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第18章 裁きの斧

 イノリアは船の下層甲板にある牢獄へ閉じ込められていた。


 彼女を運ぶ船は途方もなく巨大だった。


 しかもその船は、ほぼ全てが鉄で造られている。


 牢屋の壁ですら分厚い鉄壁で構成されており、ヴァルクで破壊して脱出することなど到底不可能だった。よほど高位のヴァルクでなければ、この厚い鉄壁を一撃で貫くことはできない。


 警備も異常なほど厳重だった。


 見張りは全員魔族。


 少しでも怪しい行動を見せれば、待っているのは拷問だ。


 イノリアには抵抗する力など残っていなかった。


 連れ去られる直前まで魔族指揮官との激戦を繰り広げていたため、全身は傷だらけだった。まともな治療も受けられず、牢に入れられてからは一日一度の食事しか与えられていない。


 体力は底を尽き、傷の痛みも重なって、立ち上がるだけでも苦しい。


 普通に歩くことさえ難しい状態だった。


 だが、牢にいるのはイノリアだけではなかった。


 同じ牢には港から攫われた者たちが大勢押し込められている。


 さらに別の牢を見ると、痩せ細った囚人たちの姿が目に入った。


 一日一食しか与えられない環境のせいで、長く閉じ込められている者ほど飢えていた。


 食事が配られるたび、同じ牢の仲間同士で奪い合いが起きる。


 その争いが喧嘩へ発展し、死人が出ることさえ珍しくなかった。


 だが、イノリアが入れられた牢だけは少し様子が違っていた。


 そこにいる者たちはすでに互いに自己紹介を終えていた。


 彼らは第六次元出身だというヴァカン海賊団の船員たちだった。


 驚くほど団結しており、中には自分の食事を子供や若い者へ分け与える者までいる。


「……どうして皆さん、二日や三日も食べないことがあるのに、子供たちや……私にまで食事を譲るんですか?」


 イノリアは不思議そうに尋ねた。


 一人の船員が豪快に笑う。


「俺たちゃ海の民だからな!」


「海じゃ食料が尽きることもあるし、嵐や海戦で何日もまともに食えねぇことなんざ珍しくない。釣りも漁も、毎回上手くいくとは限らねぇんだよ。海ってのは気まぐれだからな」


