっと降ろされる。
蜘蛛の異者は軽やかに屋根の上へ戻り、くるりと一周して姿を消した。
「……ふう、無事に戻せましたね」
リオが息を吐き、サンナは子供たちの手を順に握り直す。
ノエルはカルムに駆け寄り、2人は抱き合って安堵の表情を見せた。
「いたずらだけど、怪我もなかったし……」
サンナがつぶやくと、リオは少し笑みを浮かべた。
「異者なりの遊び方ってやつですね。でも、次はもう少し手加減してもらわないと」
子供たちも笑顔を取り戻し、街中には再び祭りの喧騒が広がっていった。
子どもたちを路地の奥から無事に送り届けた後、カルムとともにアラーナの屋台へ向かった。
ふわりと甘い綿あめの香りが漂い、人々や異者でごった返している。
しかし屋台の奥から、とんでもない大声が響いた。
「アンタ、また人様に迷惑かけて……!? もう、何度言ったらわかるのよ!」
3人は顔を見合わせ、声の主に目を向けた。
そこには、先ほど路地の奥で子供たちを誘導していた小さな蜘蛛の異者が、アラーナに叱られている姿があった。
「……母親って怖いですね」
サンナは小さくつぶやく。
蜘蛛の子どもは手足をばたつかせながらも、申し訳なさそうに目を伏せている。
「異者も子どもはやっぱり大人の手が必要なようです。これで今日の騒動も少し落ち着くでしょう」
リオはそう言うと、アラーナの屋台へ向かって足を進めた。
蜘蛛の子どもはアラーナに抱き上げられ、まだ少ししょんぼりしながらも安心した表情を見せる。
アラーナはこちらを見ると、般若の顔があっという間によそ行きの顔に変身した。
「ごめんなさいね、うちのバカ息子たちが怖がらせちゃったみたいで。またリオちゃんにお世話になっちゃった」
「いえ、私は大歓迎ですよ」
リオは軽く頭を下げ、祭りの人混みに溶け込むように微笑んだ。
「ところで、カルムくんは何をして泥だらけになったの?」
「実は、みんなでかくれんぼしてた時、町のはずれの方まで入っちゃって、その時になんか、崖に足踏み外しちゃって」
「ええ? 大丈夫だったの?」
「うん、目が覚めたらさっきのとこにいたんだ。なんだったんだろ、あれ」
カルムは目をつぶって昼の出来事について思いだそうと唸っていた。
「うーん……なんか、後ろから服を引っ張られる、みたいな感覚があって……」
「……カルムさん、聞きたいことが1つあるのですがよろしいですか?」
「なんですか?」
「カルムさんは、私の事務所にある日記を外に持ち出したことはありますか?」
「……っえ」
「日記? 所長、どういうことですか?」
「今朝、13個のランタンが盗まれました。そして先ほど、意識不明の子どもまで見つかった。まだ目を覚ましていません。私は、この今の状況に心当たりがあります」
「え? 意識不明って、ナミちゃんのことですか……?」
「……あ、あの」
「私が境界監視官を退職することになったとある事件の話です」
リオは冷たい表情でカルムの肩をがっしりとつかんだ。
「カルムさん、教えてください。異界の扉は今、どこにありますか。取り返しのつかないことに……」
そのとき、
空気の端が、かすかに震えた。
まるで、目に見えない膜が裂けるような、低い音が響く。
誰も気づかないほど微かなその音を、リオだけが聞き取った。
「……今の、音」
リオが呟くと、風が通りを抜け、ランタンの火が一瞬だけ揺らめいた。
その明かりに照らされ、通りの影が長く伸びる。
光の向こうに、ほんのわずか、ぼやけた何かの輪郭が見えた。
異者でも人でもない、輪郭の定まらない何か。
それは光の隙間から滲み出すように現れては、次の瞬間、霧のように消えた。
祭りの喧騒は続いている。
笑い声、歌声、笛の音。
そのすぐ下で、世界の綻びは、誰にも気づかれないまま静かに広がっていた。




