咀嚼音
賢治がスタジオから姿を消した翌日、そのスタジオに入ったのは、彼の先輩であるベテランミキサーの達也だった。
賢治の私物や機材はそのまま残されていたが、本人の姿だけが消えていた。
達也は賢治のパソコンの画面に残された音声データを不審に思い、再生ボタンを押した。
スピーカーから流れてきたのは、これまで行方不明になった若者たちの声ではなかった。
「クチャ、クチャ。 じゅるり」
と何かをすするような音。骨が噛み砕かれる
「バキ、ボキ」
という鈍い音。
それは、紛れもない
「何かが肉を貪り喰う音」だった。
「なんだ、この悪趣味な音源は……」
達也は眉をひそめ、再生を停止しようとした。
しかし、マウスが反応しない。キーボードの強制終了も効かない。
大音量の咀嚼音が、スタジオの高性能スピーカーから容赦なく吐き出され、壁を振動させる。
「クチャ、チャプ、バキィ」
その音は、あまりにも生々しかった。生肉を引き千切り、骨の髄まで吸い尽くすような、飢えた獣、あるいはそれ以上の怪物の食事風景が、音だけで鮮明に脳裏に浮かび上がる。
達也は不快感のあまり、スピーカーの電源ケーブルを直接引き抜いた。
ブツン、と音が消え、スタジオに静寂が戻る。達也はふぅ、と深くため息をついた。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
「クチャ……クチャ……」
また聞こえる。今度はスピーカーからではない。達也のポケットの中からだった。
達也は恐る恐るスマートフォンを取り出した。
画面を見ると、勝手に「録音アプリ」が起動しており、現在進行形で音を拾い、それをリアルタイムで再生していた。
画面の波形が、達也のすぐ近くにある「音」に反応して大きく揺れている。
(まさか、この部屋の中に誰かいるのか?) 達也はスタジオ内を見渡した。
防音扉は閉まっており、鍵もかかっている。隠れられるような場所はない。
スマートフォンの画面を見る。波形は、達也が動くのを止めても、激しく動き続けている。
それどころか、スマートフォンのマイクは、達也の「すぐ足元」の音を捉えているようだった。
達也はゆっくりと視線を下ろした。 スマートフォンの画面に映る波形と完全に同期して、達也自身の「影」が、床の上で不自然にのたうち回っていた。
そして、影の頭部にあたる部分が大きく裂け、そこから白い歯が覗き、達也の足を「クチャ、クチャ」と音を立てて喰らい始めていた。達也が痛みに気づくよりも早く、彼の身体は音の中に溶けるように消えていった。




