傾国の鉄宰 第五十話 【寝そべる兵士】 〜ロストジェネレーションって何だ!〜
オーケンは、周囲の張り詰めた空気から逃れるように、大きな通りからわずかに外れた、崩れかけた赤茶色の漆喰の壁際へと一同を誘導した。若き主の安全を第一に確保しながら、声を潜める。
「どうしたんだい、オーケン」
不思議そうに小首を傾げるケイン。その純粋な瞳を見つめ返し、オーケンは胸中で我が主の発言の真意を掴みかねずにいた。
(ケイン様の先ほどの発言は、ただ街の惨状を嘆いただけなのか? 無意識にか、あるいは直感的にか、この街の『最も異常な部分』を見抜いておられたのではないのか……)
先ほどのケインの声によって、オーケンの脳内でバラバラだった違和感が、カチリと音を立てて噛み合っていた。
──どこを見渡しても、必ず二人か三人が道端に横たわっている。
裏を返せば、行き倒れが一人もいない空白地帯もなければ、四人以上が固まっている場所も見当たらない。
スラムの住人が行き倒れるのに、これほど都合よく『等間隔』になるわけがないのだ。まるで、街全体に死角を作らないよう、精密に計算された周辺警戒の陣形のように。
さらにオーケンは、先ほど通り過ぎた道端で無気力に寝そべっていた男たちの姿を思い返した。
虚ろで定まらないように見えたその視線も、もしや周辺を広く俯瞰する『全周視』なのだとすれば、専門的な訓練を受けた者のそれだ。
ボロ切れのような服、泥に汚れた肌。一見すれば、ただの行き倒れだ。だが、注意深くその輪郭を追えば、服の破れ目から覗く四肢、だらしなく投げ出された足の運び──そのどれもが、飢えに喘ぐ者のそれではない。
(……間違いない。あの者たちは皆、一様に鍛え抜かれた肉体をしている)
どれほど生気のない目を演じていようと、皮膚の下にある筋肉の付き方までは隠せていない。いつでも地を蹴り、得物を引き抜けるプロの体躯だ。
(路端に寝ている者たちが、この街の治安を維持するための『兵士』だとしたら……)
背筋に冷たいものが走ると同時に、全ての謎が氷解した。
この街には、確かに犯罪の匂いが満ちている。暴力の衝動も、ギラついた害意も、そこかしこに転がっている。だが、誰一人としてケイン一行に一線を越えて踏み込んでこない。些細な小競り合いや略奪はあっても、無秩序な殺しや悲惨な暴行、致命的な強奪へと発展しないのは――一線を越えようとした瞬間、道端の『行き倒れ』たちが、音もなくその牙を剥くからなのだろう。
スラムの皮を被ってはいるが、サクヤの街の最下層は確かに統治された場所なのだ。
自分たちは、そんな姿の見えない何者かの膝元へと、熟考もせずに歩を進めていたのだ。
オーケンは小さく息を吐き出し、静かに、しかし確かな緊張を込めてケインに告げた。
「ケイン様。先ほどのお言葉通り、この街で寝そべっている者たち……あれは、ただの行き倒れではありません」
オーケンがその私見を述べる間、あたりは沈黙に包まれた。普段なら軽口を叩くリュカでさえ、周囲の警戒に徹してオーケンの話に耳をそば立てていた。
話が進めば進むほど、シモーヌ、リュカ、エルは信じられないという表情を浮かべ、案内人の少年リムもその異様な雰囲気に呑まれて固唾をのんでいる。
そんな現実の沈黙の中、ケインは驚きを胸に秘めながら、脳内で密かに思考を巡らせていた。
『どこを見ても横たわっている人が多いなって思っただけなんですけど……大変な事実に行き当たったようですね』
(返す返すもオーケンさんって何者なんだろう? 一衛士の知識や観察眼では収まらないよね)
裕翔の思考は、サクヤの街に入ってから圧倒的な異才を放ち続ける元衛士へと向けられていた。その疑問に応じるように、ケインが思考の海で声をあげる。
『確かにそうですね。ウカジ防衛隊長からの身上書には、十年以上前に冒険者としてセブルスに現れ、兵士に志願入隊したと書かれていましたが……とても一衛士の観察眼とは思えません』
さらに、もう一つの冷徹な次郎の声がそこに重なった。
〈確かに興味深い人材だが、目の前の出来事こそが今は重要だろう。徹底した監視と重犯罪に特化した統制。犯罪の温床であるスラムを、浮浪者に擬態させた兵士によって制御している……といったところか〉
二人の深い分析を聞きながら、ケインはかつて家族と自分を守るために自ら詰め込んだ知識の記憶を必死に手繰り寄せる。
『これ、昔、父の書斎で読んだ本に出てきた占領統治のやり方に似ています』
〈占領統治論……か。この世界にもそういった理論が存在するのだな〉
次郎が感心したように呟くが、ケインの困惑は深まるばかりだった。
『ですが、一体誰が、何のために、いつから仕掛けたのか……僕には分からないことだらけです』
焦るケインの思考を、裕翔が優しく引き継ぐ。
(『誰が』はまだ分からないよ、ケイン君。判断材料が足りないのに、無理に答えを出そうとするのはやめよう)
〈そういう事だ〉
次郎が裕翔に同意するように言葉を重ねる。
〈『何のため』かは、スラムの最低限の治安を維持して、街の混乱を最小限に抑えるためだろう。『いつから』も正確にはわからんが、現状これほど見事に効果を発揮し、住人との致命的な軋轢もなさそうだ。一朝一夕でこの形は作れない。少なくとも数年は経過しているだろうな〉
『数年ですか……。そこまでの時間をかけるからには、副代官など、街の上層にいる人間が関与しているのでしょうか?』
