2. 落とし物の法則
さっき読み上げた俺の声は、群衆のざわめきの底へ沈んで、誰にも届かなかった。
壇の上には角。角の前には勇者。高々と掲げた討伐の誓いだけが、行き場をなくして宙ぶらりんだ。
「いったい誰の仕業だ。勇者殿の門出の壇に、これを置いたのは?」
俺は麻紐の尻尾を揺らして、ひょいと手を挙げた。
「あ、それ、俺です」
広場じゅうの首が、ぐるりと回る。さっきは誰にも届かなかったのに、今度は届きすぎだ。挙げた手の置き場に、ちょっと困った。
切りそろえた金髪の勇者が、俺を指さす。その指を下げもせず、群衆へ向き直る。
「村人などに、洞窟の主が倒せるものか! 盗んだに決まっている!」
さっきまで角を見ていた目が、針みたいに俺へ刺さる。あれだけ隙間のなかった人垣が、俺の周りだけすっと離れた。
「そうだ、村人に倒せるわけがない!」
「盗めるんなら、それはそれで便利なんですけどね」
広場の朝の光が、急にひんやりする。冗談のつもりだったのに、誰も笑わない。
その横から、鼻の頭の煤を指でこすったハイケが、ずいと俺の前へ出た。
「落とし物の法則なら、村の子どもだって知ってるよ。勇者様、持ち上げてみなよ」
「法則を、この俺に説くか!」
「説いてないよ。持てば済むって言ってるんだ。みんなも見てるからさ」
「よかろう。盗人の言い逃れなど、この手で終わらせてくれる!」
主の落とし物は、倒した者にしか持ち上がらない。この世界の子どもが、いちばん最初に覚える法則だ。
勇者は角の前で両足を開き、太い根元をぐっとつかんだ。
背中を反らす。白銀の鎧がぎちぎちと鳴った。首筋まで真っ赤に染まっていくのに、角の先は床から髪の毛一本ぶんも浮かない。
「ふざけるな! さっきまで、ただの床だった。この床、いったいどうなっている!」
とんがり帽子を押さえた魔導士が、眠たげな半眼で足もとをのぞき込む。
「……勇者様。それ、床ごと持ち上げるおつもりですか?」
「なぜだ……! 選ばれたのは、この俺だぞ!」
勇者の声が、高く裏返った。広場の奥までよく通る、見事な声だ。
勇者に選ばれるのと、落とし物を拾えるのは、別の話なんだよなあ。
手を離した勇者が、尻をつきかけて、壇の縁にしがみついた。鎧ががしゃんと鳴り、俺まで肩をすくめる。
「じゃあ、俺がしまっておきますね。式の邪魔をして、すみません」
「触るな! この俺に動かせぬ物が、お前に持てるものか!」
俺は角の端へ、指を一本だけ掛けた。表面はひんやりして、ざらつきが指の腹に引っかかる。
ひょろ長い腕に力を込める前に、角のほうが羽みたいに付いてきた。
腰の道具袋の口へ寄せると、大人の背丈ほどの角が指先ほどに縮む。袋がかさりと鳴り、角はするりと吸い込まれていく。
「ほら、言ったとおりだろ! あたしは洞窟で、この目で見た。こいつが倒したんだよ!」
群衆のどこかで、誰かがぷっと吹き出す。
「指一本だぞ、指一本!」
笑いはさざ波みたいに広がった。村長まで口を押さえ、肩を震わせている。
広場いっぱいの笑い声が、背中を押してくれるみたいに温かい。俺は隣へ向けて、こっそり親指を立てた。
大神官だけは笑わない。剃り上げた頭をゆっくりと撫で、こちらへ目を据える。
「……あの村人の名を、記しておけ」
「次は……次こそは、この俺が先だ!」
背中が、少しだけ冷えた。でも、拍手を待つ道は俺の道じゃない。まだ見ていない景色のほうへ、もう足が向いている。
◇
