3. 三日前の書き置き
ハイケの悲鳴が、峡谷の端から端へ突き抜けた。
「死んでるって何!? 今、死んでるって言った!?」
背中のハイケが、俺の肩を両手でつかんでがくがく揺さぶる。足の下には風しかない。宙の上でそれをやられると、さすがに笑顔も引きつる。
「大丈夫。落ちる直前に、道具袋から何か一つ出せばいい」
「何かって何さ!」
「鍋の蓋。ハイケが打ったやつ」
「あたしの蓋で死んだら、絶対に化けて出てやるからね!」
「じゃあ、生きて着いたら、代金に上乗せってことで」
取り出しの一瞬だけ、落ちる勢いが消える。出すのは地面に触れる直前で、外せば二人とも終わる。袋の口に指をかけ、腰を落として構え直した。
俺は宙で、小さく跳ぶ。
法則が〈梯子から降りた〉と数え、見えない段がすっと消えた。
潮の匂いが顔を叩く。腹の底だけが宙に残り、港の屋根と砂浜が、こっちへ駆け上がってくる。
砂浜の一瞬前、指にかかった冷たい縁を握り、俺は袋から鍋の蓋を引き抜いた。
耳をふさいでいた風の音が、ふっと切れる。体が止まり、それから、ぽすんと砂の上に座った。
「ほら、生きてる」
「……これ、あたしが打った蓋だ」
ハイケが蓋をひっくり返し、震える指で縁をなぞる。鼻の頭の煤まで、涙でにじんでいる。俺も、その縁にそっと指を添えた。
「曲がってないよ。やっぱり、いい蓋じゃん。今夜、港の盗賊に懸かった懸賞金で梯子の代金も払えるよ」
「上乗せは消えないからね! あと、この蓋で鍋はもう煮ないから!」
「どうして?」
「空から落ちてきた蓋で煮た鍋なんか、縁起が悪いだろ!」
命は預けても、晩飯は任せられないらしい。そこは俺にも分からない。
夕日が海を赤く染め、空っぽの桟橋で、波だけが杭を叩いている。湿った木の匂いを運ぶ風が、汗ばんだ背中を冷やした。
夕方の港へ入っても、船へ向かう人はまばらだ。靴音ばかりがやけに響く。
北海の黒鯱を名乗る盗賊団が、この港を牛耳っている。
衛兵の詰所で、今夜のうちに片づけると告げると、衛兵長は鼻で笑った。
「村人が一晩で黒鯱の一味を? 寝言は寝て言え」
「寝言なら、もう少し面白いことを言いますよ」
口角が勝手に上がる。この反応、原作の衛兵長とそっくりだ。原作では、ここで勇者に三日がかりの見回りを頼む男でもある。
「衛兵さんを三人、貸してください。縄は多めで」
「朝には泣いて戻るさ。こいつらに余計な手間をかけさせるなよ」
「泣くほど面白かったら、戻りますね」
港の鐘が鳴った。見張りが入れ替わる刻だ。余韻が暗い水面へほどけていく。
灯りを提げたハイケが、ぶつぶつ言いながら後ろに付いてくる。麻紐の尻尾を引っぱられて、俺は首ごと振り返った。
「今度は何をする気さ。先に言うって約束だろ」
「悪党の口上を聞く。それだけ」
「それだけで済んだためしがないんだよ、あんたは!」
「今日は済むよ。……たぶん」
灯台の下の洞では、焚き火の前で、樽みたいな大男が立ち上がる。火の粉が跳ね、壁の影までのしかかってくる。煙と、こぼれた酒の甘ったるい匂いで、喉の奥がいがらっぽい。
三つ編みの顎髭が、ぐいと俺へ突き出された。
悪党の名乗り口上は、三歩の内に入られると始まり、言い終えるまで四十秒、本人の体は動かない。原作では飛ばせなくて、走者みんなが嫌った四十秒だ。
飛ばせないなら、使えばいい。俺は口角の上がった面長を向けたまま、三歩の内へ踏み込んだ。
「――聞けい! 我こそは北海の黒鯱、千の帆を沈めし男なり!」
両腕を広げた見得のまま、頭の体がぴたりと止まる。踏みしめた靴も、張り出した胸も動かない。声だけが、やけに元気だ。
