傾国の鉄宰 第五十三話 【滅びの街と老人と】 〜ロストジェネレーションって何だ!〜
二人の邂逅は、あまりにも両極端な対峙から始まった。
ザハートの放つ圧倒的な威圧感を前にしながらも、ケインは臆する風もなく、ただいつも通りの穏やかな微笑を浮かべて佇んでいる。
その驚くべき覇気はケインだけに向けられていた。他の者がまともに受ければ、立っていられるのは、オーケンやシモーヌのような一握りの手練れのみだろう。
それを正面から浴びてなお涼しげに微笑むケイン――傍目には、若き天才が底知れぬ器を見せつけているように映っていた。
だが、実際のケインの思考は、驚きと戸惑いが大半を占めていた。
『……あの、僕どうしちゃったんでしょう。帝都で引き篭もっていた頃の僕なら、こんな圧力浴びたらその場で気絶してますよ』
(まあ、毒盛られて三途の川の縁に立ったり、脳内に見知らぬおっさんを二人も住まわせる羽目になったり、あの鬼教官達に文字通りしごき倒されたりしてたからねぇ。感覚が麻痺しちゃったんじゃない?)
〈おそらく闇の精霊をその身に宿した影響も大きいだろうな。私も英霊級の力を持つと神も言っていたし、その影響かも知れん。魂の年季の違いだな〉
(ちょっと、次郎さん。サラッと俺をのけ者にして自分だけ『おっさん枠』から離脱しました? 脳内居候枠の中で格差社会を作るのはやめてもらえますか? モブですか? モブなんですか俺は?)
〈モブが何かは知らんが軽い冗談だ。イングランド・ジョークというやつだ〉
(あぁ〜! 海外留学マウントだぁ)
『……はぁ』
威圧感の出どころである目の前の老人そっちのけで、得意げに声を張る次郎と、涙目で不貞腐れる裕翔。緊迫感の欠片もない脳内のやり取りを聞かされているうちに、呆気にとられたケインの緊張は完全に消え去り、すっかり腹の底が落ち着いてしまっていた。
「初めまして。ケインと申します。この街には昨日到着したばかりで、右も左も分かりませんが……だからこそ、今後は色々と相談に乗っていただければ助かります」
「ほう……。初対面の、それも高圧的なスラムの老骨相手に『相談に乗れ』とは、ずいぶんと不思議なことを言うご子息だな」
互いに面識はないはずだった。しかし、言葉の端々から漂うのは、互いの『正体』をとうに見抜いた上で、あえて足元を探り合うかのような奇妙な確信。
その張り詰めたやり取りに、シモーヌやオーケンたちはもちろん、一行を連れてきたはずのシャハムやミナまでもが戸惑いの視線を交わし合う。
ケインはふっと視線を落とし、周囲の美しい赤褐色の家屋、そしてそこで身を寄せ合う子供たちへと目を向け、小さく息を吐いた。
「これほど整然とした素晴らしい集落を築き上げ、統治機構を機能させている手腕には、心からの賛辞を。……ですがザハートさん、やはりここは致命的に歪な街です。長くは持ちませんよ」
その言葉に、これまでケインたちとのやり取りを兄シャハムに任せて、押し黙っていたミナが我慢の限界を迎えたように声を荒らげた。
「……ねえ! 余所者のガキが、あたいたちの街にケチつけんじゃないわよ! あんたに何が分かるっていうのさ!」
「ケチをつけているわけではありません。見過ごせない事実を指摘しているだけです。……オーケンさん、長年衛士を務めてきた、あなたの目から見て、この広場の雰囲気はどうですか? 何か気になることはありませんか?」
ケインはミナの刺すような殺気を真っ向から受けながらも、淡々と、残酷な現実を解き明かすべくオーケンに話を振った。
唐突に指名されたオーケンは、それまでの温厚な風体から一変して表情を鋭く尖らせ、値踏みするようにぐるりと周囲を見回した。
「そうですなぁ……住人の比率が、あまりにも歪なのが気に掛かります。大人の男が極端に少ない。女性は男のおよそ倍ほどですが、一番の問題は子供の多さだ。大人の十倍以上――ざっと見ても、大人一人の拠り所に子供が三十人はいる。これでは外敵への防衛は元より、内部の治安維持すら抑えきれない。もし子供たちが徒党を組んで犯罪グループ化でもしたら、今の平穏など一溜まりもないでしょう」
「なっ……」
