傾国の鉄宰 第四十九話 【気付き】 〜ロストジェネレーションって何だ!〜
ケインたちは下町からスラムの入り口へと足を進めていた。
一歩足を踏み入れるごとに、周囲の空気は目に見えて澱んでいく。だが、ケインの表情に焦りはなかった。
途中、下町の路地裏に打ち捨てられた少年リムを保護したために予定は大きく変わり、下町の入り口からさらにその奥、サクヤの街の最下層に向かうことになってしまった。
ケインたちは表向き、リムを保護してスラムを巡る迷子を装いながら、あえて行き止まりや廃墟へと足を向けていた。迷走を装う彼らの本当の目的は、先ほどケインが看破した「不自然な平穏」の正体――ゴミ捨て場や死体置き場、あるいはそれに類する秘密の場所を探し出すことだった。
実際に歩いてみても、やはりケインの直感通りだった。崩壊しかけた建物が並ぶ過酷な環境であるはずなのに、排泄物の腐臭や、行き倒れの死臭が奇妙なほどに漂ってこない。
シモーヌは常に襲撃の危険性を指摘していたが、実際に敵が襲いかかってくることはなく、表面的には平穏な時間が過ぎていく。だが、その裏では常に剣呑な気配が満ちていた。護衛たちが思わず身構える場面も何度かあったが、敵地に乗り込んでいる自覚のあるオーケンたちは、ことさらに騒ぎ立てることはしなかった。
ケインは環境としての異常さにはいち早く気づき、その謎を追っていた。しかし、戦闘訓練や魔法の鍛錬を欠かさず積み上げてきたものの、実戦における「戦術的な伏兵の配置」や「軍事的な包囲網」といった修羅場の経験だけは決定的に足りていない。そのため、この静けさの裏にある「もう一つの決定的な異常」にまでは、完全には思い至れずにいた。ただ「危険な町、雰囲気の悪い町」として、他の街にも存在する貧民街と変わらないと思索にふけっていたのだ。
ましてや、何の訓練も受けていないごく普通の少年であるリムからすれば、想像していた「危険で汚い悪の巣窟」とは異なる静けさに、むしろ肩透かしを食らったような感覚を覚えていた。
「ケイン様……本当にここは貧民街なの?僕が聞いていたスラムは、もっとこう、血なまぐさくて、いつ刺されてもおかしくない場所なんだけど……なんだか静かすぎて不気味です」
リムが不安げに、しかし不思議そうに声を潜める。
「うん、僕も変だと思っているんだ。リム、君のその直感はとても正しいよ。何かがこの街を歪めているんだ」
ケインは優しく微笑みながらリムの頭を撫で、再び周囲の観察へと視線を戻した。
そんな中、ケインの前を歩くオーケンはある可能性に思い至った。
◇オーケンside◇
ギラついた視線。それはどこの国のスラムを通っても、投げつけてくる者たちはいた。その後に害意を持って行動を起こす者たちも、一定数はいた。自分たちとの圧倒的な実力差に気付かず仕掛けてくる者ばかりではなく、何かしらの事情があり、力量差を察しつつも決死の特攻を敢行する者たちさえいた。
それこそがスラムの日常だと、オーケンは考えていた。だが──。
(なんだ、この街は……)
強い戸惑いがオーケンの胸に生じていた。
ギラついた目をした人間たちは数多く存在している。それは他のスラムと変わらない。だが、害意を持って行動を起こす者がいない。一人もいないのだ。まるで何かの総意、あるいは強固な統制でもあるかのように、誰一人として一線を越えてこない。
若き主を守るべく細心の注意を払いながらも、行く先々、通りの両端、建物の影などを細やかに観察していく。
ケイン様が指摘した通り、本当に死体や生ゴミが見当たらない。それ自体、スラムとしては十分に異常だったが、それ以外に見えるのは、他のスラムでもよくある光景だった。ギラついた目を持つ者たちと、生気のない視線を漂わせて道端に寝そべる者たち。関わり合いを避けるように姿を消す者もいれば、こちらに全く興味を示さず日常を送る人もいる。
戸惑いは辻を超えるごとに、角を曲がるごとに大きくなっていった。
(何かが変だ……何かがおかしい。いったい俺は、この街の何に違和感を覚えているんだ……?)
その時、背後から街の惨状を嘆くケイン様の声が聞こえた。
「スラムは、こんな感じなんだね。どこに行っても、どこの角を曲がっても人が寝そべってるなんて……。なんだか、見える範囲に必ず二人以上はいる気がするよ」
その声を聞いた瞬間、オーケンの胸の奥で薄霧のように漂っていた違和感が、明確な形を結んだ。ケイン様は環境の不自然さだけでなく、この空間の構造的な異常にも、無意識に感づいておられる。
(なるほど、そういうことか。それを可能にするとすれば……)
さて、ケイン様はどう判断されるのか。
間断なく続く緊張の中、若き主がこの異常を知ってどう対処するのか。それを期待してしまう己の酔狂に苦笑いを浮かべそうになるのを何とか噛み殺しながら、オーケンは話し合いに適した場所を選んで声をかけた。
「ケイン様、少し宜しいでしょうか」




