第22章 闇に潜む狩人の襲撃
街を一日中巡って楽しんだ彼らは、やがて宿へと戻る道を歩いていた。
共に過ごした時間の余韻に包まれ、誰もが幸福そうな表情を浮かべていた――その時だった。
突如として南の方角から、建物が崩れ落ちるような轟音が響き渡る。
次の瞬間、炎に照らされた黒煙が空高く立ち昇っているのが見えた。
「何だ……火事か!?」
「向こうでも火災が起きてる!」
「……いや、違う。これは襲撃だ……」
イザウたちはすぐに音のした場所へ向かった。
少しでも早く辿り着くため、エイミがイザウを抱え上げる。アマリスは別行動を取り、エヴァ婆さんへ報告するとともに、至急兵を動員し、さらにシリオスとカルスを呼び戻すため走っていった。
エイミは脚にヴァルクを纏わせる。
その瞬間、彼女の速度は一気に増し、イザウを抱えたまま疾風のように街を駆け抜けた。
現場へ到着したものの、そこに怪物の姿はなかった。
彼らは周囲へ散開し敵を探す。しかし、どこにも見当たらない。
ソラは倒壊した建物の下敷きになっていた住民を助け出した。
かなりの重傷だったが、幸いにもまだ意識はある。
「襲ってきた魔物はどこだ!?」
「……気をつけろ……奴は闇に潜んでいる……空の上だ……」
その言葉にソラは反射的に空を見上げた。
暗闇の中――巨大な何かが蠢いている。
「みんな、警戒して! 上にいる!」
次の瞬間、キルスがその巨体を現した。
その姿はまるで巨大な鯨。
だが頭には二本の角が生え、口先にも一本の鋭い角が突き出ている。眼は不気味な赤に染まり、本来海を泳ぐはずの巨体は、まるで海中を進むかのように空を遊泳していた。
そして――。
キルスが発した咆哮が夜空を震わせる。
あまりにも甲高く鋭いその音は、周囲の建物の窓ガラスを次々と粉砕した。
「耳が……! すごい音……!」
「で、でかすぎる……! こんなの、どうやって倒すのよ!?」
リカが顔を強張らせる。
「ペミ、ヴィオレン! 生きてる住民の治療を頼む!」
「了解です、キャプテン!」
全身に包帯を巻き、まだ回復途中のリオンも戦場に立っていた。
彼は地上から泥を撃ち出し、キルスを攻撃する。
「……駄目だ! 俺の攻撃じゃ意味がない! 傷一つついてない……もっと強い一撃が必要だ!」
「問題は空中にいることだな。使えるのは遠距離攻撃だけか……」
「相手が空なら、私に任せて」
そう言ってエイミはイザウを静かに地面へ降ろした。
「頼むエイミ! 私の攻撃も通じなかった……空にいる限り、凍らせることすらできない!」
エイミは風の分解体ヴァルクへと姿を変え、一気に空へ舞い上がる。
鋭利な暴風による遠距離攻撃。
さらに自ら接近し、狙いを定めた連撃を叩き込んだ。
だが――。
その全てが、キルスにはまるで通用しなかった。
むしろキルスは再び耳を裂くような咆哮を放ち、その衝撃でエイミは後退を余儀なくされる。
「……駄目、傷一つつかない……! どうやって倒せばいいの!?」
「……すまない。こんな身体じゃ、私は足手まといだな……」
イザウが悔しげに呟く。
「今は自分を責める時じゃないわ、イザウ。私たちだって、あなたの力が必要なのよ」
イノリアの声は強く、迷いがなかった。
「……私の考えでは、急所を狙うしかない」
「どこだと思う、イザウ?」
「眼だ。そこなら可能性がある。……あるいは、もっと危険な方法だが――口の中へ入り、直接内臓を攻撃するしかない。見れば分かるだろう、外皮が異常なほど硬い」
ちょうどその時、街の兵たちが援軍として到着した。
アマリス、シリオス、カルスも共にいる。
「すみません、遅れました!」
「いや、大丈夫だアマリス。……ところで、今まで君たちはどうやってキルスと戦っていたんだ?」
「……戦ったことはありません。私たちはただ追い払っていただけです。火で脅して……兵の中には炎のヴァルクを扱える者もいますので」
「私が自由に動ければ……私自身が戦うのだが……」
イザウが歯噛みする。
「――私が戦うわ」
そう言ったのはイノリアだった。
「追い払うだけじゃ意味がない。またいつでも戻ってくる。だから……ここで倒す」
「どうやって戦うつもりだ、イノリア? 物理攻撃は効いていない」
「海へ戻して。……私は海の中で倒す」
「無茶だ!」
イザウは即座に否定した。
