第21章 深海の奥底で
イザウはゆっくりと意識を取り戻した。目を開けた瞬間、彼は反射的に周囲を見回す。
すぐ隣には、仲間たちが彼と並ぶように横たわっていた。全員、まだ息をしている。
その光景に、イザウは胸を撫で下ろした。
正直、全員死んだと思っていたのだ。
だが同時に、彼はまだ信じられずにいた。こんな奇跡が本当に起こるものなのかと。
イザウは身体を起こし、自分たちがいる場所を見渡した。
そこは、まるで王宮の大広間のような壮麗な空間だった。
「……ここは、一体どこなんだ?」
その時、大きな扉から三人の人物が入ってくる。
「目が覚めたみたいだね?」
「俺たちはどこにいる?」
「落ち着いて。私たちは怪しい者じゃない。君たちをここへ運んだのは私たちなんだ。君たちは海流に呑まれていたから、救助したんだよ」
イザウと彼らの会話をきっかけに、仲間たちも次々と目を覚まし始めた。
最後の船に乗っていた者たちは、全員無事だった。
ソラ、リカ、エイミ、カル、カイイヤ、リオン、ビエル、イノリア。
そしてカイイヤの船員であり、看護役を務める二人――ヴィオレン(Violen)とペミ(Pemi)も。
イノリアは、イザウの左脚が失われていることに気づくや否や、顔色を変えた。
「イザウ……! その足、どうしたの!? 大丈夫なの!?」
涙を浮かべながら駆け寄る。
「俺は大丈夫だよ、イノリア。泣くな。そんなことより、自分の身体を心配しろ。お前だって傷だらけじゃないか」
イザウは落ち着いた声で答えた。
その後、イザウは自分たちがここへ来るまでの経緯を簡単に説明し、三人も自己紹介をする。
彼らはシリオス(Sirios)、カルス(Karus)、そしてアマリス(Amaris)。
二人の男と一人の女だった。
その中で、アマリスがより詳しく事情を語り始める。
「信じてもらえないかもしれないけど……今、あなたたちは海底都市にいるの」
「海の……底だって? どういうことだ?」
「混乱するのも当然よ。だから順番に説明するわ、ちゃんと聞いてね」
アマリスは静かに話し始めた。
「この街の名前はオケアニス(Okeanis)。もともとは他の都市と同じように地上に存在していた街だったの」
「でも、かつてヴァルヘア騎士と悪魔たちが戦った際、凄まじい力同士の衝突によって数え切れないほどの大災害が起きた。自然は激しく破壊され、海水はいくつもの大地を呑み込んだ……その一つが、この街だったのよ」
皆が息を呑む。
「だけど私たちは生き残れた。この街には、非常に優れたヴァルク使いがいたから」
「その人の名は、エヴァ(Eva)おばあさん。彼女は水の女神のヴァルクを操り、途方もない量の水を支配できるの。彼女が街を守り、大災害から救い、都市が完全に沈むのを防いだのよ」
彼らは部屋を出た。
そして巨大な扉が開かれた瞬間――
全員が言葉を失った。
「……っ!」
そこに広がっていたのは、街の全景だった。
「俺たち……水の中にいる……?」
「海の深さの中だ……」
「まるで巨大な水槽の中みたい……!」
「すごい……!」
誰もが目を見張った。
都市全体は透明な障壁に包まれており、その外側には深海の世界が広がっている。
魚の群れが静かに泳ぎ、青く揺らめく水の光が街を幻想的に照らしていた。
ミランダ出身であるソラでさえ、海底に都市が存在するなど知らなかった。
「このバリアは、エヴァおばあさんが維持してるんだよね? ってことは……彼女はまだ生きているのか?」
「ええ。エヴァおばあさんは何十年も生き続け、ずっと自分のヴァルクでこのバリアを支えているわ」
「……すごすぎる。どうして疲れないんだ? ヴァルクの力だって尽きるはずだろ?」
アマリスは肩をすくめた。
