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14 遠くに響く波の音












   14 遠くに響く波の音
























   文月京香












   


「先生」

「ん?」

「麦茶、お持ちしました」

「ああ、ありがとう」


 机の上に向かって何かしてた斉藤君はふと顔をあげてこっちを見た。じっと見返した。


「何か用ですか?」

「用がなきゃ来ちゃいけない?」

「そんなことはないけれど、京ちゃんは普段は用もないのに僕にお茶を入れて持ってきたりしないでしょ?」

「どうせお姉ちゃんのことで来たと思ってるでしょ」

「思ってる」

「ね、なんで何もしないの?」


 ぶっとお茶を吹き出した。咳き込んでいる。


「お姉ちゃん、ちょっと不安に思ってるみたいだよ」

「そんなことを、玲ちゃんが?」

「折角長年好きだった人と婚約までこぎつけたのに……」


 はぁとため息をついた後に、吹きこぼしたお茶をティッシュを使って拭いている。


「それは、僕たち二人の問題だからほっといてくれないかな?」

「ほっとけないからこうしてわざわざ麦茶を運んできたんじゃない」

「そんなわざわざ焦ってすることでもないでしょ?」

「というか、ちょっと個人的に好奇心もあって、なんで?」

「……」

「怖いの?」

「は?」

「こう、がっかりされるんじゃないかとか」

「……」


 流石の斉藤君もムッとした。


「なんで僕が京ちゃんみたいな年下の子にそんな話をしなければならない?」

「わたしの好奇心を満たすため」

「……」

「そういえば、わたしね。主人の就職が決まりまして」

「え、太一君?それはおめでとう」

「最初だけ東京で研修でその後は地方になりそうなの」

「あ……、そうなんだ」


 診察台に腰掛けてじっと斉藤君の顔を見た。


「だからね。ずっとここにもいられないの。だから、お姉ちゃんのことが心配なの。安心して毎日ニコニコしてる様子が見たいんだよ」

「……」


 少し寂しそうというか真面目な顔になった。先生。


「だからって、なんだかそういう気持ちになれないんだよ。自分の気持ちを一方的に押し付けてるような気になって」

「だからさ」


 わたしは身を乗り出した。


「そういうことじゃないんだよ」

「ん?」

「本当に大事なのは行為じゃないんだよ」

「……」

「結局、気持ちをきちんと言葉や行動にして伝えてないでしょ?先生は」


 痛いところをつかれたという顔をした。斉藤君。


「でも、態度や表情には出てると思うし、玲ちゃんはもう僕の気持ちには気づいてると思うけど」

「それじゃ足りないんだよ。それでも言葉にしないとさ」

「うーん」

「ね、斉藤先生はさ、お姉ちゃんの本当の気持ち、わかる?」

「え?」

「お姉ちゃんが今、本当のところ、どんな気持ちでいるか、わかる?」

「それは……」


 少しつらそうな顔をしました。


「それが、怖い。聞くのが怖い。言葉にされて」


 そして、ぽつりとそう言った。


「僕に対する気持ちなんて玲ちゃんはないからさ」

「そんなん聞いてみないとわからないって」

「え?」

「相手にどんな気持ちがあるのかなんて、想像したってわかんないんだよ。二人がなんかぎくしゃくしててお互い別々に不安そうにしてるのはさ、ちゃんと大事なことを言葉にして伝え合ってないからだよ。別に何もしていないからじゃない」