「水の女神ヴァルクだってまだ完全には使いこなせていない。それに、お前の傷もまだ治ってない!」
「……でも、他に方法はないでしょう?」
イノリアの瞳は揺るがない。
しばしの沈黙の後、イザウは息を吐いた。
「……分かった。選択肢が一つしかない以上、私はイノリアの案を支持する。任せたぞ、イノリア。……エイミ、私を連れて行ってくれ。奴を海へ戻す」
風の分解体のままのエイミがイザウを抱え上げる。
イザウはその肩に座り、二本の斧を抜いた。
青き炎が刃を包み込む。
「始めよう、エイミ」
エイミは夜空へ飛翔した。
闇の中へ身を潜め続けるキルスへ向かって。
イザウは青炎を纏った双斧を高速で回転させ、その軌道を利用してキルスをバリアの境界へと追い込んでいく。
時折、斧をその巨体へ叩きつける。
だが攻撃は表皮を浅く削る程度。
連続攻撃ですら肉まで届かない。
「……やはり硬いな。こんな相手を、イノリアはどう倒すつもりなんだ……?」
「信じましょう。イノリアを」
やがてキルスは境界線を越え、再び海へと追い戻された。
イノリアもまたバリアを抜け、そのまま海中へ飛び込む。
海の中は深い闇に包まれていた。
しかし水の女神ヴァルクを纏う彼女には、その暗黒すら障害にならない。
光など一切ない深海でさえ、全てが鮮明に見えていた。
女神形態となった彼女の身体は水に触れている感覚すらなく、自由自在に海中を駆ける。
まるで空を翔ける鳥のように。
イノリアは無数の鋭い氷槍を創り出し、キルスを包囲した。
そして全てを一斉に放つ。
――しかし。
氷はキルスの身体に触れた瞬間、ことごとく砕け散った。
イノリアはなおもキルスへ攻撃を浴びせ続けた。
前後左右――あらゆる方向から氷と水による攻撃を叩き込む。
だが、キルスの皮膚は常軌を逸するほど硬かった。
通常の攻撃ではまるで通用しない。
イノリアは発想を変えた。
キルスが空を泳ぐために利用している水流――その水圧そのものを極限まで高め、一気に巨体ごと圧壊させようとしたのだ。
しかし――。
その力は、まだ足りない。
あまりにも巨大で、あまりにも強固。
キルスほどの存在を破壊するには、彼女の能力は未完成だった。
やがてイノリアの身体に異変が現れ始める。
水の女神ヴァルクの姿が徐々に淡くなり、光が弱まっていく。
今にも元の姿へ戻ってしまいそうだった。
それも当然だった。
イノリアが水の女神ヴァルクを意図的に発動できるようになったのは、ダルスとの戦いの時が初めてだったのだ。
まだ一度も、まともに鍛錬すらしていない。
「まずい……もう、この姿を維持できない……」
完全には回復していない身体もまた、巨大なヴァルクを制御できる時間を大きく削っていた。
その隙を見逃すほど、キルスは甘くない。
キルスが動いた。
口先の角を前方へ突き出し、海中を裂くような凄まじい速度で突進する。
巨大な質量。
高速遊泳。
その二つが合わさった一撃は災害そのものだった。
「っ――!!」
角はイノリアの腹部へ直撃した。
瞬間――水の女神の姿が砕け散る。
彼女はもう、その形態を維持できなかった。
鼻と口から血が溢れ出し、イノリアの身体はゆっくりと深海へ沈み始める。
だが、キルスの攻撃は終わらない。
巨体を大きくしならせた次の瞬間。
硬質な背中の隙間から、どろりとした液体が噴き出した。
それは酸だった。
海中で瞬く間に拡散し、獲物を溶かし尽くそうと迫る。
しかし――。
その酸がイノリアへ届く寸前。
街の兵士たちが間一髪で飛び込んできた。
彼らはイノリアを抱え上げ、バリア内部へと撤退する。
数名の兵士は海中に残り、キルスの追撃を食い止めようと立ちはだかった。
イノリアは無事バリア内へ運び込まれた。
それを見たイザウは、すぐに駆け寄る。
だが――。
イノリアは呼吸をしていなかった。
「……っ!」
イザウの顔色が変わる。
彼は慌てて胸部を圧迫し、心臓を動かそうとする。
さらに腹部を押し、水を吐き出させようとした。
「どうすれば……! まだ意識が戻らない……!」
イザウは明らかに取り乱していた。
そして決意したように顔を近づける。
人工呼吸。
唇が触れる直前――。
イノリアが激しく咳き込み、大量の水を吐き出した。
「……っ、ごほっ!!」
「呼吸が戻った……! だが、目が開かない……!」
イザウは再び人工呼吸をしようと顔を近づける。
だがその時。