「その理由は私たちにも分からないわ。あとで直接聞いてみたら?」
「彼女はこの近くにいるんだな。なら会いに行こう」
「もちろん。その道中で、あなたたちがここへ来た経緯も続きを話すわ」
アマリスは歩きながら語り続ける。
「ある日、エヴァおばあさんがとてつもなく大きなヴァルクの気配を感じ取ったの。彼女はすぐに分かったわ。それは水の女神のヴァルク――つまり、自分が使っているものと同じ力だって」
「だから私たち三人に、その力の源を探すよう命じたの」
「私たちも遠くから微かに感じていたの。とても強力な水のヴァルク使いがいるって」
「そしてその気配を追って進んでいた時……とてつもなく強い海流に遭遇した」
「私たちは近くに見つけた洞窟へ避難したの。流れが収まるまで待つつもりだった。でも、その時――探していたヴァルクの反応がどんどん近づいてきたのよ」
アマリスは振り返り、彼らを見た。
「周囲を探していると……あなたたちを見つけた」
「水の泡に包まれた状態でね」
「でも、その泡は術者が維持できなくなって壊れてしまった」
「だから私たちは急いであなたたちを助け出し……そして、このオケアニスへ連れて来たのよ」
「本当に助かりました。もし皆さんがいなかったら……俺たちはきっと海の底で終わっていたでしょう」
「魚たちの餌になっていたかもね」
「こうして生きていること自体、奇跡をもらったようなものです。本当に感謝しています」
イザウは深く頭を下げた。
そして彼は、あの巨大な海流の正体について説明する。
それが第四次元から来た地球人たちによって造られた兵器によるものだということ。
そして――
彼らが悪魔たちと手を組んでいることを。
続いてイノリアが、これまでの戦いの経緯を語った。
追い詰められた状況。
水の女神の力を偶然覚醒させたこと。
そして最後には、敵を倒すため核爆発を利用するという危険な作戦に賭けたことまで。
三人は黙って話を聞いていた。
やがてアマリスが、感心したように息を漏らす。
「……あなたたち、本当に壮絶な戦いをくぐり抜けてきたのね。勝てたなんて何よりだわ。みんなすごい」
するとシリオスが一歩前に出た。
「かなり重傷に見える仲間もいるけど……治療なら手伝おうか?」
「大丈夫だ、まだ歩ける」
そう答えたのはリオンだった。
イノリアとイザウは、それぞれヴィオレンとペミに支えられながら歩いていた。
特にイザウは左脚を失っているため、歩行はかなり困難だった。
それでも彼は歯を食いしばり、一歩ずつ前へ進む。
「もうすぐ着くわ」
アマリスがそう言った。
彼らは幾つもの階段を上っていく。
そして辿り着いたのは、オケアニスの最も高い場所に建つ建物だった。
外観はかなり大きい。
だが中へ入ると、そこには驚くほど広い一つの空間しか存在しなかった。
「ずいぶん大きな建物なのに……部屋は一つだけか」
カルが周囲を見渡す。
「まるで大広間みたいだな」
部屋の最奥には、一台の寝台が置かれていた。
その周囲は薄いカーテンで囲まれている。
皆が近づくと、カルスが静かにカーテンを開いた。
その中には――
ひとりの老女が横たわっていた。
年老いた身体。
細く衰えた腕。
目は閉じられている。
「……眠っているのか?」
ソラが小声で呟く。
「目を閉じてる……」
カルスは静かに声をかけた。
「エヴァおばあさん、お客様をお連れしました」
ゆっくりと――
老女は瞼を開く。
その瞬間。
彼女の瞳から、青い光が淡く溢れた。
「……っ」
ソラが目を見開く。
「イノリアがあの時力を使った時と同じだ……目が光ってる」
イノリアも驚いた表情を見せる。
「私の目も、あの時こんな風だったの……? 全然気づかなかった……」
エヴァはゆっくりと指を伸ばし、イノリアを指差した。
