傾国の鉄宰 第五十六話 【幕間:足跡】〜
地平線の彼方まで人影一つない、圧倒的な静寂のなか眠るオーケン。
翌朝、朝露に濡れた草の匂いと共にオーケンは目を覚ました。
外套の上にボロ布を敷いただけの簡易な寝床から起き上がり、背伸びをする。大森林の外縁の川辺で討伐した鋸鰐の皮を剥いで作った外套。駆け出しの冒険者なら購入をためらう高級な魔獣の皮だが、オーケンにとっては頑丈で弾力があり敷物にもなる『便利な外套』に過ぎない。大森林のベッドのようにふかふかとはいかないが、鍛え抜かれた身体に疲れは一切残っていない。
朝食は、昨晩多めに作っておいたオーク肉と干し麦の粥もどきだ。冷えて固まりかけたそれを土竈の予熱で少し温め直し、手早く胃袋に収める。一人旅の朝は、美味いものを楽しむよりも確実にエネルギーを補給することの方が重要だと、森の守り人たちから教わっていた。
食事が終われば、すぐに片付けと出発の準備だ。この広大なレイティア平原は、見渡す限り草ばかりで燃料となる木が極めて希少だった。そのため、昨晩使った残り火の中から、まだ使えそうな薪の残りや炭を丁寧に取り出した。それらを無駄なく再利用するためだ。
オーケンは人差し指の先から、生活魔法でごくわずかに水を出した。パチパチと音を立てる炭に向けて、霧雨よりもさらに細かい、絶妙な量の水を振りかけて消火していく。本来、炭や薪に水をかけすぎると、芯まで水分が吸い込んでしまい、その日の夜に再び火を起こすときに苦労をすることになる。かといって少なすぎれば完全に消火できず、背嚢を焦がす大惨事になりかねない。
一滴単位で完璧な量の水を直接振りかけるこの魔力制御は、普通の魔法使いが見れば目玉がひっくり返るほど異常な技術だったのだが、オーケン自身にはその自覚は微塵もない。
商人を目指して中央大陸に旅立った友人には褒めそやされ、魔法の天才と言われた友人でさえ、オーケンの魔力制御は中々のものだと認めていたのだが「俺の友人たちは、身内びいきが過ぎる」と聞く耳を持たなかった。
(あいつらはいつも大袈裟んだ。これくらい、大森林の最奥に住むエルフたちはいつもやっているだろうに)
大森林は奥に進むほど精霊の影響が大きくなり、出現する魔獣も強力となる。必然的にそこに住まうエルフは実力者揃いだ。
エルフは長命種であり、皆が若く見えるが森の最奥に住むエルフ達は数百年を生きた長老衆か、ハイエルフに至った者たちだ。そのレベルの者たちが行使する魔法制御を、普通の基準とすること自体が大きな間違いになのだが、オーケンはそのことに気が付かない。無自覚な本人の意識はさておき、卓越した魔力制御で炭火は完璧に消火され、熱の引いた炭を器用に鍋の中に入れて背嚢にしまった。
そして世界の広さを一人占めするような、二日目の静かな旅路が始まった。
日が昇るにつれて、平原は容赦のない過酷な表情を覗かせ始める。わずかに湿気を帯びた風が草海を揺らし、遮るもののない太陽がじりじりと大地に照りつける。遮るものの無い陽光と、湿度を帯びた風は旅人たちの体力を奪う敵であった。
オーケンは外套のフードで陽光を遮りながら「あまり涼しくない風だな」とのんびり汗を拭い、弾けんばかりの肉体を包む皮鎧一枚で平然と歩き続ける。
歩けども歩けども、景色に大きな変化はない。耳に届くのは草を撫でる風の音と、己の足音だけ。世界にただ一人取り残されたかのような、淡い孤独感がそっと胸をよぎる。
視界を遮るもののない、変わり映えしない平原がどこまでも続いている。しかし、そこには圧倒的な広さがあった。詩人が言葉を尽くして讃えるような、特筆されるほどの分かりやすい美しさ――冒険譚に聞いた『輝くクリスタルの洞窟』や、一度だけ目にした大森林の奥で数年に一度咲き誇る『奇華――炎華』のようなものはない。ただ、見渡す限りの緑の海が風に波打ち、遮るもののない青空が地平線と溶け合う。その何でもない、されど広大な景色には、ただ独りで歩む者だけが味わうことができる、清々しい空気と静かな美しさが確かに存在していた。
オーケンは時折、風の歌を聴くように目を細めながら、ただ一歩一歩、旅の足跡を刻んでいく。一角兎の気配の察知にも慣れ、早めに距離を取って避けたため、戦闘になることもなく平和な時間が過ぎていった。
やがて、世界のすべてを染め上げるように、太陽が西の地平線へと大きく傾き始める。長い影が草海に伸び、平原が圧倒的な黄金色に包まれる頃、オーケンは街道沿いに野営に適した少し開けた場所を見つけた。
「……おや、これは……」
足元を見て、オーケンは小さく声を漏らした。
そこには、いつのものかは分からないが、先人が野営をした形跡が残されていた。黒く煤けた数個の石が円状に組まれ、草を踏み固めた凹みがわずかに残されていた。
ただそれだけの、過去の誰かの生活の痕跡。しかし、遮るもののない大平原の真ん中で、一人きりで孤独に街道を行くオーケンの心に、ぽっと温かな安堵の火が灯った。この荒涼とした危険な平原を、自分と同じように旅し、ここで夜を明かした人間が確かにいたのだという事実が、妙に嬉しかった。
「よし、先人に倣い、今夜はここで野営をしよう」
感情を抜きにしても、見知らぬ誰かの野営跡を見つけて夜を明かすことは、旅の理にかなっていた。
魔物や魔獣が跋扈するこの世界で野営をするということは、大変に危険なことである。野営の痕跡があり、且つ周辺に戦闘の形跡がなければ、それは先人が安全に夜を過ごすことができたという証明だ。何の形跡もないところで野営するよりもほんのわずかだが安全を担保できるということだ。
昨夜と同じく、完全に日が落ちて魔物たちの動きが活発になる前に、辺りに簡単な罠を仕掛ける。その後は手早く野営の準備を整える。生活魔法で土竈をつくり、風除けを作り、日中に移動の途中で見つけた太めの草の茎と、野営地周辺で拾い集めた僅かな乾燥草と、鍋の中にしまっておいた炭を組み合わせる。
そして生活魔法で小さな火を起こすと、夜の闇に浮かび上がるのは、昨日と全く変わらない、しかしどこか愛おしい孤独の風景だった。
オークの干し肉と干し麦のお粥もどきを火にかけた。パチパチと爆ぜる火を見つめながら、オーケンはスプーンを口に運ぶ。同じ味、同じ作業。しかし、時間を超えて見知らぬ誰かと同じ炎の温もりを分け合っているような、不思議な繋がりを感じる今夜は、昨日よりも少しだけ、スープが温かく、美味しく感じられるのだった。