イノリアの手がぴたりと彼の額を押し止めた。
「……もう私にキスするな、このバカ」
「イ、イノリア!? 目が覚めてたのか! よかった……本当に心配したんだ……!」
「……私は平気よ」
頬を赤く染めながらそう言うと、イノリアはゆっくり立ち上がった。
「ごめんイノリア……私たちのヴァルクじゃ、水中戦では役に立たない……」
ソラが悔しそうに呟く。
「……あいつ、背中から酸を出すわ。それに身体も異常に硬い……一度も貫けなかった」
一方――。
海中でキルスを足止めしていた街の兵士たちは苦戦を強いられていた。
彼らが頼れる視界は、真珠石の淡い光のみ。
暗い海中ではキルスの動きを完全に捉えられない。
そして――。
酸が放たれた。
兵士たちの身体は触れた瞬間に崩壊し、無惨に砕け散る。
やがてキルスは再びバリア内部へ侵入した。
巨大な影がイザウたちの真上に現れる。
そしてその後ろには――。
兵士たちの亡骸までもが運び込まれていた。
その身体は、まるで溶かされた蝋のように崩れている。
「……戻ってきた!」
「街の兵士たちが……!」
「身体が溶けてる……酸だ……! 水中で戦うのは危険すぎる!」
キルスが空から鋭い咆哮を放つ。
直後――。
空から緑色の液体が降り始めた。
「……何だ? 雨……?」
だが、それは雨ではなかった。
近くにいた人間の肌へ液体が触れた瞬間。
悲鳴が上がる。
身体が、溶けた。
人だけではない。
瓦礫も、崩れた建物も、液体に触れた瞬間に融解していく。
「酸だ!! 逃げろ!!」
「まだ立ってる建物の下へ!」
人々は必死に走った。
降り注ぐ酸の雨は豪雨のように激しく、触れるもの全てを溶かしていく。
建物の下へ避難しても安心できない。
酸に触れた建物は数秒も持たず、まるで胃液で消化される食べ物のように崩壊していった。
「このままじゃ街が壊滅する……ここにいる全員が死ぬぞ。――戦おう」
イザウが言った。
「……で、作戦は?」
「ない」
その答えに皆が目を見開く。
「だが、十分な火力を持つ者だけ俺について来い。安全なんて考えてる余裕はない……命を賭けるぞ」
イザウはエイミを見る。
「エイミ。俺と、戦う者たちを上へ運んでくれ」
「待ってください、イザウ!」
アマリスが慌てて声を上げた。
「無計画に突っ込んで命を賭けるなんて危険すぎます!」
「だが、待って逃げ回るだけなら……俺たちの結末はもう決まっている」
「せめて火で追い払うだけでも十分です! それだけでも私たちは助かります!」
カルスが言う。
「追い払うだけじゃ解決にならない。それは問題を先送りにしてるだけだ」
イザウは白炎のヴァルクを発動した。
双斧の鎖が長く伸び、白い炎が揺らめく。
カイイヤ、ソラ、リカもイザウの隣へ並び、戦闘態勢に入った。
エイミも再び風の分解体へ姿を変える。
「待って」
その時、ヴィオレンが口を開いた。
「最初に行くのは私たち二人よ」
「君たち……?」
「私たち、医療だけが専門じゃないの」
ペミが腰の鞄を軽く叩く。
「毒の扱いも得意なのよ。まだ少し残ってる……もしかしたら、あいつを麻痺させられるかもしれない」
二人は背中に背負っていた、包帯で巻かれた箱を解いた。
誰もが医療器具だと思っていたその箱。
だが中身は違った。
武器だった。
ヴィオレンが取り出したのは、自身の半身ほどもある巨大な鋏。
ペミが構えたのは、細身の刃を持つ長い武器だった。
「……医療道具だと思ってた。まさか武器だったとは」
「イザウ、私の船のクルーを甘く見ないで」
ヴィオレンが不敵に笑う。
「みんな戦えるわ」
「巨大な鋏と……剣か」
「剣じゃない」
ペミは即座に訂正した。
「これは医療用ナイフよ」
二人はエイミへ向き直る。
「私たちをキルスの口元まで運んで。中へ入り込む」
「待て――」
その時、一つの声が響いた。
「俺も連れて行け」
カールだった。
カールは巨大な狼へと姿を変えた。
その圧倒的な体躯は、まるで月夜に現れた魔獣そのものだった。
ヴィオレンとペミは素早くその背へ飛び乗る。
次の瞬間、エイミが彼らを抱えるようにして飛翔し、キルスの正面へと接近――。
そして勢いのまま、三人を放り投げた。
「水斬りッ!!」
「炎斬ッ!!」
さらにカールが巨大な爪を振るう。
「三日月爪撃!!」
三人の攻撃は一斉にキルスの口元へ集中した。
それに反応し、キルスが大きく口を開く。