「そなた……名は?」
「イノリアです。ヴァシアス・イノリア」
「イノリアか……良い名じゃ」
エヴァは穏やかに微笑む。
「そなたは実に才がある。水の女神の階位を覚醒させるとはな……あれは容易に到達できる水のヴァルクの領域ではない」
ソラがすぐ横から口を挟んだ。
「なあイノリア、せっかくだしエヴァおばあさんに教わったらどうだ? 新しい力の使い方とか」
「いい考えだね、イノリア」
イノリアは少し困ったように頬を掻く。
「うーん……考えてみる。まだ身体も回復途中だし……」
するとエヴァが静かに言った。
「ふふ……元より、そのつもりじゃった」
「え?」
「そなたを鍛えてやろうと思っておる。才能があるからのう」
イノリアは驚きながらも、どこか嬉しそうだった。
その時、イザウが口を開く。
「そうだ……一つ聞きたいことがあります」
「何じゃ、若者よ」
「ずっと不思議だったんです。どうしてあなたは、これほど高位のヴァルクを何十年も使い続けていられるんですか? 疲れたり、ヴァルクが尽きたりしないんですか? それに……眠っている間、この街のバリアはどうやって維持してるんです?」
エヴァは静かに目を細めた。
「……それは瞑想のおかげじゃ」
部屋が静まり返る。
「最初はわしも苦しかった。このヴァルクを使い続け、海水が侵入せぬようバリアの均衡を保つのは極めて消耗する」
「じゃが、ある時から瞑想を始めた」
「瞑想の中では、眠っていても意識を保たねばならぬ。簡単に言えば――眠っている間ですら、ヴァルクを制御し続ける集中を失わぬということじゃ」
イザウは目を丸くした。
「眠った状態で……ヴァルクを?」
「眠れば、人の意識は無意識の領域へ沈む」
エヴァは静かに続ける。
「ゆえに瞑想とは、自らの無意識を鍛え上げる修練なのじゃ。無意識が、覚醒した意識の代わりにヴァルクを操れるようにな」
「わしは何年もそれを続けてきた……今ではすっかり慣れたものよ」
イザウたちは感嘆の息を漏らした。
だがエヴァは首を横に振る。
「もっとも、疲労やヴァルク切れの問題は、わし一人ではどうにもならん」
「……どういうことです?」
「この街の民たちじゃ」
エヴァは穏やかな声で言った。
「ヴァルクの力を持つ者たちが、毎日わしに少しずつ力を分け与えてくれておる」
イザウが目を瞬かせる。
「ヴァルクを……分け与える?」
「無論じゃ」
エヴァは当然のように頷いた。
「そもそもヴァルクとは、ヴァルク石から人へ取り込まれる力であろう? ならば、人から人へ流すことも可能なのじゃ」
「……どうやって?」
イザウが尋ねると、エヴァは微笑んだ。
「明日の朝、また来るがよい」
「実際に見れば理解できる」
そして彼女はアマリスへ視線を向ける。
「さて、アマリス。この子らを休ませてやりなさい。傷を癒すには休息が必要じゃ」
「分かりました」
アマリスは頷き、イザウたちを案内した。
向かった先は、政府によって管理されている都市の宿泊施設だった。
オケアニスは外の世界と繋がっていない。
それでも、この都市は独立して成り立っていた。
独自の統治機構。
独自の通貨。
独自の経済。
さらには農地まで存在し、人々は自給自足で暮らしている。
広大な市場もあり、海底都市とは思えないほど活気に満ちていた。
オケアニスは決して大きな都市ではなかった。
それでも、その姿はまるで一つの国家を小さく凝縮したようだった。
人々は外界に頼ることなく、自分たちだけで生活を成り立たせている。
数十年もの間、彼らは外の世界を見ることなく生きてきた。
この街で生まれ育った子供や若者たちは、地上がどのような場所なのかさえ知らないのかもしれない。
彼らが知る地上の姿は、先祖たちから語り継がれてきた物語だけだった。
