13 空を飛び続けるボール
13 空を飛び続けるボール
文月玲香
妹とそんな会話をした後、しばらく経った別の週末。
お昼ご飯を食べようと約束をしていて待ち合わせをしたお店に行くと先生はもう来てました。
「玲ちゃん、ごめん」
席に座ると両手を合わせて頭を下げられた。
「今、電話が入って急に産気づいた患者さんがいてね。病院戻らないと」
「ああ、はい」
「この埋め合わせは今度またするから」
そう言って荷物を持って立とうとする。
「あの、先生」
「ん?」
「先生が帰ってくるの、家で待ってていい?」
「家って?」
「先生の家」
わたしを見たままで、斉藤君が一瞬固まった。
「いい……けど、何時になるかわからないよ」
「構わないよ」
ちょっとだけ困った顔をしている先生をほっといて自分も立ち上がった。そして、お店の外に出た。
***
「これ、予備の鍵。何時になるかわからないし、待つのが嫌になったらこれで鍵をかけて家に帰っておいで」
「うん」
わたしが待つのに飽きて帰るうちに斉藤君はいるわけなのだけどね。ちょっと変な話だ。
ま、いいか。
主のいない他人の部屋を勝手にあちこち見て回った。ベッドの下にエロビデオとかあったりしてとふと思い、見てみようかと思ったが、やっぱりやめておきました。予想通り、多少散らかってはいてもそれは多少であり、男の一人暮らしにしてはきちんとしてた。
あの羊の斉藤君の部屋が汚いわけはないなと思ってた。
本棚は難しそうな医学書とかの他は推理小説とかが少し。そこにこの前貸してもらうはずだった推理小説を見つけた。あ、これ、貸してもらうの忘れたじゃん。それで、それを取り出してソファーで寝っ転がって読んでるうちに寝てしまった。はっと気づいて起き上がる。
夕方になってました。
スマホを取り出して画面を開く。着歴もメッセージも特になかった。ということはまだ、終わってないのだなと。先生の部屋から外を覗く。空の鱗雲をしばらく見てた。
ふと思い立って人んちの冷蔵庫をガチャリと開けた。たいしてものが入ってない寂しい中身の冷蔵庫でした。買い物に行こうと思った。ご飯を作りながら待ってみようと思ったんです。先生の家の台所にはたいしてものがありませんでしたが、フライパンと炊飯器はあったし、お米もありました。
スーパーに向けててくてくと見慣れた道をゆく。先生の部屋は、我が家のすぐ近く。呼び出されることの多い仕事です。夜中のこともあるし。歩いてすぐに行けるところになるのは当然なわけです。
そして、スーパーで母にばったり会った。
「玲ちゃん、こっち来てたの?」
「うん」
「で、なにしてんの?こんなとこで」
「買い物」
「そんなん、見ればわかるわよ」
ちょっと呆れてそれから、わたしのカートの中身見てわざわざ聞かなくても分かったみたい。
「なに、斉藤君にご飯作ったげるの?」
「……うん」
「なに作るの?」
「ハンバーグ、かな?」
料理なんてたいしてできないし。簡単なものにしようと思ってた。
「あらあら、斉藤君、喜ぶだろうねぇ。疲れて帰っても玲ちゃんのご飯が食べられれば」
「ええ?たかがハンバーグで?」
母は笑ってなにも言わなかった。
「頑張りなさいねぇ」
「うん」
使い慣れない他人の台所で、ご飯を炊いて、玉ねぎを刻む。先生の包丁もプラスチックの白いまな板も、新品かと思うくらい綺麗だった。あまり自炊をしないのだろう。肉をこねて形を整えて焼いていると、ガチャリと音がして先生が帰ってきた。
「玲ちゃん?」
「あ、お帰りなさい」
「……」
「勝手にご飯作ってた」
先生は台所の入り口に立って、困ってました。最近、分かったことがある。先生が時々困ったようにしている時というのは、言いたいことがあるけどうまく言えない時なのだと思う。そして、この時先生は困ってたけど、でも、嬉しそうでもありました。
「なに作ってんの?」
「ハンバーグ」
「……」
「ハンバーグ、嫌いだった?」
「いや、まさか」
「もうちょっとだから、座って待ってて」
***
「で、それでどうだったの?」
その日の夜、家に帰るとすぐそのまま京香たちが寝てる部屋へ行って妹を探す。香音におっぱいをあげていた。そばに、太一がいたのを別の部屋へしっしと追いやった。
「お姉ちゃん?」
