↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/3

3. 三日前の書き置き

 ハイケの悲鳴が、峡谷の端から端へ突き抜けた。


「死んでるって何!? 今、死んでるって言った!?」


 背中のハイケが、俺の肩を両手でつかんでがくがく揺さぶる。足の下には風しかない。宙の上でそれをやられると、さすがに笑顔も引きつる。


「大丈夫。落ちる直前に、道具袋から何か一つ出せばいい」


「何かって何さ!」


「鍋の蓋。ハイケが打ったやつ」


「あたしの蓋で死んだら、絶対に化けて出てやるからね!」


「じゃあ、生きて着いたら、代金に上乗せってことで」


 取り出しの一瞬だけ、落ちる勢いが消える。出すのは地面に触れる直前で、外せば二人とも終わる。袋の口に指をかけ、腰を落として構え直した。


 俺は宙で、小さく跳ぶ。


 法則が〈梯子から降りた〉と数え、見えない段がすっと消えた。


 潮の匂いが顔を叩く。腹の底だけが宙に残り、港の屋根と砂浜が、こっちへ駆け上がってくる。


 砂浜の一瞬前、指にかかった冷たい縁を握り、俺は袋から鍋の蓋を引き抜いた。


 耳をふさいでいた風の音が、ふっと切れる。体が止まり、それから、ぽすんと砂の上に座った。


「ほら、生きてる」


「……これ、あたしが打った蓋だ」


 ハイケが蓋をひっくり返し、震える指で縁をなぞる。鼻の頭の煤まで、涙でにじんでいる。俺も、その縁にそっと指を添えた。


「曲がってないよ。やっぱり、いい蓋じゃん。今夜、港の盗賊に懸かった懸賞金で梯子の代金も払えるよ」


「上乗せは消えないからね! あと、この蓋で鍋はもう煮ないから!」


「どうして?」


「空から落ちてきた蓋で煮た鍋なんか、縁起が悪いだろ!」


 命は預けても、晩飯は任せられないらしい。そこは俺にも分からない。


 夕日が海を赤く染め、空っぽの桟橋で、波だけが杭を叩いている。湿った木の匂いを運ぶ風が、汗ばんだ背中を冷やした。


 夕方の港へ入っても、船へ向かう人はまばらだ。靴音ばかりがやけに響く。


 北海の黒鯱(くろしゃち)を名乗る盗賊団が、この港を牛耳っている。


 衛兵の詰所で、今夜のうちに片づけると告げると、衛兵長は鼻で笑った。


「村人が一晩で黒鯱の一味を? 寝言は寝て言え」


「寝言なら、もう少し面白いことを言いますよ」


 口角が勝手に上がる。この反応、原作の衛兵長とそっくりだ。原作では、ここで勇者に三日がかりの見回りを頼む男でもある。


「衛兵さんを三人、貸してください。縄は多めで」


「朝には泣いて戻るさ。こいつらに余計な手間をかけさせるなよ」


「泣くほど面白かったら、戻りますね」


 港の鐘が鳴った。見張りが入れ替わる刻だ。余韻が暗い水面へほどけていく。


 灯りを提げたハイケが、ぶつぶつ言いながら後ろに付いてくる。麻紐の尻尾を引っぱられて、俺は首ごと振り返った。


「今度は何をする気さ。先に言うって約束だろ」


「悪党の口上を聞く。それだけ」


「それだけで済んだためしがないんだよ、あんたは!」


「今日は済むよ。……たぶん」


 灯台の下の洞では、焚き火の前で、樽みたいな大男が立ち上がる。火の粉が跳ね、壁の影までのしかかってくる。煙と、こぼれた酒の甘ったるい匂いで、喉の奥がいがらっぽい。


 三つ編みの顎髭が、ぐいと俺へ突き出された。


 悪党の名乗り口上は、三歩の内に入られると始まり、言い終えるまで四十秒、本人の体は動かない。原作では飛ばせなくて、走者みんなが嫌った四十秒だ。


 飛ばせないなら、使えばいい。俺は口角の上がった面長を向けたまま、三歩の内へ踏み込んだ。


「――聞けい! 我こそは北海の黒鯱、千の帆を沈めし男なり!」


 両腕を広げた見得のまま、頭の体がぴたりと止まる。踏みしめた靴も、張り出した胸も動かない。声だけが、やけに元気だ。