それでも――
オケアニスの長老たちは地上へ戻ることを望まなかった。
なぜなら、海の底にいる限り、悪魔に関わる争いや災厄から身を守ることができるからだ。
やがて一行は都市の宿へと到着した。
外部の人間が訪れることはほとんどないにもかかわらず、オケアニスには立派な宿泊施設が存在している。
それには理由があった。
都市内には庭園や娯楽用の舞台があり、丘陵部に暮らす住民たちが祭りや祝祭、演劇や催し物の際に街へ訪れ、宿泊するためだった。
イノリアは感心したように周囲を見回す。
「すごい……宿も立派。というか、この街の建物って全部すごく豪華ね」
客室の割り振りが始まると、イノリアが強く主張した。
自分はイザウと同じ部屋にすると。
歩行を手伝うためだという。
カイイヤは少し眉を下げた。
「イノリア、お前もまだ回復が必要だろう。戦いの傷も癒えてない。ヴィオレンとペミなら看護に慣れてる、二人は私の船の看護係だからな」
しかしイノリアは首を横に振る。
「ありがとう、カイイヤ。でも……イザウのことは私が世話したいの」
そして少しだけ視線を逸らしながら尋ねた。
「……イザウも、嫌じゃないよね?」
イザウは苦笑する。
「そこまで言うなら……仕方ないな」
こうして二人は三階の部屋へ向かった。
イノリアはイザウの肩を支えながら、慎重に階段を上る。
「気をつけて、イザウ。ゆっくりでいいから」
失った左脚のせいで、イザウの歩みは重かった。
だがイノリアは終始そばに寄り添い、彼を支え続けた。
そして――
二人は初めて、同じ部屋で夜を過ごすことになった。
同じ寝台の上で。
イノリアの様子は、いつもと少し違っていた。
以前よりも穏やかで、どこか優しい。
静かな部屋の中、彼女がぽつりと口を開く。
「……イザウ、あまり無理しないで」
「無理?」
「私を守ろうとしすぎないでってこと」
イノリアは俯く。
「ちゃんと自分のことも考えて。もし戦えなくなったら……逃げる方法だって探してほしい」
彼女の声が震えた。
「……見てよ、あなたの足……」
ぽろり、と涙が零れる。
イザウは静かに彼女の手を握った。
「おい、泣くなよ」
柔らかな声だった。
「俺が無茶をするのは、お前を守るためだけじゃない」
「……」
「アリシア姉さんとの約束もある。仲間を守りたい。みんなで帰りたい」
彼は真っ直ぐにイノリアを見る。
「それに何より――あの場で退くのは、俺の信念に反する」
「だから気にするな。まして自分を責める必要なんてない」
イノリアは涙を拭った。
それでも不安は消えない。
「……でも心配なの。今だって足を失ったじゃない……このままだと、本当に命を落とすかもしれない」
「私は……ずっとあなたに負担をかけてる気がする……」
イザウは少し呆れたように笑った。
「誰がそんなこと言った?」
「え……?」
「お前は強いし、すごいやつだ。俺の方こそ何度も助けられてる」
握った手に力を込める。
「俺たちはきっと全部乗り越えられる。そして終わらせる」
「だから信じろ、イノリア」
イノリアも彼の手を握り返した。
次の瞬間。
イザウは彼女をそっと抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。
イノリアは抵抗しなかった。
二人は寄り添ったまま、深い眠りへ落ちていく。
そして翌朝――
先に目を覚ましたのはイザウだった。
寝起きのぼんやりした頭で状況を理解した瞬間、彼の顔は一気に赤くなる。
慌てて寝台の端へ座り直した。
その気配でイノリアも目を覚ます。
イザウの姿を見た途端、昨夜の出来事を思い出したのか、彼女の頬もほんのり染まった。
「……お、おはよう、イザウ」