自分たちよりも遥かに歳若く、保護している子供たちと同年代の若造。
事情を知らない余所者の言葉には感情的に反発したシャハムたちだったが、元衛士であるというオーケンの重みのある指摘には、返す言葉を失うしかなかった。穏やかな雰囲気の奥に熟達の戦士やベテラン冒険者の片鱗を覗かせる、真に修羅場をくぐってきた男の言葉だと本能が認めたからだ。
〈ケイン少年も人を上手く使うようになったものだ〉
(立派な策士に育って、おじさんは嬉しいよ)
『……』
囃し立てる脳内の二人の言葉を黙殺して、ケインはさらに深く切り込んでいく。
「オーケンさんの言う通りです。この異常な人口の偏り、そして行き届いた集落の構造を見て確信しました。サクヤの街が『三番手以降の子供』を見捨てる政策に舵を切ったその直後から、皆さんが十数年もの歳月をかけて、少しずつ計画的に積み上げて形作ってきたのがこの場所なのですね。
そして、その十年を掛けて積み上げてきた仕組みが崩壊しようとしている――その気配を感じているのではありませんか?原因は、子供たちの年齢が、十歳から十五歳前後の『同世代』に極端に固まっている『歪さ』です」
ケインは、冒険者として世界を見て回ってきたリュカに視線を向けた。
「リュカさん。今日半日サクヤの街を巡ってみて、何か気づかれたことはありませんでしたか?」
「えっ、あっしですか?……」
リュカは戸惑いながらも、今日の記憶をたどって苦い表情を浮かべた。
「一見華やかに栄えて見えやすが、工房や鍛冶屋なんかの『もの造り』に関わる場所が妙に偏っている気がしやしたね。品質はいいんでしょうが高価なものを作る工房ばかりで、こういった辺境の街が当然自前で用意するような雑貨や刃物の工房が見当たらないんです。外から運ばれてくる交易品で賄うためか、物価もやたらと高い。それと……中町や繁華街にいる、ここにいる連中と同年代の少年少女たちのことです。あいつら、数えるほどしかいない幼児たちに対して、妙にビクビクと気を遣いながら生活してやした。まるで『自分たちの立場を守るため』とでも言いたげな、卑屈で、どこか怯えたような気遣い。あの歳の子供が持つはずのない、諦めきった濁った目が、どうにも頭から離れやせん……」
冒険者と、それ以外の経験も豊富なリュカは、他の黎明の盾が気づかない、細かく、薄暗い、暗部にも視線が届く。黎明の盾が瞬く間にBランク冒険者に躍り出た一因は間違いなくリュカの観察眼だろう。
〈貿易都市と、貿易に偏りすぎた貿易偏重都市では、全く話が違うからな。前者は自立した経済の拠点だが、後者はただの依存体質に過ぎん。……これのどこが『国境の宝石』なんだ?かつてはそうだったのか?新しい変革を拒み、痛みを伴う改革から目を背けた大人たちの『不作為のツケ』で宝石はガラス玉にすり替わり、凋落を認められない大人たちは、そのつけを何一つ罪のない子供たちだけに支払わせている。ここは、己が原則を持たない大人たちの身勝手な利権競争の犠牲になった、奪われた世代の姥捨山ならぬ、稚児捨山だ〉
脳内に響く次郎の冷徹な断定を受け止め、ケインは自身の思考を言葉に紡ぎ直す。
「スラムに落とされた子供たちからすれば、運よく街に残れた兄姉へ恨みや嫉みを抱くのは当然でしょう。では、街に残された側の彼らは幸せなのでしょうか? 弟や妹、友達や、その弟妹、多くの子供がスラムへと捨てられる。その情景を目の当たりにした彼らの心底にある感情は何でしょうか?それは生まれた時から、大人たちの都合で『お前たちは余剰品だ』『いずれ排除するかも知れない』と存在を否定され続けてきた恐怖です。その目の前で急激な少子化が始まり『貴重な跡取り』として優遇される幼児たち。自分たちはあくまで『中継ぎ』に過ぎず、幼児たちの機嫌を損なえば末路は弟妹と同じ、スラム行きです。決まってもいないその未来に怯え、卑屈に擦り寄るしか彼らは生きる術を知らないのです」
ケインは上着の裾を掴み続けるリムへと視線を向けた。
