1. 計測、開始
「村人など、荷物持ちにもいらん」
勇者選定の儀の朝、侯爵家の嫡男は、俺の顔も見ずにそう言った。
祠の前の広場には朝の光が斜めに差し込み、祝いの焼き菓子の甘い匂いが漂っている。俺の周りだけ、妙に人の輪が遠かった。
村長に背中を押されて、荷物持ちの列の前へ出されたのは俺だ。麻紐の尻尾を揺らして、俺は首の後ろをぽりぽりとかいた。
切りそろえた金髪の勇者ルートヴィヒは、顎を上げたまま、俺の頭の上の空を見ている。
隣に控えるのは、剃り上げた頭の大神官。原作で勇者を選ぶのは聖剣だ。この人じゃないんだけどな。
前の人生で、俺はこのゲームの最短クリアの世界記録保持者だった。
RTA――最短で、ゲームを終わらせる遊びだ。原作『ブレイヴ・ロード』なら、千時間は走り込んでいる。
配信の画面の隅で、区間タイムの数字だけが友だちだった。記録を出した明け方、机に突っ伏して、それきりだ。
十日前、井戸の水に映った若草色の目を見て、ようやく気づいた。
原作では門の前に一日じゅう立ち、旅人に村の名を教えるだけ。名前の無い〈村人A〉の顔だ。
でも、この世界はゲームと同じ法則で動いている。穴まで同じなら、最短の道もこっちにある。門の前で待っている理由はない。
「助かります。荷物、重いんで」
「……何?」
「ああ、こっちの話です。洞窟、今夜行くんで」
大神官が鼻で笑った。俺の今夜は、この人には笑い話らしい。
「勇者殿の最初の務めは、村外れの洞窟の主を討つこと。三年のうちに、力を蓄えられよ」
「三年もいらん。一年で討ってみせる」
広場がどっと沸き、拍手が祠の屋根まで跳ね上がった。
「一年かあ。じゃあ俺は、準備に戻りますね」
「待て。この俺の誓いに、背を向けるか?」
「荷物は要らないんですよね? 今夜は、手を空けておきたいんです」
勇者の手が剣の柄にかかり、金具がかちりと鳴る。俺に扱える刃物なんて、台所の包丁くらいだ。
「お前ごときが、洞窟の入口に触れることすらできるものか!」
「入口は使わないので、大丈夫です」
「出発式で、この俺の誓いを聞いていけ! お前は列の端で十分だ!」
「端のほうが、よく見えますね。誓いが何年の話になるか、朝を楽しみにしてます」
村長が真っ青になって、俺の袖を引っぱった。縫い目がみしりと鳴るほどの力だ。
「ラウリ、お前、何を言ってるんだ!」
「大丈夫。朝にはちゃんと戻るよ、村長」
原作なら、洞窟が開くのは第三章だ。三年も一年も待つ入口なら、飛ばしてしまえばいい。今夜の道順は、もう頭の中にある。
◇
夜更け、俺は村の裏の井戸の縁に腰を掛けた。
草むらから細い虫の声。井戸の口からは、苔の湿った匂いが上がってくる。縄の結び目も、足を掛ける石も、昼のうちに確かめてある。
「……計測、開始」
縄を伝って底へ降りると、冷たい水が足首にしみる。つま先が勝手に丸くなる冷たさだ。
見上げた丸い夜空から、灯りがひとつ、揺れながら下りてきた。
鼻の頭の煤を袖でこすりながら縄にぶら下がっているのは、鍛冶屋の娘のハイケだ。揺れる火が、濡れた石のあちこちに影を走らせる。
「ちょっとアンタ! 夜中に井戸へ降りる村人が、どこにいるのさ!」
「ここに」
「威張るな! 昼間の広場のあれ、本気だったのかい?」
「本気だよ。ハイケの梯子と鍋の蓋も、そのうち使う」
俺は笑って、横穴へ歩き出した。足もとで跳ねる水音に、後ろからもぴしゃりと水音が重なる。
湿った岩の道の先を、錆びた鉄の扉がふさいでいる。近づくと、鼻の奥に鉄の匂いが引っかかる。
「開かないよ、これ。村の誰も、鍵なんか持ってないんだから」
「今日は鍵も使わない。扉の横の、あの割れてるとこを通る」
俺は岩壁の割れ目へ、体を斜めに押しつけた。