「そうそう!」


 別の船員も笑いながら続ける。


「お嬢ちゃんは怪我の治療中なんだから、ちゃんと食っとけ! 俺たちなんか、一週間食わなくても死にゃしねぇよ! ははは!」


 ヴァカンの民は本当に気さくだった。


 イノリアは申し訳なさを感じながらも、その善意を受け取っていた。


 生きなければならない。


 そして傷を癒やさなければ。


 以前、イノリアは自分のことや、魔族との戦いについて彼らへ話していた。


 それに応えるように、ヴァカンの船員たちもミランダでの暮らしを語ってくれた。


 彼らは海賊ではあったが、商船を襲うことはしない。


 標的にするのは工場の輸送船だけだった。


 そこで物資や食料を奪い、それを港で売ったり交換したりして生活しているのだ。


 そして何より――。


 彼らは魔族を激しく憎んでいた。


 魔族が人々を攫い、奴隷や強制労働者にしているからだ。


 しかし不運にも、アンダラス港で魔族たちに狙われてしまった。


 仲間と離れていた隙を突かれ、次々と攫われたのだ。


 それでも彼らは絶望していなかった。


 なぜなら――。


 自分たちの船長が必ず助けに来ると信じていたから。


 しかもその船長は、一撃で数十体もの魔族を倒したことがあるという。


 その話を聞き、イノリアは驚いた。


「……すごい船長さんですね。どんなヴァルクを使うんですか?」


「うちの船長はカイイヤっていうんだ」


 船員が誇らしげに胸を張る。


「黒雷のヴァルク使いさ」


「混合ヴァルク……」


 イノリアは少し考え込んだ。


「珍しいですね……。混合ヴァルクの使い手って、あまり見たことがありません」


 ふとイノリアは、牢の隅に視線を向けた。


 小さな男の子が一人、食事を前にして頑なに口を閉ざしている。


 その隣では、一人の男が困ったように説得していた。


「……あの子は?」


 イノリアが尋ねる。


「それに隣の人も……ヴァカンの民には見えませんね。服装が氷の部族みたいです」


「ああ、あの二人か」


 船員が頷く。


「第八次元の連中だよ。数年前、うちの船長が助けたんだ。あと三人いたんだが、その子たちは攫われてない。今頃は船長と一緒にいるはずさ」


 イノリアは二人へ近づいた。


「ねぇ、どうして食べないの?」


 男の子はイノリアを見るが、何も答えない。


 代わりに隣の男が口を開いた。


「やぁ……俺はカル。まぁ、叔父みたいなものかな」


 彼は男の子の頭を撫でる。


「この子はポポ。姉……いや、兄たちと離れ離れになってから、食べたがらなくてね」


「私はイノリアです」


 彼女は優しく微笑む。


「皆からあなたたちの話を聞きました。じゃあ、お兄さんたちは一緒に攫われなかったんですか?」


「いや……」


 カルは悔しそうに俯く。


「こいつがここにいるのは俺の責任なんだ」


「俺たちは食料の買い出しをしてた。その時、魔族に攫われたんだ。多分、俺たちが輸送船を襲ってたことへの報復だろうな。あいつら、俺たちがバラける瞬間を狙ってたんだ」


 イノリアは自分の皿を持ってしゃがみ込む。


「このご飯、美味しいですよ?」


 彼女は優しく笑った。


「ほら、食べましょう? 良い子はちゃんと食べないと」


 しかしポポは口を固く閉じ、首を横に振る。


 何度差し出しても同じだった。


 だからイノリアは、少し強引な方法を取ることにした。


「……ここでは、一日に一回しかご飯が出ません」


 彼女の声は真剣だった。


「それなのに、大人たちは何日も食べないで、その分を子供や女の人へ譲ってるんです」


 ポポの肩が小さく揺れる。


「もしポポが食べなかったら……皆、悲しくなっちゃいますよ?」


「……っ」


「だって皆、“ポポに元気になってほしい”って思ってるんですから」


 その言葉を聞いた瞬間――。


 ポポの目から涙が零れた。


 泣きながら、彼は皿を手に取る。


 そして少しずつ食べ始めた。


「……ごめんなさい」


 イノリアはカルへ頭を下げる。


「泣かせるつもりじゃなかったんです。でも、こうするしか思いつかなくて……。病気になったらもっと大変ですから」


「いや……ありがとう」


 カルは穏やかに笑った。


「本当は俺も同じことを言いたかった。でも子供相手だと、どうしても甘くなっちまうんだ」


 その時だった。


 ドォォォォォンッ!!


 突如、轟音が牢全体を揺らした。


「きゃっ!?」


 直後、凄まじい爆発音とともに船体が大きく震える。


「な、何……!? 攻撃!?」


 囚人たちは一斉に床へ伏せた。


 するとヴァカンの船員の一人が低く呟く。


「……いや、攻撃じゃねぇな」


「え……?」


「多分、この船自身が兵器実験をしてる」


 イノリアは目を見開く。


「兵器実験……?」


「こんな鉄の巨船が震えるほどの衝撃だぞ」


 船員の顔は険しかった。


「しかも爆発音も異常だ。普通の武器じゃねぇ……」


「新兵器……」


 誰かが唾を飲み込む。


「地球人と魔族が共同で作ってるって噂の兵器かもしれねぇ」


「……!」


「この揺れだけでも分かる。とんでもなく危険な代物だ」


 牢の空気が一気に重くなった。


 もし誰かが助けに来てくれたとして――。


 あんな兵器を相手に、本当に勝てるのか。


 不安と恐怖が広がっていく。


 別の牢からは子供たちの泣き声も聞こえ始めた。


 ポポは泣かなかった。


 だが、小さな身体でカルにしがみついている。


 あれほど凄まじい音なのだ。


 子供たちが怯えるのも無理はなかった。


 およそ一時間が過ぎていた。


 牢内はようやく落ち着きを取り戻していた。


 二度目の兵器実験は行われず、先ほどまで続いていた恐怖の爆音も聞こえない。


 だが――。


 突然、外が騒がしくなった。


 上甲板で警備していた魔族たちが何かを報告したらしく、牢番たちが一斉に慌て始める。


「何かあったのか……?」


 カルが眉をひそめる。


 次の瞬間――。


 ゴゴゴゴゴッ!!


