60日目‐2
日が沈んでいく中、黄昏色の世界の影となってクチナとネネは林の中を進んでいた。
山を越えればすぐにでも、とは聞いていたが、逸る気持ちの所為かなかなかその姿は現れなかった。
天翔から八花へ。
危険なアヤカシの一匹たりとも二人の行く手を阻んだりはしなかった。
アヤカシがいないのではなく、クチナとネネの進む前にわざわざ割り込んできたりしないのだ。その理由が何故なのか、疑問に思ったところで二人にわざわざ教えてくれる者などいなかった。クチナの力量を悟り、危険を冒してまで阻むべきでないと判断出来ているのかもしれないし、そもそも、蛇穴に跋扈していたほどの低級なアヤカシはいないのかもしれない。はたまた、クチナはネネにさほど魅力を感じぬほど、この辺りには魅力ある事象が溢れているのかもしれない。
どの可能性も胸に秘めたまま、異様に長い黄昏の世界をクチナはネネと共に進んでいた。
まるで、自分自身が影鬼となってしまったかのよう。
しつこくて不気味であった大蛇様の愛玩たちもまた、次に姿を現すとしたら、その時はミズチ等の大蛇様の使いを通すための依代となる程度であろう。
もう大蛇様を恐れなくていいのだ。
道中、何度もそれを理解し、安心した。
行く手を阻むとすれば、大蛇様の本意を知らぬまま伝令を受けたキツくらいのもの。その彼らも細石まで抜けてしまった先では、すっかり姿を見なくなった。
いつまで逃げ、いつまで隠れていればいいのかなんて分からない。
それでも、クチナも、そしてネネも、もはや怖いものなど殆どなかった。女神は自分達を許してくれた。その事実がある限り、かつてのような恐ろしさなど感じずに済んだ。平穏はいつも自分達と共にある。その自信がある限り、堂々と歩むことが出来た。
味方はいつだって傍にいる。
その形こそ、クチナの持つ蛇斬であろう。
邪を断ち切る蛇の牙。その重みを感じながら、誰かの血を流すべく鞘から解き放ったことが数日前に遡る事を思い出し、クチナはふと安堵した。
長かった黄昏時ももうすぐ終わる。
日の神が去り、世界が夜闇に包まれていこうとするなか、ずっと山岳や平野を進んでいたクチナとネネの視界に、蛍の光のような煌めきが目指す先にぽつりぽつりと現れだした。高い壁に囲われて、遥か遠くで狐火か鬼火のように揺らめいているそれらは、紛れもなく人々の賑わいによるものだろう。
この先に待つその賑わいの正体は何なのか。
二人が分からないはずもなかった。
ずっとこの日を夢見て歩んできたのだ。草履と足がくっついてしまうのではないかと思うくらい足を酷使してこられたのも、ここでなら安心して時を待てると信じてきたからだ。
ここは蛇穴から遠い。
大蛇様と親しい神鳥様の領域も、見える範囲で途切れている。
クチナもネネも歩みを止めたまま、地上に広がる星空のような景色をしばし眺めていた。大蛇様からの友好的な迎えがいつ来るかなんて分からない。だが、そこが到達点であることだけは確かなことだった。
「……クチナ」
体力を使い果たしただろうネネの声が微かにあがる。その目はじっと行く手を見つめたままだった。疲れなんて忘れてしまったのだろう。見る者がそう思うくらい、ネネの両目は町の景色に囚われていた。
「あれが……八花なのよね……」
茫然としたその声に、クチナはぐっと手を握って答えた。
「うん、あれがきっと、八花の十六夜町だ」
怪しげな煌めきの正体は提灯だろう。近づけば、近づくだけ、賑やかな喧騒が耳に届いてくるようだ。キツや鬼灯なんてそこにはいない。大鴉さえも物珍しいことだろう。あの場所を支配するのは花神。蛇穴などとは全く違う風土がそこにある。
「とうとう……とうとうついた」
泣き出しそうな声でネネは言った。
「生きながら、本当に八花に連れていってくれた。ああ、クチナ……あなたは……あなたはわたしの女神様よ」
震えながら感動に浸るネネをそっと抱き寄せて、クチナは身体から緊張が抜けていくのを感じていた。
ここまで長かった。過ぎてしまえば早いようで、しかし思い出せばやはり長かった。女神の雛形と持て囃され、神聖視されていたとしても、蟲に憑かれた姉ミズチにいつか叱咤されたように、やはり自分は十五の少女。そう思い知らされる場面も多々あった。
それでも、やり遂げたのだ。諦めかけながらも、諦めきれずにとうとうここまで来てしまったのだ。その事実があまりにも大き過ぎて、クチナもまた受け止めるのに時間を要した。ネネの香りと蛇穴の金木犀の香りが混ざり合い、クチナの心を徐々に癒していく。
「いいや……わたしは女神じゃない。ネネ、君の『友達』でしょう?」
感動を噛みしめつつ、冷静さを取り戻したクチナは、やっとネネに答える事が出来た。
「それにまだだ。まだ、君との約束は果たせていない」
見上げてくるネネに微笑みかけ、クチナは再びその手を引っ張った。
ここはまだ天翔国。国境はあと少し先にある。花神の支配する領域はあと少し先にある。大蛇様と縁遠い神々の土地に迷い込まなければ、約束は果たせた事にならない。
八花に連れていく。八花に連れていって。
その言葉が何度自分達を助けてくれたことだろう。
引っ張り、引っ張られるのではなく、隣同士並びながら、クチナとネネはその先をじっくりと見つめた。
目的の場所が明るい分、周囲は真っ暗闇だった。何処かに段差でもあれば転んでしまうだろう。それでも、転んだところで目的の場所を見失うことはもはや起こり得ない。その光景を眺め、受け止め、クチナは隣に立つネネをそっと見つめた。
暗闇の中でもやや目立つ赤毛。その色を目に焼き付け、クチナは言った。
「行こう」
赤は約束の色。その色に誓った未来がすぐそこで待っている。どのような未来だろう。誰も教えてはくれないだろうけれど、それでも待っているのはかつてのように閉じられた可能性ではないはずだった。待ちうけているのは希望のはず。そう信じて、二人は同時に歩みはじめる。並ぶ二人を阻めるものは何処にもいない。
そして二人の少女は、今、国境を越えていった。