「今です。広げてくれた腕ごと、巻いてください」


 衛兵たちが、恐る恐る縄を回した。縄のこすれる、ざりざりという音が口上に混じる。


 頭は帆の数に続けて嵐を誇り、港の名を並べ立てる。縄が胴を三重に巻いても、顎髭だけが威勢よく揺れている。


 縄を回す衛兵の一人が、頭の顔と結び目を見比べ、口上の真下で声を裏返らせた。


「縛ってるのに、まだ自分の話をしてるぞ!」


 手下たちが、からん、と武器を落とす。誰も拾わない。壁際まで後ずさり、背中がぶつかってもなお足を引いている。


 灯りを握ったハイケが、俺の背中から身を乗り出した。炎が揺れても、頭の見得は少しも揺れない。


「人間は、縛られながら名乗らない!」


「名乗っちゃうんだよなあ、これが」


 衛兵が二人がかりで頭を担ぎ上げた。足が地面を離れても、口上だけは洞いっぱいに響いている。運ぶ側の足取りのほうが、よほどぎこちない。


「区間三、二時間四十一分」


「――すべては、大神官様の御名のもとに!」


 俺の足が止まった。


「……今の一行、千回聞いて、一度も無かったぞ」


 千回聞いた口上の最後は、いつも同じ一言で終わる。今の言葉が、焚き火のはぜる音よりはっきりと耳に残っている。


 背中がぞくりとする。そのすぐあとから、こらえようもなく口角が上がってきた。


 知っているはずの世界に、知らない一行がある。いつも通りだった道の先が、急に見えなくなった。それなのに、足の裏がうずうずする。


「ラウリ、顔が変だよ。さっきより、にやけてない?」


「だって、知らないことが出たんだよ。……面白っ」


「面白がるとこじゃないよ! 大神官様って、あの剃った頭の人だろ?」


「そう。原作だと、ここで名前が出ることは無いんだ」


「げんさく、げんさくって……あんたの話、時々ちっとも分かんないよ」


 詰所に戻ると、衛兵長が苦い顔のまま、黒鯱に懸かった懸賞金の袋を寄こす。机を滑ってきた袋が、じゃらりと鳴った。


 そこから銅貨三十枚をハイケへ渡す。ハイケは掌の上で一枚ずつ数えた。蓋の縁をなぞっていた指は、もう震えていない。


 深夜、俺は港の役所の掲示板に、一枚の書き置きを留めた。署名は、村人Aだ。夜風に紙の端がぱたぱた鳴る。


「なんで〈三日前〉なのさ。救ったのは今日だろ?」


「勇者様が読むのは、三日後の昼だから」


「あんた、本当に気味が悪いね!」


 原作の役人は、着いた勇者に〈三日もの峠越え、お疲れでしょう〉と言う。正しい道を歩く人の足は、台詞から数えられる。


       ◇


 三日後の昼、港の役所の前に、白銀の鎧の一行が着いた。


 勇者の切りそろえた金髪は汗で額に貼りつき、鎧のすねまで峠道の泥がこびりついている。足を踏み出すたび、乾いた泥が石畳にこぼれる。


「盗賊なら、三日前に片づきました。勇者様へは、あちらに書き置きが」


 役人が指した紙を、勇者は掲示板からむしり取る。びり、と端が裂けた。その横から、とんがり帽子の魔導士が半眼で紙をのぞき込む。


「『勇者様、その町はもう三日前に救っておきました。村人A』……だと?」


「……日付、ぴったりですね」


「偶然だ! 日付など、誰にでも書ける!」


 魔導士の指が、紙の日付を軽く叩く。乾いた音に、勇者の唇がきゅっと結ばれた。


 足を止めた港の人々のあいだで、くすくす笑いが広がっていく。名乗りながら担がれた盗賊の話は、もう港じゅうに知れ渡っている。誰かが口を押さえ、それを見た誰かの肩も揺れる。


「名乗ってる最中に担がれたんだってよ」


 勇者の手の中で、書き置きがくしゃりと潰れた。その音は、港の笑い声にあっさり紛れる。


「村人などに、勇者の道を先に歩かせてたまるか……!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。