「なにもなかった」
「え?」
妹の胸元で目を瞑って満足そうにおっぱい飲みながら半分寝ている香音を見るとはなしに見つつ伝えた。
「嫌な雰囲気だったの?」
「いいや。二人で仲良くご飯食べてさ。後片付けして、しばらく並んでテレビ見てたの」
「うん」
「その後しばらくしたら、もう遅いから送るって」
「えー」
「ね、どうしよう?」
「どうしようって……」
「なんか原因があるのかな?やっぱりふ……」
妹はそのわたしの言葉を遮った。
「いや、そんなさ。もうこの際」
「うん」
「人間というのは大脳が発達してさ、それを支えるために腰の骨もガシッとだな」
「なんの話?」
「とにかく、動物とは違うのだからさ」
「はい」
「サクッと聞いちゃえ。なんでなにもしないの?もしかしてふ…」
それ以上の言葉は割愛された。
「えー!」
わたしが大声を出したので、香音はいい気持ちですやすや寝てたのをビクッと体を震わせたかと思うと、ふぎゃあと泣き出した。
「もう、お姉ちゃん」
「悪い」
妹は胸元を直すと、泣いている香音を抱っこして立ち上がるとあやしながら別の部屋にいる太一を探す。
「ね、太一さん、お願い」
「うん」
妹に頼まれた太一は立ち上がると、京香の腕から香音を受け取った。太一に抱かれて揺らされるうちに香音の泣き声が少しずつ小さくなってくる。幸せそうに笑いながら香音の顔を覗き込んでいる二人をしばらく見守った。そこに自分を重ねました。自分と斉藤君が二人と同じように赤ちゃんを巡って微笑みあっている絵を思い浮かべようとした。それはうまく思い浮かばなかった。
不安が湧き上がった。先生との間に結婚の話が出て、それはすんなりと順調に進んでました。それが突然、不安になった。
わたしは将来、この二人みたいに幸せになれる?
もしも、子供ができなかったらどうしよう?
京香は香音を太一に預けると、微笑んだままの顔でわたしの方に戻ってくる。
わたしは高価な指輪を持っている。京香は若くして夫婦ともに学生の身で結婚したので、いろいろなものを失ったし、お金を全然持ってない。指輪も持ってない。
だけど、それでも京香はわたしの持っていないものを持っている。
どうして?
心の中のどこかでまるでずっと晴れ晴れと晴れていた空に突然黒い雲が湧き上がるように、暗い考えが沸き起こる。
どうして、妹にはあってわたしにはないの?
どうして京香は自由で、わたしは自由ではないの?
そして、その次の瞬間、わたしは思考を止めた。ぴたりと止めて、考えるのをやめた。
「お姉ちゃん?」
「ん?」
「ね、考えすぎ。そんな心配することないって。大丈夫」
妹が椅子に座ったままで硬く握りしめているわたしの二つの手の片方をそっと握りました。温かい手で。
***
考えすぎと言われても、わたしは思い詰めてしまった。普段は抑えている自分の負の部分の感情が、この時は抑えられなかった。
玲ちゃんはいつも明るいね。にこにことしていて。
稼業柄、子供の頃からいろいろな大人の人と関わりながら育ちました。産院で働く人たちや、患者さんや患者さんの家族。いろいろな人がわたしを褒めた。
みんなが喜ぶ自分を演じることがいつの間にか癖になってました。
だけど、わたしだっていつもいつでも明るいわけでもない。
休めないだけなんです。明るい自分というものを。
とある日、一緒に出かけた帰り道、駅へまっすぐ向かう代わりに川沿いを散歩してました。遠回りしながら駅へ向かってた。夜の暗い黒い川に道沿いの建物の灯りが逆に映って、そしてゆらゆらと揺れてました。
「先生、旅行に行けませんか?夏が終わる前に」
「旅行?」
「うん」
「どこへ?」
「どこかへ」
先生は足を止めた。
「休み、取れない?」
「玲ちゃん……」
街灯の灯りの下で、先生は困ってた。困った顔でわたしを見ていた。その顔を見た途端に、なんだろう?わたしの不安はもう一段階すとんと深く落ちた。
あ、断られるかもと思った。
この人に断られて、わたしは、また1から誰かを探さなければならないかもしれない。
わたしとわたしの家を大切にしてくれる人を。
違和感
二人でいるときに感じる違和感
それが怖くてたまらなかったんです。
体を重ねて、解消してしまいたかった。