「耳を塞げ――!!」
キルスの咆哮はあまりにも鋭く、聞けば鼓膜を破壊されかねない。
三人は即座に耳を塞ぎながら飛び込んだ。
そのまま――キルスの口内へ着地する。
ヴィオレンとペミはカールの背から降りると、腰袋に残していた毒薬を全て砕いて撒き散らした。
それは医療用の毒。
毒生物から抽出した成分を加工したもので、普段は鎮痛や麻酔として手術に用いているものだった。
するとキルスが激しく暴れ始める。
空中で狂ったように旋回し、その巨体を振り回した。
ヴィオレンとペミは牙へ必死にしがみつき、カールは舌を深く爪で掴んで落下を防ぐ。
やがてキルスは徐々に高度を下げ始めた。
低空飛行となり、水面近くまで降りてくる。
「今よ!」
ヴィオレンとペミは再びカールの背へ飛び乗り、そのまま口内から外へ跳躍した。
三人は無事に離脱する。
「効いたみたい……意識が鈍ってるわ」
「でも、あの量じゃ足りないわね。あの巨体を完全に眠らせるには少なすぎる」
「効果も長くは続かないと思う」
「それで十分だ」
イザウが白炎を揺らしながら言う。
「回復する前に倒せばいい」
イザウは白炎のヴァルクを纏った。
カイイヤは黒雷。
ソラは紅き電撃。
リカは全身をヴォイドのオーラで覆う。
カイイヤ、ソラ、リカは低空を飛ぶキルスの背へ跳躍した。
イザウはエイミに運ばれながら空へ向かう。
「ここで降ろせ、エイミ!」
キルスの背へ降り立った四人は、一斉に猛攻を開始した。
カイイヤ、ソラ、リカは絶え間なく攻撃を叩き込む。
エイミは前方へ回り込み、鋭利な風の遠距離攻撃で眼を狙った。
視界を奪い、動きを乱すためだ。
そしてイザウは――。
双斧を振り回し、獣のように暴れた。
他の攻撃では傷一つつかなかった硬質な皮膚も、イザウの白炎を纏った斧だけは削り取れる。
「……まだ浅い! 傷が足りない!」
キルスは苦しげに咆哮しながら飛行方向を変えた。
向かう先は――バリア。
再び海へ逃げ込むつもりだ。
「逃がさない!」
ソラとカイイヤが背中から頭部へ駆け上がる。
二人は同時に力を解放した。
赤い電撃と黒雷が混ざり合い、巨大な球状エネルギーとなって膨れ上がる。
「海には戻さない――!!」
轟音。
合体攻撃が炸裂し、キルスの巨体は衝撃で空中の軌道を失う。
そのまま地表へ叩きつけられかけたが、再びゆっくりと浮上した。
だが、もうバリアへ向かう様子はない。
代わりに――。
背を大きく反らせる。
その動きを見た瞬間、イザウは叫んだ。
「全員離れろ!! また酸だ!!」
エイミはリカを抱え、一気に離脱。
ソラとカイイヤも高速移動で背中を駆け抜け、飛び降りて地上へ逃れる。
しかし――。
イザウだけは間に合わなかった。
片脚しか使えない彼には、逃げる速度が足りない。
次の瞬間。
大量の酸が、真正面から彼へ降り注いだ。
「――ッ!!」
白煙。
イザウはそのまま倒れ、凹凸の激しい背中を転がっていく。
やがて足場を失い――空中へ投げ出された。
白炎のヴァルクが解除される。
彼の身体は無防備なまま落下した。
それを見たイノリアは――動けなかった。
直接酸を浴びた。
さらに高所から落下した。
頭の中に最悪の想像が広がる。
そして次の瞬間。
彼女の胸を埋め尽くしたのは――怒りだった。
水の女神ヴァルクが再び発動する。
青い光が瞳から迸り、バリアに遮られていた大量の水が彼女の周囲へ集まった。
まるで巨大な蛇が身体へ巻き付くように。
その異変に真っ先に気付いたのはソラだった。
「……イノリア!?」
背筋が凍る。
この圧力――。
以前の女神ヴァルクとは違う。
ダルスと戦った時と同じだ。
「イノリア、怒りを抑えて!」
「どうしたの、ソラ!?」
アマリスが戸惑う。
「……工場で悪魔と戦った時みたい。怒りに呑まれてる……!」
イノリアは蛇のようにうねる巨大な水流の中にいた。
そのまま低空飛行するキルスへ接近する。
キルスもまた、その姿を脅威と判断した。
即座に突進。
口先の角でイノリアを貫こうとする。
だが――。
膨大な水に包まれた女神形態の前では、その一撃は意味を成さなかった。
キルスは再び背を反らせる。
酸の雨を浴びせるつもりだ。
水中にいる相手であろうと、酸なら容易に混ざり込み肉体を侵す。
しかし。
キルスが攻撃を放つより早く――。
イノリアが先に動いた。
轟ッ!!