わずか十歳にして二人の見解を即座に理解し、的確な疑問を提示するケイン。裕翔はその驚異的な知力に舌を巻きながらも、同時に答えを急いでしまう少年の幼さを、どこか微笑ましく思っていた。
(街の上層階級の関与は、俺は考えづらいかな。街の分断の深刻化を避けるための、短期的な応急措置としてならあり得るけど……次郎さんの言う通り、現状の統治になってから数年は経っていると俺も思う。もし、長期的に今の形を上が主導しているなら、もっと……)
〈――民生や経済の再生、あるいは新たな産業の創出が行われて然るべきだ〉
次郎が裕翔の思考の先を鋭く紡ぐ。
〈私ならインフラの復旧や食糧供給を最優先する。生活が安定すれば、住民の不満や暴動そのものが減少するからな。それがないということは、上層部は関わっていないか、関われない理由がある〉
(それにね、あの横たわっている人たちが兵士だとするなら、あまりに街に馴染み過ぎているんだ。今の形が完成する前から、スラムの住民たちと顔馴染みだった――つまり、地元の人間と考えた方がしっくりくるよね)
裕翔と次郎は構造的な統治や治安維持の話を続けているが、ケインには最初からどうしても引っかかっている単純な疑問があった。
『……あの、僕にはどうしても分からないんです。街中に兵士をわざわざ「寝そべらせて」配置する意味が――僕には分かりません』
〈それはケイン少年、君の疑問が正しい〉
次郎の厳格な声が頷く。
〈普通に考えればデメリットしかない。敵襲に対して初動は遅くなるし、立位で監視するよりも視野は圧倒的に狭くなる。衛生面でも問題はあるが……それはある程度解消されているようだがな。何にせよ、兵士を寝そべらせて監視をさせるなど、常道からかけ離れた歪な運用だ〉
(普通に考えれば、こんなやり方で街の平穏を維持することなんてできないよね。でも、実際にはこのスラムは最低限の形を保っている。ということは、そこには俺たちの見落としている『何かが』があるはずなんだ)
裕翔の含みを持たせた言葉が、ケインの胸を突く。
『何があるんでしょうか? 僕は何かを見落としているんでしょうか?』
(今日ここを訪れたばかりの俺たちに見えることなんて、たかが知れてるよ。でもね、見方を変えることはできるかもしれない。例えば……あの寝そべっている兵士たちが監視しているのは、スラムの人間じゃなくて『外部の人間』だとしたら?)
『外部の人間、ですか?』
(そう。さっきの商家の男みたいに中町や繁華街からやってくる傲慢な奴らや、スラムの様子を偵察しに来る上層部の息のかかった人間を警戒している。つまり、彼らは中を監視しているんじゃない。外部から訪れる者にスラムの本当の姿を見せないため、あるいはカモフラージュの準備を円滑に行うために配備されているんじゃないかな)
裕翔のその推測は、絡み合った糸を解きほぐすように、この歪な街の構造を急速に白日の下にさらしていく。
(スラム街の人々の不平や反感を、自分たちも含めて全体を支配する目の前の『行き倒れ(兵士)』に向かせるのではなく、上手くサクヤの街の上層階級へ向けさせる……。その手口は実に巧妙だよ。一見するとデメリットだらけに思える配置だけど、これならスラムの住民たちに『常に兵士に監視されている』という余計なストレスを与えない。それどころか、同じ泥にまみれて横たわる彼らを、住民たちは『自分たちの仲間』だと無意識に認識する。それはスラムの住民と兵士の間に、圧倒的な連帯感を持たせたと思うんだ)
そこまで思考を深めたとき、裕翔の推論は、この奇妙なシステムの「核心」へと到達した。
(そうなると、地元出身者が主戦力であろうこの街で、これほど高度な指示を出すことができる存在は、極めて限られてくる。これだけの仕組みを裏で動かせる立場にあり、なおかつ、政治や軍政に圧倒的に明るい人物――)
「あ……!」
裕翔の思考の奔流がその結論に触れた瞬間、ケインは現実の肉体で、思わず小さく息を呑んだ。
バラバラだったパズルのピースが、一気に一つの形を成していく。
――立場があり、政治と軍政に通じ、そして、かつてのサクヤの街を知る者。
ケインの脳裏に、セブルスを発つ直前の記憶が鮮烈に蘇る。代官ギリムと、防衛隊長ウカジ。信頼できる二人の重鎮から、周囲に厳重な人払いを設けた上で、重々しく手渡された「ある人物」に関する秘匿上申書。
そこに記されていた名前と、裕翔の推測した人物像が、今、完全に一致した。
ケインが深い沈黙から意識を現実へと戻すと、じっと自分を見守っていたオーケンを見上げ、声を掛けた。
「ありがとう、オーケン。おかげでこの街でやるべきことが少し見えてきたよ。……街の最奥は、どっちかな?」
「……」
しかし、オーケンは主の問いに答える代わりに、大通り沿いにある、崩れた外壁の隙間へと鋭い視線を走らせた。
その刹那、いつの間にかシモーヌが細剣の柄に手をかけ、ケインを背後から庇うように踏み出す。すかさずオーケンが前衛に立ち、シモーヌ、ケインが縦の陣形を作る。リムはケインの背後で縮こまっている。その左右を固めるように、リュカとエルも少し距離を取って武器に手をかけた。
ケインがまだその気配を察知しきれないうちに、漆喰の影から、静かに二つの人影が滑り出てくる。
「――そこまでにしてもらおうか、余所者」