 凄まじい轟音が響き、船全体が激しく揺れた。


 その直後、上から光が差し込む。


「……っ!?」


 イノリアたちは目を見開いた。


 牢の鉄壁が――横一直線に裂けていた。


 まるで巨大な刃で斬られたかのように、壁が水平に切断されている。


 他の牢でも悲鳴と混乱が起きていた。


 どうやら全ての牢が同じように斬り裂かれているらしい。


 船はなおも揺れ続けていた。


 外では戦闘が起きている。


 その時――。


 かすかに、誰かの声が聞こえた。


「……イノリア……」


 イノリアは息を呑む。


「イノリア……どこだ……!」


 その声は――。


「イザウ……!?」


 彼女は反射的に叫んだ。


「ここです、イザウ!!」


 同時に、水のヴァルクを使い、裂けた壁の隙間へ水流を噴き出す。


 位置を知らせるためだった。


 すると外から声が返ってきた。


「壁から離れろ!!」


 イザウの叫びだった。


「全員、壁から離れろッ!!」


 囚人たちは慌てて後退する。


 次の瞬間――。


 ドォォンッ!!


 何かが鉄壁へ激突した。


 分厚い鉄壁が砕け散る。


「いい投擲だったよ、エイミ!」


 飛び込んできたのは――リカだった。


 エイミの風のヴァルクによって投げ飛ばされ、その勢いのまま拳で鉄壁を打ち砕いたのだ。


「みんな無事!?」


 イノリアは駆け寄り、思わずリカへ抱きついた。


「来てくれて……ありがとう……!」


 リカは苦笑する。


「私じゃないよ」


 彼女は外を指差した。


「礼を言うなら、あいつら全員に言いな!」


 イノリアが破壊された壁の向こうを見る。


 そこには巨大なヴァカン船があった。


 そして甲板の上――。


 大きく手を振るイザウの姿。


 それを見た瞬間、牢の中が沸き立った。


「見ろ船長だ!!」


 ヴァカンの船員が叫ぶ。


「本当に来てくれた!!」


 歓声が響く。


 皆が希望を取り戻していた。


 だが戦いは終わっていない。


 魔族の鉄船上部から砲撃が始まった。


 砲弾が次々とヴァカン船へ降り注ぐ。


 しかし――。


 轟ッ!!


 エイミの風がそれらを全て弾き返した。


「地球人の兵器って、本当に危険だね……!」


 エイミが顔をしかめる。


 イザウも険しい表情で爆発を見つめた。


「さっきの武器を撃たれたらまずいんじゃないか……?」


「……核兵器のこと?」


 エイミは首を振る。


「それはない」


「どうしてだ?」


「あの距離で撃てば、相手も巻き込まれるから」


 イザウは納得したように頷く。


「確かに……あの爆発は異常だった」


「さっきの実験でも、少なくとも十キロは離れて撃ってた。近距離使用なんて自殺行為だよ」


 エイミが砲撃を防ぎ続ける間に、ヴァカン船は魔族船へ接近していく。


 だがその時――。


 上甲板へ、一人の女が姿を現した。


 サイリンだった。


 イザウの目が鋭く細まる。


「エイミ!」


「うん?」


「接近するまで防御を頼む! 俺は先に行く!」


 エイミは驚く。


「この距離から!? 本気!?」


「問題ない!」


 イザウは白炎を全身へ纏った。


 純白の炎が身体を包み込み、その熱は二本の斧にまで燃え移る。


「上は俺が潰す!」


 彼は振り返らず言った。


「下は予定通りリカに任せる!」


 次の瞬間。


 イザウは斧を投げ放った。


 繋がる鎖が際限なく伸びていく。


 斧は魔族船へ突き刺さった。


「行くぞォッ!!」


 白炎を纏ったイザウが、一気に空中へ射出される。


 まるで飛翔する火球だった。


 魔族船上空へ到達した瞬間――。


 彼は二本の斧を頭上で回転させた。


 ズバァァァッ!!