恥ずかしそうな声。
「お、おう。おはよう、イノリア」
イザウは気まずそうに視線を逸らす。
「いい朝だな……海の中だけど」
「……ふふ、確かに」
だがその後も、二人の空気はどこかぎこちなかった。
朝食のため一階へ降り、皆と食卓を囲んでも、互いに視線を避けてばかりいる。
その異変に最初に気づいたのはソラだった。
彼は面白そうに笑う。
「なあ、お前ら何か変じゃないか?」
「……え?」
「昨日の夜、何かあった?」
あまりにも直球だった。
イノリアが慌てる。
「え、えっと!? な、何もないわよ!」
「そ、そうだ! 何もなかった!」
イザウも必死に頷く。
ソラはニヤニヤする。
「へぇ~? でも妙に怪しいんだよなぁ」
すると食事をもぐもぐ咀嚼していたリカが、何でもない顔で言った。
「たぶん二人、昨夜そういうことしたんじゃない?」
「はぁぁぁ!?」
イノリアが椅子から飛び上がりそうになる。
「な、何言ってるのリカ!?」
イザウも顔を真っ赤にした。
「するわけないだろ!? そ、それは夫婦がすることだろ!」
騒ぎ始めた二人を見て、カイイヤが呆れたようにため息をつく。
「はいはい、その辺にして早く食べろ。今日はエヴァおばあさんのところへ行くんだろう?」
その一言で、ようやく朝食の場は落ち着いた。
食事を終えた一行は、再びエヴァのもとへ向かう。
部屋に到着すると、エヴァの寝台の近くには五人の見知らぬ男女が立っていた。
アマリスが微笑む。
「来たわね。エヴァおばあさん、ずっと待ってたのよ」
「すみません、遅れました」
「大丈夫よ。この五人も暇してたところだから」
イザウは五人へ視線を向ける。
「……じゃあ、この人たちがエヴァおばあさんにヴァルクを分ける人たちなんですか?」
アマリスが頷く。
「そういうこと。今日はこの五人の当番なの」
「毎日、四~五人ほどが交代でヴァルクを提供してるのよ」
「人数はその人のヴァルク量次第。街の住民にはそれぞれ当番が割り振られていて、順番に力を分ける仕組みになってるの」
イノリアが興味深そうに聞く。
「もし来られない人がいたら?」
「病気なら休めるわ。ただし許可が必要ね」
アマリスは説明を続けた。
「来られない場合は別の人が代理になる。でもその場合、代理を立ててもらう代償として罰金みたいな形で支払う決まりになってるの」
なるほど、と一同は感心した。
オケアニスはただ海底で生き延びているだけではない。
長い年月をかけて築かれた、確かな秩序と仕組みを持つ一つの社会だった。
「なるほど……公平な仕組みですね」
イザウは感心したように頷いた。
「そのうち俺たちも、ヴァルクを提供して手伝うことはできますか?」
アマリスが柔らかく微笑む。
「もちろん可能よ。でも今のあなたたちは回復中でしょう? だからヴァルク提供はおすすめできないわ」
一同はそのまま、エヴァの行う儀式を見守った。
五人の住民が順番に彼女の前へ立つ。
エヴァは彼らの腕や肩へそっと触れた。
すると――
淡い光を帯びたヴァルクが、まるで吸い上げられるように彼女の身体へ流れ込んでいく。
「……っ!」
イザウは目を見張った。
「すごい……! どうやって吸収してるんですか? それって……逆に与えることもできるんですか?」
エヴァは穏やかに頷く。
「無論じゃ」
「ヴァルクは吸い取るだけではない。他者へ分け与えることもできる」
彼女はゆっくり説明した。
「仕組みは燃料のようなものじゃな。与えることも、吸い上げることもできる」
「それって……教えてもらえるんですか? それとも秘術とか……?」
「教えてやろう」
エヴァは即答した。
「本来、ヴァルクを持つ者なら誰でも吸収と転送は可能じゃ。ただし――誰もが条件を満たせるわけではない」
