第1章 次元の穴
プラネット・インカ歴1820年——この日は、年に一度の大祭の日だった。アマリ王国とマノリ王国、二つの王国が手を取り合ったことを記念する祝祭であり、人々にとって特別な意味を持つ日である。
祭りの準備のため、街は朝から慌ただしく動いていた。露店の者たちは食べ物や品物を並べ、演者たちは披露する演目の最終確認に余念がない。誰もがこの日を心待ちにしていた。
祝祭の舞台となるのは、両王国の中間に位置する中立都市——モリナ市(Morina City)。どちらの領土にも属さないその場所に、両国の人々が一堂に会する。
その賑わいの中を、気ままに歩いている一人の青年がいた。
ハマ・イザウ——アマリ王国の王子であり、同時に騎士でもある。彼は第一段階の炎のヴァルクを操る実力者で、その炎は鮮やかな赤を帯びている。
もっとも、その実力に反して、彼の態度はどこか軽い。任務中でもどこか遊び半分のように振る舞うことが多いが、不思議なことに結果だけは常に完璧にこなしてしまうのだった。
「おお、イザウ様!これもどうぞ!」
通りを歩けば、あちこちから声がかかる。屋台の者たちは、王子である彼に次々と食べ物を差し出した。
「お、ありがとう!」
遠慮する様子もなく受け取っていくイザウの腕には、あっという間に大量の食べ物が積み上がっていく。
「……ちょっと多すぎじゃないか、これ」
苦笑しながらも、彼は歩き続ける。しかし視界はほとんど塞がれていた。
そして——
ドンッ!
「うわっ!?」
誰かとぶつかり、そのまま二人とも地面へと倒れ込む。手に抱えていた食べ物はすべて宙を舞い、無残にも地面に散らばった。
「……っ!」
イザウの表情が一瞬で険しくなる。
「おい、誰だよ——!」
怒りのままに拳を握りしめると、その手には赤い炎が灯る。今にも殴りかかろうとしたその時——
彼は、目の前の相手の顔を見て固まった。
「……え?」
そこにいたのは、マノリ王国の第二王女——ヴァシアス・イノリアだった。
「……」
「……」
一瞬、時間が止まったかのような沈黙。
イザウはすぐに気づく。彼女とは長い間、言葉を交わしていなかったことを。
最後に話したのは、まだ子供の頃。両国の会議に親と共に出席していた時のことだ。月に一度開かれる会議で、自然と顔を合わせる機会はあった。
しかし騎士となってからは違う。互いに任務に追われ、会議にも出なくなり、こうして会うことすらなくなっていた。
「……あー、その……」
イザウは慌てて手を差し出す。
「大丈夫か?」
だがイノリアは、その手を取らずに自力で立ち上がった。
どこかぎこちない空気が流れる。
「ひ、久しぶりだな……その、最後に会ってから……」
イザウの声は明らかにぎこちなかった。
「……うん」
イノリアは小さく頷くだけ。
視線は下を向いたまま、彼の目を見ようとしない。
そして次の瞬間——
「ごめん、またね!」
そう言い残し、彼女は駆け出してしまった。
「え、ちょっ……」
イザウは呆然と立ち尽くす。
「……なんだよ今の」
理解が追いつかず、ただ彼女の背中を見送ることしかできなかった。
気を取り直し、再び街を歩き始めたイザウは、今度は見覚えのある少女を見つけた。
「……おい、ジア!」
それは彼の妹、ハマ・ジアだった。小さな体で元気に走り回り、周囲の人々にぶつかりそうになっている。
「こら、危ないだろ!ちゃんと前見ろ!」
イザウが注意するが——
「やだー!」
ジアはまったく聞く耳を持たない。それどころか——
ドンッ!