 着地前の一撃だけで、複数の魔族が真っ二つになる。


 しかも斧に触れた者は、たとえ浅傷でも瞬時に白炎へ呑まれ、灰となって消えた。


「魔族どもォォッ!!」


 イザウは甲板へ着地する。


「貴様らの呪われた行い……俺が裁いてやる!!」


 着地と同時に、彼は一直線にサイリンへ突進した。


 だが複数の魔族が立ちはだかる。


 しかし――。


 たった一振り。


 それだけで全員が両断された。


 血飛沫すら上がる前に灰となる。


 イザウは勢いを止めない。


 サイリンへ向け、首、胸、腹――急所を狙って斧を連続で振るう。


 だがサイリンは全てを回避した。


 イザウは思い出していた。


 ホトヤの戦い。


 あの時のようにヴァルクを隠せば隙を作れる。


 だが――。


 白炎状態ではそれができない。


 一度解除すれば、すぐには再発動できない。


 白炎はまだ扱いが未熟だった。


 維持時間も短い。


 長引けば、自分が先に倒れる。


 最悪――。


 疲弊した瞬間、サイリンに殺される。


 その時だった。


「イザウ!!」


 電光が走る。


 ヴァカン船が十分接近した瞬間、ソラが跳躍していた。


 緑電を纏い、一気に魔族船甲板へ飛び乗る。


「援護に来た!」


 ソラは片目の眼帯を揺らしながら叫んだ。


「状況は分かってる! 長期戦は無理だろ!」


 イザウは笑った。


「助かる!」


「俺が動きを止める! 隙ができたら仕留めろ!」


「分かった……始めるぞ!!」


 ソラが雷速で突進する。


 緑電の残像が甲板に走った。


 カイイヤとの修行を経て、彼の攻撃速度は以前とは比較にならない。


 雷撃を放ちながら高速移動を繰り返し、サイリンを追い詰めていく。


 そして生まれた一瞬の隙。


 イザウが踏み込んだ。


 白炎の斧がサイリンを掠める。


 だが――。


 傷は瞬く間に再生していった。


「……!」


 イザウは眉をひそめる。


「当たったのに……燃えない……」


 サイリンは笑う。


「勘違いするなよ、炎坊や」


 彼女は余裕の笑みを浮かべた。


「私が燃えないのは、お前のヴァルクを自分のヴァルクで抑えてるからだ」


「……何?」


「ヴァルクには格と干渉がある」


 サイリンは指を立てる。


「同格か、それ以上の相手には――簡単に焼き尽くせないってことさ」


 イザウは理解した。


「……種類が違っても、ヴァルクの階位が耐久に影響するのか……」


「ご名答」


 サイリンは楽しそうに笑う。


「でも……何でそんなこと教えるんだ?」


「別に?」


 彼女は肩を竦めた。


「戦いは面白い方がいいだろ?」


「……ふざけやがって!」


 ソラの猛攻が続く。


 雷のような高速移動でサイリンを追い込み、その防御を乱す。


 そして――。


 決定的な隙。


 サイリンの首元が空いた。


「もらったァァッ!!」


 イザウの斧が振り下ろされる。


 だが。


 サイリンは瞬時に判断した。


 彼女は左腕を犠牲にしたのだ。


 ズバァッ!!


 左腕が切断される。


 しかしその代償で、首への一撃だけは防いでみせた。


サイリンは後退すると、切り落とされた自分の腕を拾い上げて繋ぎ直した。黒星の悪魔の再生能力はまさに桁外れだった。切断された四肢でさえ接合して元に戻せるし、たとえ失っても数分かければ新たに生やすことすらできる。


ソラは再び同じ攻撃をサイリンへ放ち、再度彼女を追い詰めることに成功した。イザウは再びサイリンの防御に生じた隙を見逃さなかった。いきなり心臓を狙うのは難しい――まずは彼女の動きを封じるつもりだった。


しかし、またしてもイザウの攻撃はサイリンに回避される。


サイリンは再び自らの腕を犠牲にし、致命傷となる臓器を守った。


その瞬間、甲板内部からイノリアとリカが間に合うように飛び出してきた。


リカはサイリンへ拳を叩き込み、その身体を大きく吹き飛ばした。おかげでサイリンは切断された腕を回収する暇を失う。もし繋ぎ直せなければ、失った四肢を再生するにはより長い時間が必要になる。