「リムがスラムの入り口に打ち捨てられた時、身ぐるみを剥がそうと、ゴブリンのような濁った目をした十四、五歳の子供たちが周囲にいました。ザハートさん。あなたが街中に『行き倒れを装った』監視役を配置しているのは、外部への警戒のためだけではないはずだ。すでに一部の子供たちがあなたの制御下から離れつつある。彼らが暴発しないよう、内側に圧力を掛ける目的もあったのではないですか?」
ザハートは何も答えず、ただ目を伏せた。
ケインはさらに、この街の奇妙な流通についても言及する。
「この街の店先に並ぶものは、ほとんどが高価な交易品です。ですが、街外れの小さな露店では、鮮度の良い葉物野菜や雑貨が廉価に売られていた。そして、それと同じものを先ほど、この集落で見掛けました」
「あぁ……」
シモーヌがハッとしたように呟く。
「ケイン様をじっと見つめていたあの店主たちですか。愛おしむような、後ろ暗いような、特徴的な表情をされていたので、よく覚えております」
「同じ街に住みながら離れ離れに引き裂かれた、我が子を思っていたのかも知れないね。ああいう協力者を通じて、なんとか食料や物資、街との繋がりを得ているとしたら、よくぞここまで堪え忍ばれたものです」
ケインの脳内で、懐かしむような、後悔するような裕翔の呟きが漏れた。
(氷河期世代なんて言葉を作って、俺たちを十把一絡にして、国や社会に見捨てられたけれど。――親兄弟や近所の爺さん婆さん、友達の家族なんかが面倒を見てくれていたよ。夜の公園でたむろする俺たちに『早く帰りなさい』と声を掛けてくれた友達の母親。平日不在の父親の代わりに兄弟喧嘩を止めに来てくれた土建屋のおじさん……大変でも、辛くても、地域の人に育てられた俺たちは不幸じゃなかった。……そのことに気付くには、ここの子どもたちは、まだ若過ぎるね)
裕翔の言葉は十二年しか生きていないはずのケインの心に不思議と溶け込み、自然と次の言葉が思い浮かんだ。
「本来なら、ここでの生活を顧みた時、多くの子供たちが幸福感と感謝の念を抱くはずです」
すると、これまで沈黙を守っていたエルが、静かに声を上げた。
「幸福な思い出は大切です。苦しい時、辛い時に背中を押してくれますから。……『本来なら』と言うからには、その思い出は踏みにじられるのですか?」
珍しく自分に話し掛けてくる、エルにケインは頷き返し、残酷な方程式を提示した。
「返す返すも口にしていますが、問題の根本は、受け入れてきた子供たちの年代が固まっている『歪さ』にあります。そしてこれからスラムに訪れる大人不足による思春期の子供たちの感情の発露と、圧倒的な人口増加による資源や供給源の枯渇です」
「学のないあたいでも分かるように言ってよ!スラムに住むあたいたちに、一体何が出来るって言うのよ!」
ミナが声を震わせながら食い下がる。その折れそうで折れない強い思いを、ケインは真っ向から受け止めた。
「何が出来るか、それを決めるために『本当の敵』が誰なのかを見つめ直すんです。お二人は、今のこの街の状況をどう思われますか?」
「「えっ?」」
シャハムとミナの戸惑いの声が綺麗に重なる。
『おそらく仲の良い兄妹なんでしょうね』
兄妹と一緒にいられない自らの境遇と対比して少しだけ羨ましく思いながらも、ケインはそれを口にはせず、二人の答えを静かに待つ。
二人は顔を見合わせ、この街の現状を再確認する。泥をすすりながらも、守り抱き留めてきた子供たちの姿を思い浮かべた。高尚な戦略は持ち合わせていない。だが、誰よりも彼らに寄り添ってきた二人だからこそ、肌で感じ取っている実感がそこにはあった。
「……難しい言葉はわからないよ」
ミナが、ぎゅっと自分の拳を握りしめ、痛みを堪えるように呟いた。
「でも、あの子たちの心が……どんどんあたい達の手から離れて、暗いところに落ちていってるのは嫌ってほど分かってるさ。十二や十三になった男の子たちは、最近あたいの言うことを聞かなくなってきた。昔は『お腹すいた』って泣いてただけの泣き虫が……、少し大きくなって『お腹すいた』って泣くチビたちに自分の飯を分け与えていた優しい子たちが……今は街の連中を、自分より弱い者を獲物として狙うような憎悪の目で睨みつけてる。体がでかくなるたびに、心の中のトゲトゲした危うい部分がどんどん膨らんでいくんだ。ちょっと突つかれただけで、誰かを殺すか、自分が死ぬまで暴走しちまいそうな……そんな壊れそうな危うさを、あたいは毎日見てるんだよ」