「……」


 斉藤君は、微妙な複雑そうな顔でわたしをみてました。


「わたし、なんか間違ったこと言ってる?」

「いや、ただ……」

「ただ?」

「あんな子供だった京ちゃんがいつの間にか大人になってる」

「そりゃ、なるよ。子供だって産んだしね」


 ちょっと胸を張って威張ってみた。


「それなのに自分は全然成長してないなと」

「なに言ってんだよ」


 バシッと背中を叩いてやった。


「痛いっ。相変わらず乱暴なんだから」

「気合入れてあげてんだって。いっつも後ろ向きなんだから」

「……」

「あんな素敵な指輪、大人じゃなきゃ買えないって」

「あ」

「先生はちゃんと成長してるし、ちゃんとお姉ちゃんのこと幸せにできるんだよ。自信がないだけ」


 わたしはストンと診察台から立ち上がった。いや、出産終えて体が元の軽さに戻ったよね。


「自信持ってちゃんと、今度こそ、言いたいことちゃんと伝えなよ。これがファイナル。もう二度と言わないからねっ」


 それだけ言うと、おぼんを持ってカラカラと引き戸を開けて、外に出てまた閉じた。

 今日、また一つ、いいことをしてしまったなと思いながら。

 しかし、それにしても、お母さん、これもポイントとしてカウントしてくれよ。なんだか妊娠騒動からこっち肩身が狭くて叶わないわ。堂々と実家を肩で風切って歩きたいよ。












   文月玲香












   


 9月になって残暑の季節。夏のギラギラとした光に少しだけ変化が訪れた。影は相変わらず濃くて、その光と影のくっきりとした輪郭を眺めながら、わたしは憂鬱でした。不幸ではなくて、そんなはっきりとした不幸ではなくて、でも、簡単に解消できない憂鬱の中に囚われていた。何をしても気が晴れませんでした。


 自分の幸せってなんだろう?


 クヨクヨするのをやめて何かしようと買い物に出かけたり、友達を呼び出して遊んだりするのだけれど、気づくと思考は一周巡って何度もそこへ戻ってきてしまう。


 そんな難しいこと、考えなくたって生きていける。だから、考えるのをやめようと思う自分がいる。いつもはそれでうまくいくのに、今回ばかりはうまくいかない。


 わたしの幸せってなんだろう?


 わたしの幸せ、それは、家族やみんなが幸せなこと。

 でも、違う?

 本当はわたしも、京香みたいに自由に好きな人と結婚したかった?


 玲ちゃん


 彼の声が、忘れようと思って封印した彼の声が、蘇る。


 泣きながら、彼の連絡先と、そして、思い出の写真を一つ一つ削除した日のことを思い出す。お互いに嫌いになって別れたわけじゃなかったから、あの日、本当に辛かった。自分のお葬式をしているような気分でした。恋をしていた自分を写真を一枚一枚削除しながら、少しずつ葬り去った。全部削除して、わたしは抜け殻のようになった。

 あの日、わたしは確かに自分の一部を失ったのだと思う。わたしの一部はあの日、確かに死にました。今もまだ死んでいる。


 わたしはきっと一生、彼を愛したように誰かを愛することはないでしょう。


 そして、指輪を見た。先生から贈られた指輪。


 でも、そんなことが許されるんだろうか。心の底に男の人の思い出を持ちながら、わたしは斉藤君の愛を受けてもいいんでしょうか?だからと言って、今から他の人を探す?彼の代わりになる人なんてどこにもいない。だから、相手が斉藤君ではなくなって別の誰かになるだけ。


 反対に、あの婚活パーティーであったようないい加減な男たちのうちのいずれかを選んだ方がよかったんじゃないかとすら思ってしまった。だって、そうすればこんな罪悪感に見舞われることもなかった。