イノリアが興味深そうに尋ねる。
「条件って?」
「単純じゃ。高い集中力」
エヴァはイザウを見た。
「多くの戦場を潜ってきた者なら分かるはずじゃ。ヴァルクを身体の一部だけへ集中させる感覚がな」
イザウはすぐに頷いた。
「……確かに」
「言われてみれば、戦ってる時に無意識でやってる。両腕だけとか……攻撃される急所だけにヴァルクを集中させたり」
エヴァは満足そうに目を細めた。
「それができるなら転送は難しくない」
「やることは同じ。吸うか、流すかを意識するだけじゃ」
イザウは試しにエイミへ向き直った。
慎重に集中する。
エイミの身体の中を流れるヴァルク。
その存在を感じ取り――
吸収を試みる。
すると僅かだが、本当にヴァルクが流れ込んできた。
「……できた!」
しかし次の瞬間、流れは途切れる。
イザウは額の汗を拭った。
「うわ……思ったより難しいな」
エヴァが頷く。
「集中を維持せねばならぬ。切れれば今のように途中で途絶える」
イザウはもう一度試そうとした。
「なあエイミ、もう一回――」
「やだ」
即答だった。
「えっ」
エイミは面倒そうに腕を組む。
「学習道具になるの面倒くさい」
「そんなぁ……」
その様子に周囲から笑いが漏れる。
するとアマリスが手を叩いた。
「さて、ヴァルク転送も見学できたことだし……街を案内しようか?」
「もちろん全部は無理よ。オケアニスは結構広いから」
カイイヤが肩を回す。
「悪くないな。療養中の気分転換にもなる」
皆も賛成し、街へ出ることになった。
だがその時――
「イノリア」
エヴァが静かに呼び止めた。
イノリアが振り返る。
「少し話がしたい」
するとイノリアは反射的にイザウを見た。
「でも……イザウは私が支えて歩いてるし……」
「大丈夫じゃ」
エヴァは優しく微笑む。
「ほんの少し話すだけじゃよ」
イザウは仲間たちへ視線を向けた。
「みんな先に行っててくれ。俺たちは後で追いつく」
「了解ー」
ソラが軽く手を振る。
一同が部屋を出ていき、静寂が戻る。
イノリアはエヴァの前へ立った。
「……それで、何のお話ですか?」
エヴァはしばらく彼女を見つめていた。
そして静かに語り始める。
「……知っておるじゃろうが、わしはもう老いた」
その声には長い年月の重みがあった。
「この街で水の女神の階位へ至れる者は、わし以外に二人おる」
「じゃが……二人とも扱える範囲が狭い。小規模な水制御しかできぬ」
エヴァは窓の外の海を見た。
「わしがあとどれほど生きられるか……分からぬ」
イノリアは黙って聞いていた。
「だから後継者が必要なのじゃ」
その言葉に空気が止まる。
「このバリアを守り、オケアニスの民を生かし続ける者が」
エヴァは真っ直ぐイノリアを見つめた。
「イノリアよ……わしの後を継がぬか?」
イノリアは目を見開いた。
エヴァは続ける。
「無論、それは人生の全てを捧げるということじゃ」
「命尽きるまで、この街を支え続ける」
「……」
「だが、わしはこの街の者たちを見捨てられぬ」
彼女の声は震えていた。
「もしわしが死ねば……この水壁を支える者は消える」
「そして民は住処を失う」
沈黙。
だがイノリアは迷わなかった。
「……ごめんなさい」
その返答ははっきりしていた。
「そのお願いは受けられません」
エヴァは静かに頷く。
イノリアは続けた。
「私は仲間たちと一緒に悪魔を倒します」
「そして……イザウと一緒に、自分の次元へ帰るつもりなんです」
エヴァは小さく笑った。
「……そう答えると思っておった」
「別に責めてはおらぬ。無理強いもしない」
彼女は穏やかに言う。
「ただ、わしの現状を知ってほしかっただけじゃ」
そして目を閉じる。
「これまで二人の後継候補を育ててきた」
