傾国の鉄宰 第五十四話 【幕間:オーケンの旅立ち】〜ロストジェネレーション
◇精霊王の大森林◇
地図にその名が載る事はない。この広大で、濃密な魔力に満ちた森は、選ばれた者のみが立ち入ることを許される聖域であった。
原初より、この森を守ってきたのはエルフ族や精霊だった。そのことに変化が起きたのは三百年以上も昔。西の大陸と呼ばれるこの大地の、更にその西端。人跡未踏の地と呼ばれたレイティア平原に突如として人間が現れてからだ。複数回に分かれて現れた者たちは、総勢数万人にも及んだ。
数万人もの人々を率いたのは、三人のリーダーだった。
一人は法と組織を整えて辺境に法治国家レイティア王国を建国、その初代国王となる。
一人はレイティア王国の国教となった西方精霊教の大主教となる。『寛容と慈愛の父』と呼ばれ、死して尚、大精霊に次ぐ信望を集めている。
最後の一人は、人々をレイティアの地に導き、『地の涯の大森林』からの恵みを得て王国建国の礎を築いた。その者は永く森に住まい、レイティア王国の執政顧問の地位にあり、森の自然を守り、同様に人々を守った。
この数百年で人族の間では『地の涯の大森林』は『エルフの大森林』へと呼び名を変えた。だが名前がいかに変わろうとも、森での営みは変わらず緩やかだった。
その大森林の出口、外界との境界線に、朝靄のなか一人の人物が立っていた。
レイティア王国建国の物語の一節を思い浮かべながら、佇む者の名はオーケン。精霊の気配が溢れる中、木々の息吹を聴きながら育った若者である。顔立ちは四大陸のどこにでもいそうな、ありふれた風貌だった。茶色の頭髪に彫りの深い顔立ち、目は細く、笑えば誰もが好感を抱くような眼差しだった。身長は1.8メルトにわずかに届かず王国では平均的な身長だ。ただ、よく鍛えられた身体は分厚く、身につけた皮の鎧が弾けんばかりに膨らんでいた。
「本当に、行ってしまうのかい? オーケン」
背後からかけられた声に振り返れば、そこにはレイティアの『生きる伝説』、五百年以上を生きるハイエルフの長が、静かに佇んでいた。
この地を統べる国の建国の祖や、西方精霊教の初代にして一代限りの大主教と並び称される、その最後の一人である彼女は、出会った頃と全く変わらない若々しい姿をしており、慈愛に満ちた眼差しでこちらを見ていた。オーケンは背負った簡素な荷袋を整え、少しだけ照れくさそうに笑いかけた。
「ええ。御祖母様には感謝しています。両親を亡くした俺を引き取ってくれて、おかげで何とか生きる術を学ぶことができました。このまま、この地でのんびりと生きようとも考えましたが……。やはり俺は外の世界を見てみたい。自分の力がどれくらい通用するのか、試してみたい。それ以上に他の文化に触れてみたいんです」
ハイエルフの長は、フッと小さく溜息をついた。その表情には、愛弟子を送り出す親心と、それ以上に『この世の理』を知る者ゆえの、言葉にできない心配が滲んでいる。
「通用するのか、……か。まあ、良いだろう。だが、一つだけ釘を刺しておく」
長は杖を地面に突き、真剣な眼光でオーケンを射抜いた。
「いいか、オーケン。レイティア王国の外の人間は、お前が思っている以上にずる賢く、残忍だ。そして森の外の人間はお前が考える以上に――驚くほど脆い。『守り人』との組手でじゃれ合っていた時の感覚で拳を振るえば、それだけで人が消し飛ぶぞ。……頼むから、誰も殺さぬよう、加減を忘れないでおくれよ?」
「はは、御祖母様は大袈裟ですよ。俺はただの力持ちの人間です。加減くらい、分かってますよ」
オーケンは苦笑いして手を振る。
その頭上、木の枝に腰かけていた一人の青年――かつて同じ孤児院で育ち、魔法の才を謳われた親友が、クスクスと笑いながら冷やかしの声を飛ばした。
「まったく。オーケン、お前のその『タフさ』は、もはや人間をやめてるんだからな。雷鹿の落雷に耐えて、ぶん投げたのは誰だっけ?火喰い鳥を投石で撃ち落としたのは誰だったっけ? 外の人間に『鼻先を突いただけ』で死なせるような真似は、本当に勘弁してくれよ」
「雷鹿はまだ子鹿だっただけさ。火喰い鳥だってたまたま猟に集中していたヤツに運よく石が当たった。あれは事故みたいなもんだろ!」
何を言っても自分の過小評価を変えない青年に、ハイエルフの長と魔法使いの親友は、顔を見合わせて深々と溜息をついた。
オーケンは最後まで「二人とも過保護だな」と笑っていた。自分がどれほどの化物に囲まれて育ち、どのような「普通」を叩き込まれてきたのか、この時の彼はまだ、何一つ理解していなかったのである。
「三、四十年したら一度帰ってくるつもりです」
「……外の世界で四十年も留守にするのは今生の別れなのだぞ。森を出て、さらにレイティア王国を出るなら言葉には気をつけることだ」
ハイエルフの長はさも心配だと言わんばかりに大げさなため息をつく。
「ハハハ。わかっています。でも二人とも四十年位じゃ死なないでしょう?もちろん俺もです」
オーケンの言葉に魔法使いの男が、木の枝からひらりと降り立つ。5メルトを優に越える高さからグリフォンの羽毛のように軽やかに舞い降りる所作は美しく、洗練されていた。
「確かにな。俺たち『成り損ね』でも二百年位は生きられるだろうからな」
「そういう事だ」
二人の言葉に長が語調を強める。
「自分たちのこと『成り損ね』などと、……冗談でもそんな自分を卑下するような言葉を言うものではありません」
「すみません」
「わかったよ」
少し不貞腐れたような二人の幼さに笑みを浮かべて、長は続けた。
「貴方たちは精霊にも、私にも愛された大切な子供たちなのだから」
「ありがとうございます」
「わかってるよ」
そうこうする間に東の地平に太陽が完全に姿を現す。朝日に照らされて、幼少期を両親と共に過ごした王都ユリスの街影が遠くに見える。
「そろそろ行くよ」
「気を付けてな」
「あぁ、またな」
森の境界を越え、一歩、外界の道を踏みしめる。
風が香った。それは森の清涼な空気とは違う、どこか埃っぽく、しかし多様な生活の匂いが混じり合う、未知の世界の予感だった。
「さて……まずは南の村へ向かおう」
背負った大剣の重みさえ感じない足取りで、オーケンは暢気に歩き出す。