「ぐはっ!?」
彼の足を思いきり蹴り飛ばし、そのまま舌を出して笑う。
「べーっ!」
「おまっ……!」
痛みに顔を歪めながら、イザウは拳を振り上げた。
「覚えてろよジア!お前、ヴァルクの勉強しろって言われてるだろ!来週テストじゃなかったのか!?」
しかしジアは聞く耳を持たず、そのまま走り去っていく。
「……はぁ」
周囲の視線に気づき、イザウは深くため息をついた。
そのまま彼は人混みの中へと足を進める。
やがて辿り着いたのは、祭りの中心——巨大な塔の下だった。
アマノリの塔(Amanori Tower)。それは両王国の和平を象徴する記念碑であり、この祭りの中心舞台でもある。
その舞台の上には、一人の男と一人の少女が立っていた。
ハマ・フカ王子と、ヴァシアス・アリシア王女。
両国を代表する二人が、観衆に向けて挨拶を行っていた。
イザウは兄の姿を見上げる。
かつては共に訓練し、何でも話せる関係だった。しかし今では違う。王位継承者候補となったフカは政務に追われ、二人の距離はいつの間にか離れていた。
やがて挨拶が終わり、いよいよ演目が始まる。
炎のヴァルクが一斉に放たれ、夜空へと打ち上げられる。赤い炎は花火のように弾け、美しい光景を作り出した。
そして次の瞬間——
塔の上に、一人の少女が現れる。
水のヴァルクを操り、空中に水の粒子を散らす。それに太陽の光が差し込み——
虹が生まれた。
「……っ」
イザウは息を呑む。
その少女こそ、イノリアだった。
先ほどとはまるで別人のような姿に、彼は目を奪われる。
だが——
その美しい光景は、突如として終わりを告げる。
空が、暗くなった。
「……なんだ?」
ざわめきが広がる。
次の瞬間——
塔の真上に、黒い穴が現れた。
アクマク——かつての災厄と同じ、異様な存在。
その穴は回転しながら、周囲のものを吸い上げ始める。
「逃げろ!!」
イザウは叫んだ。
人々は一斉に走り出す。混乱の中、悲鳴が響き渡る。
フカとアリシアも避難を指示し、兵士たちが要人たちを馬車で退避させる。
やがて人々は街の外へと避難し終える。
だが——
「……助けて!!」
その声が、上空から響いた。
「イノリア!?」
彼女は塔の上に取り残されていた。
強烈な吸引に引かれ、今にも空へと飲み込まれそうになっている。
「先に行け!!」
イザウは叫ぶ。
「俺が助ける!」
「でも——!」
「行け!!」
彼の強い言葉に、アリシアは唇を噛む。
「……必ず、連れて帰って」
「ああ、約束する」
その言葉を最後に、二人はその場を離れた。
イザウは塔へと駆け出す。
階段を一気に駆け上がりながら叫ぶ。
「離すな!イノリア!!」
「もう無理よバカ!!早く!!」
(……はは、やっぱりこっちが本性か)
そんなことを思いながらも、彼は全力で駆け上がる。
だが吸引はさらに強まる。
瓦礫が飛び交い、イノリアの体にぶつかる。
「っ……!」
彼女の手が滑り——
空へと引きずられる。
かろうじて塔の端に掴まるが、限界は近い。
ようやく最上階へ辿り着いたイザウは、ある決断をする。
「……行くしかねぇな」
彼は足場を蹴り——
自ら空へ飛び込んだ。
吸引に乗り、一気に上昇する。
途中、旗柱に掴まり、体勢を整える。
そして——手を伸ばした。
「イノリア!!」
彼女も手を伸ばす。
だが——
その瞬間、彼女の手が離れた。
「っ!?」
体が完全に宙へ放り出される。
「くそっ!!」
イザウも躊躇なく手を離し、彼女を追う。
二人は、そのまま黒い穴へと飲み込まれていった。
——そして。
穴は、消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
空は再び晴れ渡り、残された瓦礫だけが地上へと降り注ぐ。
だが街には、すでに誰もいなかった。
やがて戻ってきたフカとアリシアは、崩壊した街を目にする。
「イザウ!!イノリア!!」
呼び続けても、返事はない。
ヴァルクの気配も感じられない。
その場に崩れ落ちるアリシア。
「……どうして……」
涙が止まらなかった。
やがて両国の軍が到着し、二人はアマリ王国へと移送される。
その後すぐに、両王による緊急会議が開かれた。
アリシアは語る。
「……これは、十年前のアクマク事件と同じです」
長い議論が続いた。
だが——
誰一人として、その穴の正体も、二人を救う方法も分からなかった。
それでも。
フカは、ただ一人言った。
「……あいつは生きてる」
その言葉だけが、かすかな希望として残った。