続いてイノリアがサイリンの脚を凍結させ、一時的に動きを封じた。


イザウは即座にサイリンの胸を狙う。悪魔の弱点である心臓を破壊するためだ。


イザウの刃は見事に胸を裂いた。


心臓が半ば露出し、二撃目でそれを断ち切ろうとした――その時だった。


突如、縫い閉じられていたサイリンの両目が開き、その顔の中央に巨大な一つ目が現れた。


その眼を見た瞬間、イザウ、ソラ、イノリア、そしてリカの身体が完全に停止する。


サイリンを仕留めるはずだったイザウの二撃目は途中で止まった。


「なんだ……これは……動けない……!」


サイリンはイノリアの氷を砕き、自分の腕を拾い上げて繋ぎ直した。


「私の呪眼で見られている限り、お前たちは動けない。これが黒星の悪魔の特異性の一つ――呪われた攻撃だ。そう簡単に私を倒せると思うな」


サイリンの眼に映った者は、本当に一切動くことができなかった。


まるで石像のように。


サイリンはイザウ、ソラ、イノリア、リカへ向けてヴォイドの球体を放つ。


攻撃を受けても彼らの身体はその場で硬直したままで吹き飛ぶことすらない。ただ激しい痛みだけが全身を貫き、指一本動かせなかった。


呼吸すら困難だった。


心臓や肺といった内臓は機能している。だが外側の肉体だけが、完全に停止させられているのだ。


その時――


エイミが密かに接近し、背後からサイリンへ襲い掛かった。


肉体分解ヴァークの姿となったエイミは飛行できるため、音もなく接近できたのだ。


エイミの攻撃を受けたサイリンは膝をつき、その視線が逸れる。


その瞬間、イザウたちは再び身体を動かせるようになった。


「固まるな! サイリンを囲め! 一度に全員を視界に入れられないようにするんだ!」


イザウが叫ぶ。


イノリア、ソラ、リカは即座に散開し、それぞれの位置からサイリンを包囲した。


サイリンは再び立ち上がり、呪眼を発動する。


だが、全員を同時に視界へ捉えることはできない。


何人かの動きを止めて攻撃しても、別の仲間は背後に回り込み、自由に攻撃できた。


サイリンは無数の攻撃を浴び、全身に幾つもの傷を負う。


もっとも、その傷は驚異的な再生能力によって瞬時に塞がっていった。


それでもサイリンは明らかに怒りを露わにし、空へと跳躍する。


上空からなら全員を見渡せる。


呪眼は再び全員の動きを止め、その隙にサイリンはヴォイドを雨のように降らせた。


その攻撃によって、エイミとイザウはヴァーク形態を解除させられる。


エイミはまだ風の分解形態へ変身できるかもしれない。だがイザウは違った。


白い炎の姿へ再び変わるには莫大なヴァラクを必要とし、消耗も激しすぎるのだ。


サイリンは船の最も高い場所へ着地する。


そこからは依然として全員を見渡せる。


誰も動けない。


そして白炎形態を解除されたイザウは、そのまま意識を失っていた。


サイリンは視界を維持したまま遠距離攻撃を放ち続ける。


船の縁は次々と破壊されていった。


その破壊に巻き込まれたイザウは、砕けた残骸と共に海へ転落する。


イノリアはそれを見た。


だが救えない。


口を開くことさえできなかった。


サイリンの呪眼は、視界に映る空間そのものを停止させているかのようだった。


意識を失ったままのイザウは、深い海へと沈んでいく。


さらに深く。


もっと深く。


ソラはサイリンの猛攻を受け続けていた。


全身は傷だらけだった。


それでも彼女の頭にあるのは自分の痛みではない。


イザウのことだった。


このまま意識を失ったまま沈み続ければ――海の圧力が彼の身体を押し潰してしまう。


その時だった。


突如、サイリンが背後から襲撃を受ける。


カールと、攫われていたヴァカン族の者たちが反撃に加わったのだ。


カールは自身の獣ヴァークを発動し、腕を巨大な鉤爪へ変化させる。


至近距離から放たれた一撃がサイリンを捉えた。


サイリンは弾き飛ばされ、イノリアたちがいる同じ甲板へと落下した。


エイミは再び動けるようになると、再度《肉体分解の風ヴァーク》を発動した。


彼女はサイリンへ襲い掛かり、その身体を切り裂く。


だが、普通の悪魔なら容易く切断できるその攻撃でさえ、サイリンの皮膚を浅く裂くことしかできなかった。再生速度もあまりにも速すぎる。エイミの攻撃はほとんど決定打にならない。