 出口が見えません。どこにも出口が見えなかったんです。その時。


 そんなある日に斉藤君から電話がかかってきた。東京の一人暮らしの部屋でコンビニで買ったお弁当を食べた後、テレビを見てたときに。


「玲ちゃん?」

「はい」

「あのね……」


 それだけ言った後にしばらく言いにくそうに黙った。いつものことなので待ちました。


「その、変な意味で言ってるのではないのだけれど」


 変な意味?なんの話だろう。よくわからない。


「やっぱり、その、行かない?旅行」

「へ?」

「あ、いや、嫌だったら別に。全然、行かないでもいいです」


 しどろもどろになっているのを聞いているうちに、ぷっと笑ってしまった。そして、ふと気づく。あれ、なんかわたし、久しぶりに笑ったなと。


「いや、嫌じゃないよ」

「そう、よかった……。その、結婚が決まってから随分経ったけど、ちゃんとゆっくり話をしたほうがいいのかなと思って……。その、ちゃんと心を割ってというか……」

「……」


 斉藤君が珍しく頑張ってるなと思いながら、その言葉を聞いてました。


「僕が、その、言葉が足りない人間だから」

「うん」

「玲ちゃんを不安がらせてるのかなとも思ったし」

「そんなことないよ」

「うん……、それならいいんだけど」


 そしてまた黙る。


「どこ行く?旅行」

「あ、それは玲ちゃんが行きたいとこでいいよ。でも、そんなに長くは休めないかな。ごめん」

「うん」


***


 旅行は、斉藤君が仕事をそんなに休めないこともあって、東京からそんなに遠くない熱海に車で行くことにしました。二泊三日。実家の車を借りました。


「院長が」

「ん?」

「いやーな顔してた」

「ええ?」

「なんか最近、関係が悪くなった気がする。院長と」

「な……、お父さん」

「あ、いや、いいんだよ。別に気にしてないから」

「でも、ちゃんと婚約してんだし、家族になる人なのに。今まで知らない人だってわけじゃないし」

「でも、理屈じゃないんだよ」

「え?」

「俺も男だし。ちょっとわかるよ」

「そう?」

「自分だって、玲ちゃんみたいな娘がいたら、誰にも渡したくないって思うと思うよ」

「そんな大した娘じゃないって」

「父親にとっては世界一だよ」

「……」


 シートベルトを締めて出発する。朝早くに出発したおかげか、渋滞に巻き込まれるようなこともなく熱海に着いた。老舗の干物屋さんに行った。そこで干物をしこたま買った後に裏の食事処で食事をする。干物が食べられる定食と、お刺身と干物のほぐし身が載った丼物を頼んだ。


「美味しい。海辺に来たって実感したな」

「うん」

「あ、失敗した。写真撮らないで食べちゃった」

「写真撮ってどうすんの?」

「友達や京香に自慢すんだよ。ああ、でも、この食べかけはやっぱないよね?」


 笑われた。

 その後一旦旅館に入った。海が見える部屋でした。ガラス窓にピッタリくっついて海を眺める。


「綺麗だねー」

「花火の時に来られたらよかったね」

「いや、でも、花火のある日は予約取れないとこばっかだったし、値段全然違うんだもの」

「でも、折角だからさ」

「うーん」

「また今度」


 両手をガラス窓にくっつけたままでぱっと斉藤君の方を見た。


「また今度こよう。花火の時に」

「うん」


 荷物を置いて、どこか出かけようと言われたけど、運転して疲れたでしょと言って、それに折角旅館を取ったのだから、なんだかこの旅館の中をきちんと堪能しないと損をすると思ってしまうのは間違いなのでしょうか?わたしは昼過ぎから早速温泉に入りに行った。露天風呂からも海が見えました。


 いや、贅沢だなぁと思いながら、裸で温泉に浸かりながら海を眺める。どこまでも広がる水平線を。久々に心が晴々とした。来てよかったと思いました。

 ホコホコとした体を浴衣に包んで、湯上がりに冷たい牛乳を飲んだ。フルーツ牛乳とちょっと迷った挙句、コーヒー牛乳にしました。部屋に戻ると、斉藤君がちょこんと窓辺の腰掛けに座って海を見ている。やっぱり浴衣を着て濡れ髪でした。


「長風呂だったね。のぼせなかった?」

「時々ちゃんとお湯から出て体冷やしたもの」


 そんな話をしながら、ちょっと不躾に濡れ髪に浴衣姿の斉藤君を眺めました。いつもの白衣姿とはまたやっぱり違うものだなと思いながら。


「なに?」

「いや、別に」


 斉藤君はまた、海の方を見ました。それから言った。


「夕食を早めに済まして、散歩に行こうか。夜になったら暑さも引くし」

「うん」


 それで、お酒は控えめに夕食を済ませると、服に着替えて外へ出る。有名な観光地の夜は賑わいがあるなと思いながらぷらぷらと歩く。


「お城のあたりから見ると、夜景が綺麗に見えるって」

「へぇ」


 それで夜道を少し歩きました。


「わぁ〜、これは眺めがいいねぇ」


 高台から熱海の温泉街を見下ろす。手すりに寄りかかってその様々な光を眺めました。夜風が吹いてきてわたしの髪を掬った。


「玲ちゃん」

「なに?」


 先生はわたしの横に並んで、そしてやはり手すりに寄りかかりました。前を向いたままその光を眺めながら、斉藤君はぽつぽつと話し始めた。


「君に言ってなかったことがあって」

「言ってなかったこと?」


 ちょっと硬い声で話し出す。なんだろう?