ミナの言葉に、隣に立つシャハムの表情が苦痛に歪む。
「……俺たちの本当の敵が街の上層部の連中なのは決まっている。だが、今の俺たちが外の街と揉め事を起こせば、真っ先に暴発するのはあいつらだ。思春期の、力を持て余したガキどもは、大人の命令なんて忘れて、憎しみのままに最前線に飛び出していくだろう。本当の敵と戦う前に、俺たちは身内の『暴発』に足元を崩されそうだ。……クソッ、これが俺たちの直面した、今の状況だ。『遊んで』って、俺のケツについて回っていたあいつらと。夜寂しくて『姉ちゃん』って泣いてたあいつらと。褒めて貰いたくて爺さんの手伝いを買って出たあいつらと……もっと真正面から向き合えていれば。あいつと殴り合いの喧嘩が出来ていれば……、信頼関係が築けていれば……クソッ」
無機質な敷石を見つめうなだれる二人。
ケインは静かに頷く。
「元々、人口増加に対して街を発展させる努力を放棄した大人たちが、食い扶持と自らの既得権益を守るために特定の世代をまるごと『調整弁』として切り捨てた。それこそがサクヤの街で行われている冷酷な間引きです……。
不要とされた世代が年々、スラムで増えていく。必要とする食料や物資が年々増加するのに、大人は増えない。増えない大人で食料や物資を賄うために、大人は無理をして、子供たちと向き合う時間がなくなる。スラムの人間で支えられる限界を超えつつある深刻な『若年層の爆発的増加』が秩序を崩壊させるのも時間の問題です。大人との生活時間が短い子供は成熟した価値観を持たないまま大人になってしまいます。閉ざされた子供たちの世界では抑制する者は弱く、突き進む者が強いという歪な価値観が生まれます。集団になると、その特徴は顕著で、短絡的で暴力的な行動を頻発させます。そうなれば必ず、サクヤの街そのものと全面衝突することになります。まぁ、このまま何もせずに突き進めばの話ですが――よかった。まだ間に合います」
「「えっ?」」
再び声が揃う兄妹。
『絶対、兄妹仲がいいな』
シャハムとミナの反応を見ながらも、そのことには触れず、さらに問い掛ける。
「ミナさん。この街で最も人口の多い、この世代の子供たちが、一斉に成人に達する頃には何が起こると思いますか」
ミナは集落や広場に溢れる子供たちを見つめ口を開く。
「……食料難が起こるわね。その年齢の子たちは、一番ご飯を食べるわ。それなのに、彼らはまだ大人のように働いて生産することはできない……」
「その通りです。つけ足すなら働く場所も足りません。喫緊の課題は食料と資材の圧倒的な不足。労働の中核になるには力も経験も不足していて、力を生かす場所もない。しかし消費だけは一人前の世代が急増する。三番手以降が成人になるピークは数年後です。このまま彼らが一斉に成人を迎えた時、限られた身内の交易や街角で作る露地野菜だけで、彼らの食い扶持を支えきれるわけがない」
「黙って聞いてりゃあ、好き勝手言いやがって!!」
シャハムが激昂し、ケインの胸ぐらを掴もうと詰め寄るがシモーヌとオーケンに阻まれる。拳を握りこんだままシャハムが叫ぶ。
「今日、ふらっと立ち寄ったようなお前が何を偉そうに能書きを垂れやがる!俺たちの苦労を見聞きして、笑いに来たのか!?」
「シャハム、下がりなさい」
ザハートの、高齢とは思えない低く重い声が広場を圧した。シャハムは歯噛みしながらも、拳を引く。
老人は深く、深くため息をつき、その背をさらに丸めた
。
「……続けなされ、ケイン殿。貴方の言う通りじゃ。そうなることを何とか防げぬかと、年長の子らを鍛え、文字や学問を教えてはいるのじゃが……いかんせん子供たちの人数が多く、抱えておる事情も千差万別じゃからのぅ。スラムの大人だけでは荷が重すぎるのが、悲しいかな現実じゃ。しかし……物資の限界、人口の歪み、すべて君の言う通り、素晴らしい分析じゃの。じゃが分析だけではないのじゃろう?この街で生きるほぼ全ての大人はシャハムやミナも含めて、儂の大事な仲間じゃ。もしこのまま分析官気取りで話を終えるような愚弄があれば、生きて街を出られるなどという幸せな夢は描かぬことじゃ」