ヴァカン族の者たちも、それぞれのヴァークでサイリンへ一斉射撃を浴びせる。


カールは上空へ跳躍し、サイリンの頭部を殴りつけようとした。呪眼によって動きを止められないよう、側面から眼を狙う。


しかし、サイリンの反応速度も侮れなかった。


彼女はカールの腕を受け止め、そのまま距離を取って回避する。


サイリンは船の隅へ移動し、全員を視界に収めようとした。


だが、それは不可能だった。


これほど巨大な船では、どれほど呪眼が強力でも全ての方向を同時に監視することはできない。


サイリンは接近してくる者たちの動きを止めながら応戦する。


有効なのは一部の遠距離攻撃だけだった。


もっとも、それも彼女の異常な回復速度の前では大きな意味を持たない。


「攻撃を続けろ! あいつだっていつかは消耗する、その時に仕留めればいい!」


エイミが叫んだ。


誰も諦めなかった。


近接戦を挑む者たちは次々と呪眼で動きを封じられ、反撃を受ける。それでも、その犠牲がサイリンの注意を引きつけ、遠距離からの攻撃を通していた。


その時――


「悪い悪い、合流が遅れたな! 先に助けなきゃならない奴がいたんだ、ははは!」


海面からカイイヤが姿を現し、そのまま空中へ舞い上がった。


そして彼女は抱えていたイザウを、サイリンとは反対側へ向けて投げ放つ。動きを止められない位置を選んだのだ。


「イザウ! 生きてたのね……! 本当に心配したんだから!」


イノリアが叫ぶ。


まだ空中にいたイザウは、巨大な青い炎球を生み出し、サイリンへ向けて撃ち放った。


その直後――


イザウの攻撃を受けたサイリンへ、カイイヤが黒い雷を叩き込む。


衝撃でサイリンは海の方向へ吹き飛ばされた。


だが、そこへ背後からエイミが待ち構えていた。


エイミは風の砲撃でサイリンを受け止め、そのまま再び船へ向けて撃ち返す。


甲板ではリカが待ち受けていた。


リカは飛来したサイリンを拳で殴り上げ、空中へ打ち上げる。


続けてイノリアが巨大な氷塊を上空から落下させ、サイリンを押し潰した。


サイリンは再び船へ叩き落とされる。


「よし……終わらせるぞ」


イザウは二本の斧を高速で回転させ、サイリンへ投げ放った。


しかし、それだけでは身体を断つことはできなかった。


刃は胸を裂き、その奥にある悪魔の心臓――ヴォイドの核を露出させるに留まる。


度重なる攻撃で倒れていたソラが、その時ゆっくりと立ち上がった。


全身は傷だらけだった。


脚も震えている。


それでも彼は拳を握り締め、視線をサイリンへ固定する。


「あああああッ!!」


緑色の電撃がソラの身体を包む。


そしてその電撃は、次第に赤色へと変化していった。


次の瞬間――


ソラの姿が消える。


まるで瞬間移動のような速度だった。


船の床へ落下し、跳ね返ったばかりのサイリンの眼前に一瞬で現れる。


そして――


赤い雷を纏った拳が、サイリンのヴォイド核へ突き刺さった。


サイリンの心臓は貫かれる。


その直後、ソラは力尽きて意識を失い、甲板へ倒れ込んだ。


だが――


サイリンは、ついに倒された。


ヴァカン族は歓声を上げる。


カイイヤはソラへ駆け寄り、その身体を抱き上げた。


イノリアはイザウの元へ歩み寄り、彼を支えるように肩を抱く。


「……やったね」


「ああ……まだ信じられない。俺たちがサイリンを倒せたなんて……」


その時、ヴァカン族の船が悪魔船へ接近してきた。


「船を襲ってた悪魔どもは片付けたぞ! 何人かは海へ飛び込んで逃げたがな!」


ンドンドは弟のポポを見つけると、すぐに飛び降りて駆け寄った。


兄弟は強く抱き合う。


ポポが無事だったことに、ンドンドは心から安堵していた。


カールもまたクウェーの元へ駆け寄り、彼女を抱き締める。