大丈夫だって、実感したかったんです。大丈夫だって。
空に放り投げられたボールは普通に放物線を描いて普通は落ちる。だけど、わたしは空を飛び続けるボールを見たかった。わたしの未来、飛び続けるボール。自分だって京香みたいに落ちることなく空を飛び続ける未来が見たい。
本当は本当に確実なものなんてこの世にないんです。だけど、あると思いたい。
一人で生きていくにはこの世は広くてそしてわたしは無力。なのに考えなければならないのは自分一人のことだけじゃない。潰されてしまいそうだった。本当はずっと前から、不安で、怖くて潰されてしまいそうだった。誰にも言えなかったけど。
「玲ちゃん」
先生の声がして、ふと我に返った。耳にチャプチャプと川の水が岸にぶつかってたてる水音が届きました。
「ちょっと座って話そうか」
川沿いに置かれた冷たくてすべすべとした石のベンチに並んで腰掛けた。
「どうして、突然旅行に行きたいなんて言い出したの?」
「それは、夏休みだからちょっと遊びに行きたいなと思って……」
「旅行に行くのは別にいいんだけど、それは、今でなくてはダメなの?」
「どうして?」
先生はため息をつきました。そしてまた困った顔をした。この人はまた、この顔をして、そして、なにも言わずに黙るのだろうかとぼんやりとそう思いながらその顔を見てました。でも、この時は違った。先生は訥々と言葉を紡ぎ出しました。
「うまく伝えられるかわからないのだけれど」
「はい」
「あなたのことは子供の頃から見てきたし……」
「はい」
「とても大切なんです」
「……」
「今までに女の人と二人付き合ったけど、その時とは違うの」
「……」
「ちゃんと聞いてる?」
「聞いてる」
「僕はあなたのことをちゃんと大切にしますけど、でも、君はまるで、生贄になる人みたいなんだよ」
「え?」
先生は困った顔で笑った。先生の顔越しに夜の夏の街灯にたむろする虫の群れが見える。
「言い方が悪かったよね。なんというのかな?家族や病院のために生贄として僕に身を捧げてるみたい」
「そんなことないよ」
「そんなことないのかもしれないけど、そんな、焦って生贄になるために池に身を投げるようなことしなくたって、僕はいなくならないから」
「……」
「玲ちゃんの望みは、家族や病院がうまくいくことでしょ?」
わたしはこくんと頷きました。
「心配しないでも、あなたの願いは必ず叶えるから」
そう言うと、わたしの手をそっと取って、手の甲にそっと口付けをした。男の人の少し湿って柔らかな唇の感触を手の甲に受けた。そのわたしの手の指には先生に贈られた指輪が光ってました。
「なんか誓いの儀式みたい」
「似合わなかったね」
それから、斉藤君はそおっと手を伸ばしてぎゅっとわたしを抱きしめた。
それは久しぶりの感覚でした。お父さんではない男の人の腕の中にいる感触。
「その……」
「ん?」
「嫌ではない?僕にこうされるの」
「……」
わたしに回している手が緊張して少し硬くなっているのが分かる。
「いいや」
「本当?」
「疑り深いなぁ」
「本当に本当?」
体を離して斉藤君は間近でわたしの目を覗いてきた。斉藤君のお母さんの言葉を思い出して、そして、ずっと一緒にいると約束したことを思い出しました。結婚というものには責任がある。誰かの愛を受けるというのにはきっと責任がある。
「本当」
嫌ではないというのは嘘ではない。そして、一旦結婚したら、この人がわたしや家族、そして病院を大切にしてくれる限り、わたしはこの人とずっと一緒にいます。
だけど、気持ちを返せるでしょうか?
愛を返せるでしょうか?
そこには自信がなかった。そのことにこの時まで気づいてなかった。
しばらく間近で見つめ合いながら、斉藤君が躊躇するのがわかった。キスをするかどうか迷ってたのだと思います。結局は諦めて、そっと体を離す。
「帰ろう」
駅へ向けて歩き出した。
結婚するのだから、いつかどこかでわたし達は体を重ねるでしょう。だけどそこにわたしの気持ちはあるんでしょうか。今日わかった。先生がどうして、何もしないのか。
何かをしてその時に、わたしの気持ちを知るのが怖いからです。
近寄らなければ見えないわたしの気持ちを見るのが怖いから。
そのことに罪悪感を初めて覚えました。