小さく丸まった老人からわずかな覇気が漏れ出る。それは出会ってすぐに放たれた圧倒的な威圧感には遠く及ばず、先ほどと変わらずケインは臆する風もなく、ただいつも通りの穏やかな微笑を浮かべていられるはずだったのだが。
「クッ」
急に息苦しくなりケインの口から思わず声が漏れ出た。
次の瞬間脇に控えたオーケンが小さく息を吐く、それだけでケインの呼吸は楽になった。息を吐きながら前を見ると、シモーヌが、いつ抜刀したかもわからない速さで剣先をザハートに向けていた。
「「爺さんっ!」」
殺気立つシャハムとミナを手で制しながら老人は笑った。
「儂の『練気』に膝を屈しない子供がおるとは驚きじゃて」
「『練気』ですか?」
「そうじゃ。簡単に言えば覇気を一箇所に集束して、相手に打ち込む技じゃ。呼吸を一瞬止めたり、視野や聴覚を一瞬歪ませたりする。下らん小技じゃ」
「爺さん余計なことを教えるんじゃねぇよ」
シャハムが呆れる。
「無礼を働いたのは儂じゃ。これぐらいの種明かしは仕方なかろう。」
そう言うと老人はゆっくりと、石の椅子から腰を上げた。大きく呼吸をして全身捻じるように動かす。それだけで丸まった身体は広がり大きくなる。ボロを纏ってなお、戦士としての巨大な背中を子供たちが暮らす集落に向けて、老人はケインの瞳を真っ直ぐに見据え、おもむろにその名を呼んだ。
「ケイン君。君の名前はケイン・ハイデル――竜騎将タリム・エレ・ハイデル子爵閣下のご子息だね?」
ドクン、と周囲の空気が跳ね上がった。
「え……?」
「ハイデル子爵……って、あの帝国の英雄の……!?」
シャハムとミナが、そしてケインの服を掴んでいたリムが、信じられないものを見る目でケインを見つめる。それが本当ならば帝国の最高戦力の一角、その英雄の血を引く少年がなぜここにいるのか。衝撃が一同を駆け巡る。
しかし、ケインは自分の素性を暴かれてもなお、眉一つ動かさなかった。
周囲の詮索の視線や、シモーヌたちの緊張が一段落するのを待つように一呼吸置くと、今度はケインが、その涼やかな瞳を老人の顔へと向けた。
「流石です、ザハートさん。……僕からも、一つお伺いしてよろしいですか?」
ケインは一歩、老人へと歩み寄る。
「大戦時には帝国軍の東部戦線の先鋒を担い、戦場を烈風のごとく駆け抜けた猛将。その後もサクヤの街に留まり続け、駐留軍を率いて東部辺境に平穏を齎した不世出の知将……」
「もう、その辺でいいじゃろう。真の英雄タリム殿の子息に、そこまで褒められては体中がむず痒くなるわい」
ザハートは左手で顔を覆い、 右手で背中を掻く所作を見せる。
「やはり……不当な罪を着せられ、数年前に爵位を剥奪されて行方知れずになったと聞いていましたが……」
ケインの口元が、静かに弧を描く。
「やはり、あなたがあの、ザハート・ウル・グランツ男爵ですね?」
――ッ!?
今度は、シモーヌ、オーケン、リュカ、そしてリムの息が上ずる。
かつて帝国の歴史にその名を刻み、突然表舞台から姿を消した知勇兼備の将。そんな大物が、このスラムの子供たちに木剣を作って微笑んでいた好々爺だというのか。あまりの衝撃の連続に、周囲は完全に言葉を失う。
ただ一人、静かに周りを警戒しているエルだけは、その素性を最初から知っていたかのように、微動だにせず無言を貫いていた。
「カッカッカ……! よもや、こんな薄汚れた溝鼠の真の名を、ハイデル家の子息に呼ばれる日が来ようとはな」
ザハートは天を仰いで豪快に笑った。
その笑い声は、先ほどまでの好々爺のものでも、背中を丸めた老人のものでもなかった。
「待てば海路の日和あり……じゃな。これは──もしかしたら、子供たちを救うどころか、あの業突く張りを打倒する機会もあるやも知れんな」
そう言ったザハートの濁りのない眼光が、まっすぐにケインを射抜く。広場を包む空気は完全に一変し、かつて数多の命を率いた「将」の風格が、静かに、だが圧倒的な質量を持ってそこに顕現していた。