もう二度と会えないと思っていた。


拷問で死ぬか、工場の奴隷として終わると覚悟していたのだ。


やがて夜が訪れる。


彼らは依然として海上を漂っていた。


負傷者の治療に加え、悪魔船から武器を回収していたからだ。


船内の箱からは五発もの核爆弾まで見つかった。


さらに悪魔たちの物資や備蓄も押収する。


その夜、彼らは料理を作り、勝利を祝って宴を開いた。


イザウは船縁で一人、夜空を見上げていた。


そこへイノリアが近づく。


「ほら、食べに行こうよ。みんなお肉をたくさん焼いてるわ」


「もう少ししたら行くよ。今は星を見てたんだ……綺麗だな。 この惑星じゃ環のある惑星がはっきり見える。距離が近いからだろうな……本当に不思議だ」


「ほんとね。インカの星空も綺麗だけど、ミランダの空はまた違った感じがする」


イノリアはそっとイザウの肩へ頭を預けた。


「ねえイザウ……さっき海に落ちた時、どうやってカイイヤに助けられたの?」


「よく覚えてない。でも……気絶したまま深海へ沈んでたらしい。そこへカイイヤが潜ってきて、雷で俺を叩き起こしたんだ。それから泳いで水面へ戻って、ヴァークで空へ跳びながら俺を運んでくれた」


「おいおい二人とも、いちゃついてないで飯にしようぜ!」


「カイイヤ!? だ、誰がいちゃついてるっていうのよ!」


イノリアは顔を赤くした。


イザウはカイイヤへ尋ねる。


「まだ海を漂ってるけど……これからどうする? 攫われた人たちは助けられた。港へ戻って送り届けるのか、それとも第二工場を攻めるのか? まだ助けなきゃならない人が大勢いる」


カイイヤはしばらく黙り込んだ。


「俺はお前の判断に従うよ、カイイヤ。正直……今の俺は万全じゃない。戦闘向きの状態でもないしな」


「私としては一度戻って皆を送り届けたい。だけど……ここまで来た以上、第二工場も近いんだ。私一人じゃ決められない」


「だったら俺たちは悪魔船を使って第二工場へ向かう。お前たちは皆を送り届けてくれ」


「イザウ、それは無茶よ」


イノリアが即座に反対する。


「黒星の悪魔第五位のサイリンを倒せたのだって、あれだけ大勢の力があったからよ。私たちだけで工場を襲うなんて……勝てる保証なんてない」


「イノリアの言う通りだ」


カイイヤも頷く。


「無茶はするな、イザウ。自分でも言ってただろ、今のお前は戦闘モードじゃないって」


「……じゃあどうする? 俺はお前の決断に従う、カイイヤ」


カイイヤは腕を組み、少し考え込んだ。


「そこまで言うなら――こうしよう。私と、腕の立つ部下を何人か連れて、お前たちと一緒に悪魔船で第二工場へ向かう。残りは捕虜たちを港へ送り届ける」


彼女は続ける。


「ただし、すぐには攻撃しない。まずは情報収集だ。そしてヴァカンの船が合流するのを待つ。船が到着してから……攻めるかどうかを改めて決めよう」


「それは悪くない案だな」


「まずは工場に黒星の悪魔がいるかどうか調べないとね。もし居なければ、攻撃はかなり楽になるはずよ」


イノリアがそう言った。


「そんなに簡単に考えるなよ、イノリア。前に悪魔の指揮官と戦った時を思い出せ……お前、攫われただろ?」


イザウは少し視線を落とす。


「……あれは俺の責任でもある。もっとお前を助けられなかった」


「違うわ、イザウ……それはあなたのせいじゃない」


「いや……」


イザウは首を横に振った。


「でも、もういいんだイノリア。今こうして、お前が俺の隣に戻ってきてくれた。それが一番大事だからな」


その言葉を聞いた瞬間、イノリアは視線を逸らした。


頬がほんのり赤く染まっている。

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