超巨大な水流が放たれる。
それはキルスの半身にも匹敵する規模だった。
絶え間なく噴き出す激流に押され、キルスは制御を失う。
低空飛行だったため、高い建物へ激突し――そのまま地面へ叩き落とされた。
それでもキルスは立て直す。
再び飛翔し、今度は遠距離から速度を乗せて突進してきた。
先ほど以上の威力。
確実に叩き潰すための突撃。
だが――。
イノリアの前で、その巨体は止まった。
水が捕らえたのだ。
長く伸びた水流の先端が変形し――。
龍の頭となる。
巨大な水龍がキルスへ喰らいついた。
「な……何だあれ……!?」
「水の怪物……イノリアが作ったのか!?」
誰もが呆然と見上げる。
理解を超えた力だった。
水龍はキルスを咥えたまま空高く昇る。
そのままバリアを突き抜け、海面まで一気に浮上した。
龍の顎がさらに強く閉じる。
ギチ……ギチギチッ――。
そして。
キルスの巨体は、ついに耐えきれず――。
真っ二つに裂けた。
切断された身体は再び海へ沈み、落下しながらバリアを貫通していく。
それはまるで、空から墜ちる巨大な死骸だった。
続いて上空から血が滴り始める。
やがてそれは――血の雨となる。
そして。
イノリアもまた、水龍と共にバリアを越えて戻ってきた。
彼女は龍の頭上に立っている。
瞳はいまだ青く輝いていた。
だが。
光がゆっくりと消えた瞬間――。
水龍は一瞬で崩壊した。
ただの水へ戻る。
「イノリア!!」
高空から落下する彼女。
その下から、一つの影が跳んだ。
片脚だけで。
それでも迷わず。
イザウだった。
彼は空中でイノリアを抱き留める。
腕の中で、イノリアはゆっくり目を開けた。
「……イザウ……無事なの……?」
二人はそのまま地上へ着地する。
周囲の皆も急いで駆け寄ってきた。
「俺は平気だ、イノリア」
その言葉に、彼女は目を見開く。
「でも……どうして……? さっき酸をまともに浴びたじゃない……! キルスの上から落ちたのも見たわ……?」
「攻撃を受けた時、まだ白炎のヴァルク状態だったんだ。酸の一部は皮膚に届く前に膨張して威力が弱まった。もちろん酸は浴びたけど……致命傷になるほどじゃなかった」
その説明を聞いた瞬間、イノリアは安堵したように息を漏らした。
「……よかった……本当に……」
彼女の目から涙が零れ落ちる。
「すごく心配したの……あなたを失うかと思った……」
そう言いながら、イノリアはイザウを強く抱き締めた。
だが――。
「お、おいイノリア……あまり動くな……片脚じゃバランスが……」
「あっ――」
二人はそのまま体勢を崩し、地面へ倒れ込んだ。
イザウは片脚だけでは上手く支えられなかったのだ。
そこへソラたちが駆け寄ってくる。
「大丈夫!?」
皆はイザウを支えながら歩かせ、疲労で歩けなくなっていたイノリアはカイイヤが背負った。
そのまま彼らは宿へ戻り、負傷者たちの治療が始まった。
翌日――。
「また治療してくれてありがとう、アマリス」
ベッドに座るイノリアが礼を言う。
アマリスは小さく首を振った。
「いいえ、お礼を言うのは私たちの方です。皆さんは私たちだけじゃなく、街の人々まで救ってくれました」
彼女は窓の外を見つめる。
「被害も犠牲も出ました……でも、もし皆さんがキルスを倒してくれなければ……私たちはずっと、あの怪物の恐怖の下で生き続けることになっていたと思います」
「……イザウの様子は?」
イノリアが不安そうに尋ねる。
「安心してください。隣の部屋で休んでいます。酸による傷も深くありません。表面の皮膚が少し焼けた程度です」
その言葉に、イノリアは胸を撫で下ろした。
「……よかった。昨日までは同じ部屋で、まだ私が色々手伝ってあげなきゃいけなかったのに……今度は私が怪我をして、何もできなくなっちゃった」
「早く治してくださいね、イノリア」
アマリスは微笑んだ。
「皆さんが回復したら、その時にエヴァお婆さんへ会いに行ってください。私も先ほど顔を出しましたが……皆さんへ感謝していました。早く元気になるよう祈っているそうです」
ソラ、リカ、エイミにも傷はあった。
だが幸い軽傷で、自由に動くことはできた。
彼女たちは毎日のようにイザウとイノリアの見舞いへ訪れ、食事を運んできてくれた。
時にはエイミがイザウの部屋で眠り、退屈しないよう傍にいた。
ソラやカイイヤもまた、時折イノリアの部屋で夜を過ごした。
そうして――。
一週間以上が過ぎた。