しゃがむ一瞬だけ、当たり判定の押し出しが逆向きになる。押す角度と立つ拍、そこさえ合えばいい。
しゃがんで、立つ。しゃがんで、立つ。そのたびに、俺の体は岩の中へ、ずりずりとめり込んでいく。
冷えた粘土に頬をぎゅうっと挟まれるような重さ。ごり、と耳のそばで鈍い音がして、顔の半分が岩の中に埋まった。
「人間は、岩に入らない!」
「入れるんだよなあ、これが」
ハイケが、俺の足首をがしっとつかむ。爪先まで伝わる力に、危うくしゃがむ拍がずれそうになる。
「戻りな! あんた、そのまま埋まっちゃうよ!」
「つかむなら、離さないで。触ってる人も、一緒に通るから」
ハイケの悲鳴ごと、二人の体がずるずると岩を抜けた。頬を締めつけていた重さが、ぷつりと途切れる。
「あたしまで入ってる! あんたを止めに来たんだよ!」
「ゲームでも、連れはちゃんと付いてくるんだよ」
「げーむって何さ! それより前、でっかいのがいる!」
抜けた先の広間で、家ほどもある岩の背の獣が、こちらへ鼻を向けている。俺は一拍、口を開けたまま動けなかった。
洞窟の主だ。鼻息ひとつで、ハイケの灯りの火が横に寝た。
「でかいなあ! 思ってたより、だいぶ毛深い」
「感心してる場合かい!」
灯りに揺れる毛先まで見たくて、つい目を凝らしてしまう。でも、一撃もらえば、村人の体じゃ持たない。だから、まともにはやらない。
俺は壁へ半分だけめり込み、そこで足を止めた。
「なんで止まるのさ! こっちに来るよ!」
「ハイケは離れてて。角が壁に重なるとこ、よく見ててよ」
「見たくない! 見たくないけど、目が離せないじゃない!」
主が床をえぐって走り出す。腹の底を突き上げる振動に、奥歯がかちりと鳴る。
突っ込んできた角が、俺の肩をすり抜けて岩に重なった。
洞窟の主は、首をかしげたまま、床の下へずぶずぶと沈んでいく。
最後に尻尾が、〈あれ?〉とでも言うように揺れた。
光の粒がふわりと昇り、冷たい床には角が一本だけ残っている。さっきまでの足音が嘘みたいに、しんとしている。
「……今の、倒したことになるの?」
「なるんだよ。この世界の法則だと。はっはっは!」
「あんた、なんで笑ってるのよ! あたしなんか、叫びっぱなしだったのに!」
ハイケの声が、広間の天井でわんわん跳ね返った。
画面の端を流れる文字の悲鳴しか、前の人生の俺は知らない。隣で上がる本物は、こんなにも耳の奥まで響くのか。その息が落ち着くより先に次へ走るのは、なんだか違う気がする。
「次は先に言うよ。……ごめん、すごく楽しかった」
「楽しまないで! ほんとに、死ぬかと思ったんだからね!」
「この角、朝の壇に置いてくる。あの人にも、すぐ見つけてもらえるだろうし」
「勇者様の壇に!? あたしの道具もそうだけど、あんた、使い道がおかしいよ!」
「門出の贈り物だよ。せっかくなら、いちばん見えるとこがいいじゃん」
◇
朝の光の中、白銀の鎧の勇者が壇へ上がった。
群衆が祠の前まで詰めかけ、大神官が壇の脇で満足げにうなずく。俺も人の肩の隙間から、壇をのぞく。
「洞窟の主は、この勇者が必ず討つ!」
翌朝、勇者の出発式の壇上には、洞窟の主の角が一本、転がっていた。
勇者の口が開いたまま止まり、群衆の目が、勇者の足もとへいっせいに落ちる。今度は、拍手が起きない。
大神官が、壇の上へ身を乗り出した。
「な、なんだ、これは……!」
「洞窟の主の角だ! ゆうべまで吠えてた、あいつの角だぞ!」
群衆の後ろで、俺は手に残った煤を払う。計り終えたのは、角を壇に置いた夜明け前だ。
隣でハイケが、両手で頭を抱えていた。けれど指の隙間から、しっかり壇を見ている。
「……区間一、四時間十二分。ちょっと遅れたな」