「じゃが、どうしても保持できる水域の半径が広がらぬ」
再びイノリアを見た。
「お前が戦った時……ここからでも感じた」
「その力は、わしと同じ」
「いや……若さを考えれば、いずれわしを超えるかもしれぬ」
イノリアは優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、おばあさん」
「私たちが地上の悪魔を全部倒します」
「そうしたら、みんなまた地上で暮らせます」
エヴァは静かに首を横へ振った。
「……その希望はわしも抱いておる」
「じゃが、仮に悪魔が滅んでも……この街の民が地上へ戻るとは限らぬ」
彼女は海の景色を見つめた。
「わしらにとって、ここが故郷じゃからな」
そして微笑む。
「さて、長く引き止めてしまった」
「行っておいで」
イノリアは頭を下げた。
「いえ、気にしないでください」
「おばあさんの事情も分かります。でも……私には私の道があります」
少しだけ力強く笑う。
「難しくても、オケアニスはきっと大丈夫です」
こうして話は終わった。
イノリアとイザウは合流するため街へ向かう。
しばらく歩くと――
庭園の一角で、アマリスたちの姿を見つけた。
海中の光に照らされた美しい庭だった。
イザウが手を振る。
「おーい、みんな!」
「二人とも遅かったな。こっちはずっと待ってたんだぞ」
ソラが少し大げさに肩をすくめる。
イノリアは苦笑した。
「ごめんごめん。エヴァおばあさんと少し話してたの」
「何を話してたんだ?」
「えっと……別に大した話じゃないわ」
どこか曖昧に誤魔化すイノリアだったが、皆も深く追及はしなかった。
アマリスが手を叩く。
「それじゃ、続きを案内するわね」
一行は再び街を歩き始めた。
しばらく進んだところで、イザウがふと思い出したように尋ねる。
「そういえばアマリス、君の仲間二人はどうしたんだ? 今日は一人で案内してるんだな」
「シリオスとカルスのこと?」
アマリスは頷く。
「二人には別の任務があるの。境界の防衛任務よ」
「境界?」
カルが首を傾げる。
「どうして守る必要があるんだ? まさか魚がこのバリアを突破したりするのか?」
「ええ、時々あるわ」
アマリスは真面目な顔になる。
「クジラやサメみたいな大型生物が、勢いよく泳いで偶然バリアへ衝突すると、そのまま内部へ入り込んでしまうことがあるの」
「だから警備隊は彼らを海へ戻す役目もしてる」
「……でも、それだけじゃない」
彼女の声音が少し低くなった。
「警備隊は――シルス(Cirus)の襲撃にも備えているの」
「シルス?」
イザウが聞き返す。
「深海に棲む怪物よ」
アマリスは海の向こうを見つめながら説明した。
「大きさはシロナガスクジラ以上。見た目はクジラに近いけど、牙は鋭くて……三本の角を持ってる」
「頭に二本、顎に一本」
リオンが眉をひそめる。
「魚なら、そんなに警戒する必要あるのか?」
「問題はそこじゃないの」
アマリスはゆっくり首を振った。
「シルスは自然の法則を無視してる」
「……?」
「水中だけじゃなく――空も泳げるのよ」
「……は?」
皆が一斉に目を丸くする。
ソラが思わず声を上げた。
「魚が空を泳ぐ!?」
「数年前から現れ始めてね。オケアニスを何度も襲撃してるの」
イノリアが考え込む。
「もしかして……霊谷で戦った怪物みたいに、別次元の生物だったり?」
イザウも頷いた。
「第七次元かもしれないな。あそこには怪物が多いって噂だった」
アマリスは腕を組む。
「どこから来たのかは分からないわ。でも……もし本当に第七次元の存在なら、少し安心かも」
「安心?」
「ええ。私は、あれに群れがいるんじゃないかってずっと心配してたの」
彼女の表情が曇る。