「今です。広げてくれた腕ごと、巻いてください」
衛兵たちが、恐る恐る縄を回した。縄のこすれる、ざりざりという音が口上に混じる。
頭は帆の数に続けて嵐を誇り、港の名を並べ立てる。縄が胴を三重に巻いても、顎髭だけが威勢よく揺れている。
縄を回す衛兵の一人が、頭の顔と結び目を見比べ、口上の真下で声を裏返らせた。
「縛ってるのに、まだ自分の話をしてるぞ!」
手下たちが、からん、と武器を落とす。誰も拾わない。壁際まで後ずさり、背中がぶつかってもなお足を引いている。
灯りを握ったハイケが、俺の背中から身を乗り出した。炎が揺れても、頭の見得は少しも揺れない。
「人間は、縛られながら名乗らない!」
「名乗っちゃうんだよなあ、これが」
衛兵が二人がかりで頭を担ぎ上げた。足が地面を離れても、口上だけは洞いっぱいに響いている。運ぶ側の足取りのほうが、よほどぎこちない。
「区間三、二時間四十一分」
「――すべては、大神官様の御名のもとに!」
俺の足が止まった。
「……今の一行、千回聞いて、一度も無かったぞ」
千回聞いた口上の最後は、いつも同じ一言で終わる。今の言葉が、焚き火のはぜる音よりはっきりと耳に残っている。
背中がぞくりとする。そのすぐあとから、こらえようもなく口角が上がってきた。
知っているはずの世界に、知らない一行がある。いつも通りだった道の先が、急に見えなくなった。それなのに、足の裏がうずうずする。
「ラウリ、顔が変だよ。さっきより、にやけてない?」
「だって、知らないことが出たんだよ。……面白っ」
「面白がるとこじゃないよ! 大神官様って、あの剃った頭の人だろ?」
「そう。原作だと、ここで名前が出ることは無いんだ」
「げんさく、げんさくって……あんたの話、時々ちっとも分かんないよ」
詰所に戻ると、衛兵長が苦い顔のまま、黒鯱に懸かった懸賞金の袋を寄こす。机を滑ってきた袋が、じゃらりと鳴った。
そこから銅貨三十枚をハイケへ渡す。ハイケは掌の上で一枚ずつ数えた。蓋の縁をなぞっていた指は、もう震えていない。
深夜、俺は港の役所の掲示板に、一枚の書き置きを留めた。署名は、村人Aだ。夜風に紙の端がぱたぱた鳴る。
「なんで〈三日前〉なのさ。救ったのは今日だろ?」
「勇者様が読むのは、三日後の昼だから」
「あんた、本当に気味が悪いね!」
原作の役人は、着いた勇者に〈三日もの峠越え、お疲れでしょう〉と言う。正しい道を歩く人の足は、台詞から数えられる。
◇
三日後の昼、港の役所の前に、白銀の鎧の一行が着いた。
勇者の切りそろえた金髪は汗で額に貼りつき、鎧のすねまで峠道の泥がこびりついている。足を踏み出すたび、乾いた泥が石畳にこぼれる。
「盗賊なら、三日前に片づきました。勇者様へは、あちらに書き置きが」
役人が指した紙を、勇者は掲示板からむしり取る。びり、と端が裂けた。その横から、とんがり帽子の魔導士が半眼で紙をのぞき込む。
「『勇者様、その町はもう三日前に救っておきました。村人A』……だと?」
「……日付、ぴったりですね」
「偶然だ! 日付など、誰にでも書ける!」
魔導士の指が、紙の日付を軽く叩く。乾いた音に、勇者の唇がきゅっと結ばれた。
足を止めた港の人々のあいだで、くすくす笑いが広がっていく。名乗りながら担がれた盗賊の話は、もう港じゅうに知れ渡っている。誰かが口を押さえ、それを見た誰かの肩も揺れる。
「名乗ってる最中に担がれたんだってよ」
勇者の手の中で、書き置きがくしゃりと潰れた。その音は、港の笑い声にあっさり紛れる。
「村人などに、勇者の道を先に歩かせてたまるか……!」