傷はまだ完全には癒えていない。
それでも皆、日常的に動けるまでには回復していた。
その日、シリオスがイザウの部屋を訪れ、一つの木製杖を差し出した。
「これを使ってください。少しは歩きやすくなるはずです」
イザウは礼を言い、それを受け取った。
やがて全員が集まり、エヴァ婆さんへ別れの挨拶をすることになった。
彼らは地上へ戻るつもりだった。
カイイヤの部下たちが船で捜索している可能性があるためだ。
皆は丘の上にある建物――エヴァ婆さんの住む場所へ向かう。
リオンの体調もかなり回復していた。
すでに普通に歩けるようになり、本人も「もう戦える」と豪語している。
それも全て、ヴィオレンとペミが献身的に看病してくれたおかげだった。
シリオスとカルスに案内されながら街を歩く途中、彼らは異変に気付く。
バリアの端々が波打つように歪み、柔らかく揺れていた。
さらに上部にはいくつか亀裂があり、そこから水が漏れて街へ細かな雨を降らせている。
「……バリアに何が起きてるんだ?」
イザウが眉を寄せる。
カルスが重い表情で答えた。
「以前にも何度かありました。エヴァ婆さんの体調が悪化すると、結界維持への集中が乱れるんです」
「……最近、具合が悪いのか?」
「ええ。ここ数日、ずっと悪化しています。私たちも追加のヴァルクを供給して、少しでも負担を軽くしようとしているんですが……結界は安定しません」
シリオスも続ける。
「街の人たちは皆、不安なんです。命そのものがこの結界に懸かっていますから」
彼は空を見上げた。
「もしバリアが崩壊すれば……水のヴァルクを持つ者なら地上へ逃げられるかもしれません。でも、それ以外は……」
言葉が途切れる。
「水以外のヴァルクしか持たない者や、ヴァルクを使えない人々には――終わりです」
イザウたちは静かに空を見つめた。
「……エヴァ婆さんが回復するといいな」
やがて丘の上の建物へ到着する。
そこには街の代表として訪れた住民たちの姿があった。
見舞いだけではない。
少しでもバリアを支えるため、自分たちのヴァルクを分け与えに来ていたのだ。
「皆さん、来てくれたんですね」
入口でアマリスが迎える。
「こちらへ。エヴァ婆さんがお話したいそうです」
彼らは部屋へ入り、ベッドに横たわるエヴァ婆さんのもとへ近づいた。
彼女は寝台に伏せている。
だが、その瞳は今もなお輝いていた。
それはつまり――。
数十年もの間、一度も本当の意味で眠っていない証だった。
「……皆、来てくれたかい。身体の具合はどうだい?」
「俺たちは大丈夫だよ、婆ちゃん。それより……婆ちゃんの方こそ」
イザウが尋ねる。
エヴァ婆さんは力なく微笑んだ。
「見ての通りさ……もう長くはなさそうだよ」
その場の空気が重く沈む。
「でもねぇ……街の皆には、私は元気だと言い続けなきゃならない。私が死ねば……この街には終わりが来るからねぇ」
皆は改めて理解する。
なぜ彼女がここまで衰弱しているのか。
数十年間。
彼女は一人で街を守り続けていた。
眠れば水の女神ヴァルクが解除され、結界は崩壊する。
だから休む時も、ただ横になって目を閉じるだけ。
決して眠れなかったのだ。
「俺たちには大量のヴァルクがある」
イザウが前へ出る。
「それでも、婆ちゃんを元気にできないのか?」
エヴァ婆さんは静かに首を振った。
「……優しい子たちだねぇ。でも、私のヴァルクは十分足りているんだよ」
彼女はゆっくり息を吐く。
「ヴァルクと健康は別の話さ……これはただ、老いだよ」
部屋が静まり返る。
「……辛いことを言うようだけどねぇ」
エヴァ婆さんの声は震えていた。
「街の皆は……地上へ避難しなきゃならない。もう私は……限界なんだよ。時間が残されていない」
その言葉を聞きながら、イノリアは俯いていた。
以前――エヴァ婆さんは彼女へ提案した。
自分の後を継がないか、と。
だが。
その意味を、彼女は理解している。
受け入れれば、この街で生涯を終えることになる。
故郷へ帰れない。
旅も終わる。
そして――。
イザウとも、共に生きられなくなる。
俯き、苦しそうに揺れるイノリアの表情を見て、エヴァ婆さんが優しく声を掛けた。
「……イノリア。自分を責めちゃいけないよ」
イノリアが顔を上げる。
「君はまだ若い。未来だって、これからだ」
エヴァ婆さんは穏やかに微笑んだ。
「無理をしなくていいんだよ」
イノリアの瞳に涙が溜まる。
「……本当に、ごめんなさい……」