「実は借金があるとか?」


 先生はぽかんとした顔をした後で、ぷっと笑ってそれから言った。


「真面目な話なの。茶化さないで」

「ごめんなさい」

「あのね」

「うん」

「結婚するという話が出る前から」

「うん」

「言ったことはありませんでしたけど」

「うん」

「ずっとあなたが好きでした」


 横を向くと斉藤君は俯いてた。縮こまってた。


「お、驚かないの?」

「いや、最初は知らなかったけど……」

「うん」

「お義母さんに言われて気づいて」

「お…母さん?」

「先生のお母さん」


 すごくいやーな顔をした。先生。苦い薬を飲まされたような顔。


「何を言ったの?あの人」

「いや、先生はわたしがいれば幸せだからって」

「……」


 軽く目を瞑って手すりに額をつけた。


「余計なことを……」

「いや、でも別にお母さんは悪気があって言ったわけじゃないし」

「昔っから過保護というかなんというか……」

「いや、可愛いだけでしょ?末っ子が」

「……」

「いつから?」

「え?」

「いつからわたしのこと好きだったの?」

「もちろん、小学生の頃からとかではないよ」

「うん」

「よくわからないけど、いつの間にか」

「そうか」

「……うん」

「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」

「気持ち悪がられるかと思って」

「どうして気持ち悪がるの?」

「歳が離れてるからさ」


 そしてまた困った顔をしてわたしを見た。ふふふと笑った。今となっては見慣れたこの顔に。


「でも、別の人と付き合ってたんだね」

「いや、叶うなんて思ってなかったし。ただ……」

「ただ?」

「玲ちゃんのことが気になってたから、なんとなく他の人と結婚に踏み切れなかった」


 身近にいる人に、こんなに想われてたなんて、知りませんでした。


 水面に映る光の影を見ながら、その影の揺れに合わせて自分の心も揺らしながら、自分は迷っていました。言い淀んでいた。このまま何も言わずに済ますことだってできるし、あるいは言わないことの方が、相手にとってはいいってこともあるのではないかな?


 そして、遠くに響く波の音を聞いた。そのざざざざという音を。この日、この夜、この波の音がなければわたしは、先生に何も言えなかったと思う。自分の秘密を明かすことはできなかったと思います。


「先生……」

「うん」

「わたし、先生と結婚したいんです」

「うん」

「だから、本当は一生教えるつもりではなかったことがあるの」


 斉藤君は少し驚いた顔をしてわたしを見ました。


「言わずに結婚するつもりだった。もともとお父さんもお母さんも京香も知らない話だし」

「うん」

「好きな人がいたんです。付き合ってた彼が」

「……その人のこと今でも」

「いいや。過去の話です」

「……どうして別れたの?」

「お医者さんじゃないから」

「……」


 泣いてしまいました。ずっと思い詰めてた何かが切れてしまって。


「ごめんなさい。ごめんなさい」

「玲ちゃん」

「でも、わたし、先生と結婚したいんです」

「玲ちゃん」

「ひどいでしょ?」

「落ち着いて」


 泣いてるわたしの手を取って、斉藤君はわたしを腕の中に抱きしめた。その中でしばらく泣きじゃくりました。


「今でもその人のことが好きなの?」

「わからない。でも、もう、終わったことだし」


 その言葉に斉藤君はため息をついて、その後そっとわたしの髪を撫でました。ゆっくりと何度も。


「僕との結婚をやめて、彼にもう一度連絡をする?」

「だめ。わたしは先生と結婚するの」

「それは家のため?」

「先生……」

「うん」

「わたし、よく考えました。自分の幸せってなんなんだろうって」

「うん」

「子供の頃から家を継ぐように言い聞かせられて育ちました」

「うん」

「確かにそれは親や周りの大人に敷かれたレールの上をなぞる生き方なのかもしれないけど、でも、それはわたしの一部なの。わたしはみんなの信頼を裏切って生きることなんてできない。そんなのわたしの幸せじゃないんです」

