傾国の鉄宰 第四十二話 【捨てられた少年】〜ロストジェネレーション〜
スラム街の入り口付近――疾うの昔に見捨てられ、半ば崩壊した古い建物がいたる所に点在する場所。なかでも陽の当たらない大通りからの視線を完全に遮る、崩落した壁の物陰で合流を果たした皆を、ケインは労った。
「リュカさん。索敵だけじゃなくて、余計なことに巻き込んでしまい申し訳ありません」
「ぜんぜん構いやせんよ。あっしの『臭水』の新たな使い方が見られて、いい経験になったぐらいでさぁ。ははは」
リュカは悪びれる様子もなく笑う。続いてケインは、静かに佇む弓士へと視線を向けた。
「エルさんも遠隔での警護の予定が、こんなことになってしまって申し訳ありません」
弓士のエルは、相貌こそ双子の妹のノアと瓜二つの顔立ちだが、いつもは感情を表に出さず、表情に乏しい。
だが今は、その切れ長の瞳にどことなく温かみのある光を浮かべていた。
「構いませんよ。少年を見捨てることが出来ないとケイン様は言ってくれました。幼い頃、タリム様に救われた僕たちとしては、それがとても嬉しかったです」
「父がエルさんを救ったのですか? それはどういう……そうですか。また今度、詳しくお話を聞かせて下さいね」
自分の知らない父の過去の話に強く興味をひかれたケインだったが、今は優先すべきことが他にあった。
「オーケン。汚れ役を引き受けてくれて、ありがとう。……ひとまず、その子をそこに寝かせてくれるかな」
オーケンは下町の者たちの視線から逃れた時点で、すでに少年を壊れ物を扱うように優しく抱きかかえていた。建物の土台が比較的綺麗に残る乾いた場所を見つけ、オーケンはそっと少年を横たえる。
少年は全身泥まみれなうえに、背中には強烈な悪臭を放つ『臭水』が付着している。その鼻を突く臭気を間近でまともに吸い込んだことで、少年は今も気絶寸前の朦朧とした状態だ。
ケインたちも今なお周囲に漂う強烈な臭いに晒されてはいたが、不思議と気分が悪くなるほどではなかった。その理由は、オーケンが少年を中心に、下町側へと絶え間なく指向性を持った微風を吹かせ、悪臭を別の方向へと押し流して薄めているからだった。
(この風って『微風の魔法』って言うんだよね? 生活魔法って、こんなに長く発動するものなの?)
『いえ。微風の魔法の効果時間は本来は一瞬、長くても数秒のはずです。それにどんな魔法であれ、これほど長時間、均一に出力を保って発動させるには、並外れた集中力と卓越した魔力制御が必要ですが……』
〈一人で汚れ役を買って出られる胆力といい、生活魔法といえど継続的に運用できる集中力といい……。少年は良い家臣を見つけたものだな〉
(そうだね。オーケンさんって、なんだか不思議な人だよねぇ。普段は気の良い、というか気弱なおじさんなのに、いざとなると色々なことができるし、本当に底が知れないよ)
ふと、街の中に突風が吹き廃墟の合間を抜けてきた。複雑に混ざり合うそれは、オーケンの風の結界を一瞬だけ揺らした。その拍子に、脳内会議を開いていたケインの鼻先をわずかな悪臭が掠め、彼は現実へと引き戻される。
「このままじゃ話も聞けないね。……『温水の魔法』」
ケインは小さく呪文を唱え、手のひらを少年に向けた。
この魔法は、闇の精霊の加護が発現して魔法適性が向上し、水魔法と火魔法の同時展開が可能になってから編み出した、ケインのオリジナルスペルだ。オリジナルとは言っても、所詮は生活魔法の域を出ない。大した威力があるわけではないが、魔力によって適度に熱を持たされた水は、こびりついたしつこい泥汚れや臭水を浮かせて洗い流すのにはうってつけだった。
ケインの手のひらから溢れ出た温水が、少年の体を優しく包み込み、衣類に染み込んだ泥と悪臭をみるみるうちに洗い落としていく。
(オーケンさんみたいに風魔法が使えれば、マイクロバブル洗浄もできそうなんだけどな)
裕翔が生活魔法の応用としてイメージしたのは、現代知識にある「マイクロバブル」を含んだ微温水だ。肉眼で見えないほどの細かな泡を孕む水流なら、衣服の繊維の奥まで入り込み、泥汚れとともに臭いの成分などを急速に分解・吸着できるはずだった。
その未知のイメージに、ケインは興味をひかれた。
『面白そうですね。いつかは挑戦してみたいです。でも今は……』
「う、うぅ……」
不快な臭気と汚れが綺麗に消え去り、心地よい温水に包まれたことで、少年の朦朧としていた意識が徐々にはっきりとしてくる。
ハッと目を覚まし、怯えたように視線を彷徨わせる少年。ケインは彼をできる限り不安にさせないよう、その場にそっと膝をつき、目線を合わせて優しく語りかけた。
「大丈夫だよ、もう危なくない。僕たちは君を襲おうとした奴らじゃないんだ。悪臭については後から説明するけど……何があったのか、話せるかい?」
ケインが「悪臭」と口にするのを眺めながら、リュカは少し寂しい気持ちでいた。
(あれのベースは殆どが薬草と鉱石なんで、悪臭はすれど解毒や病魔除けになる、優れものなんすがねぇ~)
リュカのそんな嘆きをよそに、ケインの穏やかな声と、仕立ての悪い変装用のボロ布を纏っていても隠しきれない、内から滲み出る気品に気圧されたのか、少年はぽつりぽつりと拙いながらも、真剣に話し始めた。