彼女は震える声で言った。
「私なら……できるかもしれません……でも……」
涙が頬を伝う。
「……私は帰りたいんです……大切な人と、一緒に生きたい……」
エヴァ婆さんはゆっくりと手を伸ばし、イノリアの頬へ触れた。
その皺だらけの手が、流れる涙を優しく拭う。
「だから言っただろう……自分の選択を責めちゃいけないよ」
穏やかな声だった。
「難しい選択へ巻き込んでしまって、本当にすまなかったねぇ。本来なら、あんたたちはこの街とは何の関係もなかったんだ……」
エヴァ婆さんは申し訳なさそうに目を伏せる。
「客人に酷いことをしちまった……助けてもらった上に、ずいぶん迷惑までかけたねぇ……もう一度、謝らせておくれ」
「もう十分だよ、エヴァ婆さん」
イザウが静かに言った。
「謝る必要なんてない。俺たちは、ここでたくさん助けてもらったんだ。命を救われて、治療までしてもらった」
その言葉に、エヴァ婆さんは小さく微笑んだ。
「……エヴァ婆さん」
ソラが一歩前へ出る。
「この街を救う方法、本当に他にはないんですか?」
部屋の空気が静まった。
エヴァ婆さんはゆっくり首を振る。
「……もう、後継者を見つける以外にはないよ。……ただ、一つだけ可能性がある」
「可能性?」
「でもねぇ……それは現実的じゃない。ほとんど不可能さ」
「どんな方法なの!?」
エイミが身を乗り出した。
エヴァ婆さんは少し考えるように目を閉じた。
「私のヴァルクを……ヴァルク石へ移すことさ」
皆が息を呑む。
「ヴァルク石は力を蓄え、媒介にもなる。もし十分な力を保存できれば、水の女神ヴァルクへ到達した者なら……未熟でもこの結界を維持できる可能性がある」
しかし彼女はすぐに苦笑した。
「……けれど、その石が問題なんだよ。昔、ミランダにあったヴァルク石は悪魔の支配領域へ落ちた。今も残っているかどうかすら分からない」
「……どれくらい大きな石が必要なんですか?」
エイミが期待を滲ませて尋ねる。
「私にも分からないよ。そもそもヴァルク石なんて、そう簡単に手に入るものじゃ――」
その時だった。
エイミがポケットへ手を入れる。
「……これじゃ駄目ですか?」
彼女の掌にあった小さな石を見た瞬間、エヴァ婆さんは目を見開いた。
「……それは……ヴァルク石!? どうしてあんたが……!?」
「私は第四次元の出身なんです」
エイミは石を見つめながら言った。
「私たちの世界から流れ着いた人間は、誰もヴァルクを持っていません。でも……たぶん、この石を見つけたのは私だけでした」
彼女は静かに続ける。
「偶然見つけた、小さな石です。……私の力は、この石から始まりました」
エヴァ婆さんは驚きながらも、やがて頷いた。
「……なら、試してみようか」
彼女はエイミから石を受け取る。
そして視線をイノリアへ向けた。
「イノリア」
「……はい」
「少しの間だけ、結界を代わりに支えられるかい? その間に私は全てのヴァルクを石へ移す」
部屋が張り詰める。
「もし失敗したら……その時はすぐに住民を地上へ避難させるんだ。街が空になったら……見捨ててお行き」
エヴァ婆さんの目は真剣だった。
「……できるかい?」
イノリアは息を飲み、そして頷く。
「……やってみます」
イノリアは結界維持を試みた。
だがエヴァ婆さんはすぐには力を手放さない。
もし急に解除して、イノリアが耐えられなければ危険だからだ。
少しずつ。
慎重に。
二人で支えながら結界を移行していく。
そして――。
イノリアだけで維持できると確認した瞬間。
エヴァ婆さんは、水の女神ヴァルクを完全に解除した。
それは数十年ぶりのことだった。
何十年もの間、彼女は一度たりとも完全に力を解いたことがなかったのだ。
エヴァ婆さんはヴァルクを小さな石へ流し始める。
掌ほどしかないその石へ。
静かに、だが膨大な力が注ぎ込まれていった。
やがて転送は終わる。
その瞬間――。
エヴァ婆さんからヴァルクは完全に消えた。
もう彼女は、ただの一人の老人だった。
エヴァ婆さんには二人の弟子がいた。
そのうちの一人だけが、水の女神ヴァルクへ到達できる存在だった。
彼女はヴァルク石を媒介にし、イノリアと交代で結界維持へ挑む。
イノリアが徐々に負担を渡し――。
数分後。
ついに交代は成功した。
「……できる……!」
弟子は驚きながら声を上げる。
「普段の私じゃ、こんな広範囲は無理なのに……この石があるから……結界を支えられる!」