昼、村外れの道へ出た俺を、荷物を山ほど背負ったハイケが追いかけてきた。荷物が跳ね、足音がみるみる近づいてくる。
「待ちな! 梯子の代金、まだもらってないよ!」
「港に着いたら払うよ。一緒に来る?」
「港って、峠を越えたら三日だよ?」
「三日もかけないよ。一時間ちょっとだ」
「一時間で峠を越える村人がいるもんか! 代金から逃げる気だね!」
ハイケが、ぐいと顔を寄せてくる。日に焼けた丸い頬が赤く、俺は思わずのけぞった。
「逃げないって。払う場所まで最短で行くんだから、むしろ親切じゃん」
「……あんたの最短、昨日から心臓に悪いんだよ」
一人なら、返事を待たずに走り出せる。なのに、返ってくるのが文句だとわかっていても、今は待つのが楽しい。
村外れの先で、地面がふっつりと途切れていた。
大峡谷だ。下は霞むほど深く、のぞくと腹の奥がすうっと軽くなる。峡谷の向こうは海へ下る斜面で、港町の屋根がずっと下に光っている。
底のほうから、遠い川の音と、かすかな潮の匂いが吹き上げてきた。
俺はさっそく道具袋から十三段の梯子を出して、崖っぷちに立てる。木の端が、乾いた土をさくっとかむ。
「あたしの梯子、どこに掛ける気さ! 上に壁も枝もないよ!」
「掛けないよ。てっぺんまで上れれば十分。ハイケも、ほら、背中に乗って」
「あんたの注文、あたしに言ってないことが多すぎる!」
「落とさないのだけは、保証するよ」
文句を言いながらも、ハイケの指は梯子の継ぎ目を一つずつ確かめていた。
道具を見る目だけは、少しもぶれない。俺もその指が止まるまで待つ。
背中にハイケを乗せ、ひょろ長い手足で十三段を上った。
てっぺんで、俺は梯子を道具袋へしまう。木のきしみが途切れ、足の下から梯子だけがすぽんと消える。
梯子が消えても、俺たちは落ちなかった。
足の裏に、見えない段の固さがちゃんと残っている。つま先へ体重を移すと、靴底がぐっと押し返される。俺はそのまま、宙へ一歩を踏み出す。
「人間は、空を歩かない!」
「歩けるんだよなあ、これが」
峡谷の底から風が吹き上がり、二人の髪をばさばさとかき回した。上着が膨らみ、背中の腕が首にぎゅっと絡む。
背中で、ハイケの心臓がどくどくと鳴っていた。俺の鼓動まで急かすみたいな速さだ。
「何これ……道がないのに、歩いてる……あははっ、笑っちゃうじゃないか!」
「怖くない?」
「怖すぎて笑ってるんだよ! あんた、よく足が出るね!」
「足もとの段は、十三段目と同じ固さなんだよ。踏んでみる?」
「踏むか! あたしは背中から一歩も降りないからね!」
前の人生でも、この空は歩いた。画面の中で、一人きりで。
今は背中に、梯子を打った本人がいて、一歩ごとに悲鳴と笑い声が返ってくる。そのたび、俺まで笑ってしまう。
肩に食い込むハイケの指が、痛いくらいに熱かった。
「区間二、一時間五十八分。……自己ベストだ」
「……悪くないね。打ったときは、こんな空まで来るとは思わなかった。あたしの梯子、ほんとにこんなとこまで来たんだ」
「いい梯子だよ。段の間隔が、足にぴったりだ」
肩に食い込んでいた指が、ほんの少し緩む。港町の屋根が近づいてくる。けれど俺たちの高さは、梯子のてっぺんのままだ。
降りる段は無い。前の人生では、ここで飛び降りて、港の教会で生き返る道だった。
生き返りの法則が働くのは、勇者一行だけだ。村人の俺には、教会の鐘は鳴らない。背中の重みを受け直し、俺は宙で足を止める。
「……ところでさ。前の人生の俺、ここで一回死んでるんだよな」