「たった一体でも、襲撃は本当に恐ろしい」
「街は大きく壊されるし……死者だって出た」
空気が重くなる。
イザウは静かに尋ねた。
「襲撃は規則的なのか? それとも完全に気まぐれ?」
「大体は一か月に一度ね。でも二回襲ってきた月もあった」
「だから警備隊はずっと警戒してるの」
アマリスは不安そうに続けた。
「実は……そろそろ来てもおかしくない時期なのに、まだ現れてないの」
その話を聞き、イザウは迷いなく言った。
「なら、俺たちも手伝うよ」
皆が彼を見る。
「回復中の間だけでも、もしシルスが来たら一緒に戦う」
するとエイミが腕を組み、率直に言った。
「ねえイザウ」
「ん?」
「ずいぶん自信満々だけど……その身体で戦えるの?」
――沈黙。
イザウはすぐに視線を落とした。
失った左脚。
その現実は、誰より彼自身が痛感している。
カイイヤが即座にエイミの口を塞いだ。
「お前は話す前に少し考えろ!」
「むぐっ!?」
場の空気が気まずくなる。
そんな中、イノリアがそっとイザウへ近づいた。
彼の横に立ち、優しく声をかける。
「……大丈夫よ、イザウ」
彼女は柔らかく微笑んだ。
「もし前みたいに戦えなくても……私があなたを支える」
イザウは少し寂しそうに笑った。
「ありがとう。でも……お前に負担はかけたくない」
「前線で役に立てないなら、俺は後ろから支える側になるよ」
その言葉を聞くと、イノリアは迷わず彼を抱きしめた。
周囲が思わず固まる。
イノリアは静かに言う。
「私たち、ずっと支え合うんでしょ?」
「戦いだけじゃない」
「これからも、ずっとお互いを補い合えばいいの」
イザウは驚いたように目を瞬かせた。
一方――
ソラは口をあんぐり開けていた。
そして震える指で二人を指差す。
「お、おおおおい……!」
「やっぱり何かあるじゃねぇか!!」
彼は大声で叫ぶ。
「絶対そうだと思ってた! お前ら、何かあっただろ!?」
「まさか今……恋人同士になったとか!?」
「なっ……!?」
イノリアの顔が一気に赤くなる。
「ち、違うわよ!」
「私はただイザウを励ましてただけ!」
だがその否定すら、どこか慌てすぎていて逆に怪しかった。
ソラはますますニヤニヤする。
そんな騒ぎをしながら、一行は街を巡り続けた。
気づけば丸一日歩き回っていた。
そして海そのものが空となっているオケアニスでは、上空の海水がゆっくりと暗く染まり始めていた。
夕暮れだった。
深海越しに差し込む光が揺らめき、街全体を幻想的に包み込む。
ソラが空を見上げる。
「海の中で夕日を見るなんて……変な感じだな」
リオンが笑った。
「本当だな。魚っていつもこんな景色を見てるのか」
「はははっ!」
皆の笑い声が響く。
その中で、イザウはふとカルの表情に気づいた。
「……カル?」
「ん?」
「なんか元気ないな」
カルは少し俯いた。
「……クイたちが心配してるだろうな」
その言葉にカイイヤも苦笑する。
「確かに……私の船員たちも今頃私を探してるかもしれない」
「……ポコポンにも会いたいな」
しばし静かな空気が流れる。
皆、それぞれ地上に残した仲間や居場所を思い出していた。
やがてイザウが口を開く。
「回復したら、俺たちは地上へ戻ろう」
その声は真剣だった。
「今はここで身体を治すべきだ」
「万全じゃないまま戻れば、悪魔たちは絶対に俺たちを狙ってくる」
「そんな状態で戦えば……簡単に負ける」
「……死ぬかもしれない」
皆も静かに頷く。
彼の言葉は現実だった。
だからこそ、今は焦るべきではない。
ソラが拳を握り上げた。
「よし!」
彼は明るく笑う。
「じゃあ――みんな、回復がんばろうぜ!」
「おう!」
夕暮れの海底都市に、仲間たちの声が重なった。