歓声が上がった。
皆の顔に安堵が広がる。
これでエヴァ婆さんは結界を支え続ける必要がない。
街の避難も不要になる。
そして二人の弟子が交代制で結界を維持すれば、自分たちの人生も生きられる。
長く続いた絶望は――ようやく終わったのだ。
その後、エヴァ婆さんは治療を受けた。
結界から解放されても、長年の負担で身体は弱りきっていた。
数日後――。
彼女はついに目を覚ました。
最初に映ったのは、ベッドの傍に立つイザウたちだった。
「……あんたたち……」
イザウが笑う。
「何十年ぶりの睡眠はどうだった、婆ちゃん?」
エヴァ婆さんはゆっくり目を閉じる。
「……最高だったよ」
その声はどこか柔らかかった。
「身体も……少し楽になった気がするねぇ」
「このまま元気になってくれたらいいな」
「……ところで」
エヴァ婆さんが不思議そうに首を傾げる。
「まだここにいたのかい? 回復したら地上へ戻る予定だったんだろう?」
「ちゃんと挨拶してなかったからさ」
イザウは笑った。
「婆ちゃんが起きるまで待ってたんだ」
エヴァ婆さんの目が優しく細められる。
「……あんたたちって子は……」
皆は一斉に立ち上がった。
そして深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
街の人々へ。
エヴァ婆さんへ。
自分たちを助け、支えてくれた全てへ感謝を込めて。
「俺たちは旅を続けます」
イザウが顔を上げる。
「残る伝説の武器を探し、悪魔たちを倒すために」
その時、エヴァ婆さんが「ああ」と何か思い出したように声を漏らした。
「そういえば……」
彼女はイザウの斧と拳甲を見つめる。
「その斧と拳甲……どこかで見たと思ってたんだよ」
「え?」
「伝説の武器だったんだねぇ。私が若い頃、まだ現役で使われていた時代に……戦場で何度か見たことがある」
イザウたちの目が輝く。
「婆ちゃん、他の伝説武器の場所を知ってるのか!? 少しでも手掛かりがあれば――!」
だがエヴァ婆さんは首を横に振った。
「正確な場所は知らないよ……あの出来事以来、私はずっと海底へ隠れていたからねぇ。悪いけど、場所は分からない」
皆の肩が落ちかけた時――。
「……でも、一人だけ思い当たる人物がいる」
「誰!?」
「私も会ったことはない。姿を見たこともないさ」
エヴァ婆さんの声がどこか神秘的になる。
「だけど……私が子供だった頃から、すでに伝説だった」
皆が息を呑む。
「伝説武器を造った人物さ」
部屋が静まり返る。
「……まだ生きている可能性が高い。私が幼かった頃ですら、何千年も生きていたと言われていたからねぇ」
「……今どこに!?」
「伝承では――」
エヴァ婆さんは遠くを見るように語った。
「空飛ぶ島にいる」
「空飛ぶ島……?」
「そう。空の上を漂い続ける島だよ」
「場所は分かるのか!?」
「……誰にも分からない」
エヴァ婆さんは苦笑した。
「空にあって、絶えず移動しているからねぇ」
「……俺も聞いたことがある」
シリオスが頷く。
「父が寝物語で話してくれた伝説です。でも確かに……場所を知る者はいません」
しばし沈黙が流れる。
そして――。
イザウが迷いなく言った。
「なら、探そう」
皆が彼を見る。
「その空飛ぶ島を」
ソラが苦笑した。
「……イザウ、やっといつものイザウに戻ったね」
「俺の“いつも”って何だよ?」
「自分勝手に決めて、周りを振り回すところ」
一瞬の静寂。
そして――皆が笑った。
別れの場だというのに、そこに悲しみはなかった。
旅立ちの時間だった。
彼らは街の兵士たちに案内され、巨大な魚へ乗り込む。
馬ほどの大きさを持つその魚は、兵士たちが狩りや巡回で使う海中の乗騎だった。
彼らは海を進む。
地上へ辿り着くまで、しばらく息を止めなければならない。
やがて海面へ到達すると、カイイヤがヴァカン族特有の信号弾を放った。
しばらくすると――。
北の空から別の信号が返ってくる。
どうやら彼女の部下たちは、本当に周辺海域で捜索を続けていたらしい。
彼らはヴァカン族の船が到着するまで待った。
その間――。
街の兵士たちへ感謝を伝え、見送りに来てくれたアマリス、シリオス、カルスとも別れを告げる。
「ポコポン……会いたかったよぉ」
声が響く。
互いに手を振り合う。
「気をつけて行くんだよ――!!」
「みんな……元気で――!!」
海風の中、別れの声がいつまでも響いていた。