「うん」

「だから、わたしは先生と結婚したいの。でも、先生のことこれからちゃんと好きになれるのか不安なんです」

「ちゃんと好きって?」

「昔、彼を好きだったのと同じぐらいちゃんと好きになれるか」


 先生は少し体を離してそしてわたしの顎に手をかけてわたしの顔を上へ向けさせた。そしてわたしの目を覗き込みました。


「玲ちゃん」

「はい」

「玲ちゃんはそんなことで悩む必要はないよ」

「なんで?」

「僕が好きなら、君が僕を同じように好きでなくたってそれでいいんです。僕のことを嫌いではなくて、そして君が僕のそばにちゃんといてくれるのなら」

「でも、それじゃあ」

「ねぇ、玲ちゃん。誰かを好きな気持ちってさ」

「うん」

「本当は一つ一つ違うものなのではないかな?」

「え?」

「どういえばわかるのかな?例えば、昔の彼を好きだって気持ちがダイヤモンドみたいなものだったとする」

「うん」

「そして、玲ちゃんの僕への気持ちは真珠のようなもの」

「真珠?」

「そう、真珠。あれは貝の中でゆっくり大きくなるでしょ?大きく丸く。真珠は丸いけれど、ダイヤモンドはカットされてるからカクカクしてるじゃない」

「うん」

「違うものを比べる必要はないよ」

「……」

「その彼に感じていたのと同じものを僕に感じる必要はない。ただ、君が僕と一緒にいて幸せでいてくれるのなら、それでいい」


 一度引きかけていた涙が、もう一度溢れてきた。新しい涙が出てきた。


「僕はね、玲ちゃん。あなたが手に入るなんて思ってなかったから、ずっと君が自分のものだなんて思えなくて不安だったんです。君が君の気持ちを誤魔化して素直に僕を好きだと言われても、それが信じれなくてもっと不安になったと思う。だから、嘘をつかずに玲ちゃんが話してくれて返って安心したよ」

「ごめんなさい」

「そのまま、その彼の思い出も持って僕のところへ来ればいい」

「先生はそれでいいの?」

「もともと手に入るなんて思ってなかったんだから、そのぐらい僕からしたらなんでもないんだよ」


 わたしの涙が落ちつくまで、そのまましばらく斉藤君の腕の中にいた。

 そして何も話さずにさっき先生が言ったことを頭の中で考えました。


 もう人生の中でもう一度あのくらい誰かを愛することはないだろう。

 あの時のあの結論は心の底から思ったわたしの気持ちだけれど、だけれど、人生というのはきっともっと長いんです。40歳になれば、今まで生きた2倍の時間を生きることになるし、60歳になれば、3倍です。そして、ずっと斉藤君と一緒にいれば、わたしは60歳の時に40年この人と一緒にいることになるわけだ。

 一緒に病院を守りながら過ごす40年の中で少しずつ大きくなる真珠は、真珠には、ダイヤモンドにはない輝きがある。それは彼には与えられない輝きだと思うんです。そして、家族と病院を守ることがわたしの小さな頃からの夢でした。


 きっとその頃には彼とのことは、時々大切に取り出して眺めるキラキラとした思い出になる。きっとこの世の多くの人がそんな、過去の宝石を大切にしながらも、今を生きているのではないかな。人は過去には生きられない。そしてもともとわたしは過去に生きるつもりはないんです。


「先生」

「ん?」

「帰ろう」

「うん」


 手を繋いで旅館へ戻る。

 誰かと一緒に帰る。この日は旅館へ戻ったわけだから、だから、それは家路を辿ったわけではないのだけれど、でも、波の音を聞きながらたどるその道はわたしの中ではやはり家路だった。


 わたしのように家を何よりも大切に思う女にとっては、仕事とかよりも一緒に家を守ってくれる人が大切なんです。一人ではない。この日の夜、生まれて初めて、一人ではないのだと感じることができた。この先何十年も何度も通う家路に、わたしは二人で立っていた。

 

 もう怖がらないでいいんだ。人生という長い旅を一人で戦わなくてもいいんだ。












   


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[一言] 汪海妹 様 今日、また一つ、いいことをしてしまったなと思いながら。 イイ台詞! 見習いたい! 究極のポジティブですね!! それとは対照的に・・・お姉さまの玲香様の台詞・・・ 心の底…
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