傾国の鉄宰 第三十四話 【ケインと赤子】ロストジェネレーションって何だ!
代官所と渡り廊下で繋がった公邸の客間へ、部下の騎士に付き添われ引き揚げたランゼル。
客間の扉が閉まり、騎士たちが周囲の警戒に就く。自らも気配探知を行い、皆が頷いたのを確認した瞬間、その背筋はぴんと伸び、千鳥足から確かな足取りへと変わった。傍らで自分を支えてくれていた騎士の肩を軽く叩いて労う。泥酔一歩手前だった酔客の表情は霧散し、その瞳に濁りは一切なかった。
「……ふぅ。少々飲みすぎたな。銅のデキャンタまで持ち出すとは、毒見を逆手に取った嫌味な演出だったが、酒の味はなかなかだったな。次は気の合う者たちと飲みたいものだ。さて……」
ランゼルが低く呟き、部屋の隅に視線を落とす。すると影の中から音もなく一人のメイドが姿を現した。
(私の気配探知でも、かなり距離を詰めねば発見できないとは……)
ケイン様付きメイドの一人、シモーヌ。自分がサクヤ行きを希望するまでは、数いるメイドの一人としか認識していなかった。ケイン様の近くに侍ることが多く、身のこなしも良い。最低限の護身を修めた騎士の家系の娘――それがランゼルの抱いていた彼女への印象だった。
だがその実体は、マイヤー殿が自ら「教育」した凄腕の密偵である。彼女は音を立てずに一礼すると、冷えた水が入った杯をランゼルに差し出した。
「お見事でした。あの後の副代官の言動や奥に控えていた兵たちの様子からランゼル様は『籠絡対象』に認定されたようです」
危険な任務を淡々とこなすシモーヌ頷きながら苦笑いを浮かべるランゼル。
「籠絡か…奴は食わせ者だ。『不平』『不満』『不安』を喰らって肥え太る。……シモーヌ、ケイン様へ伝言を頼めるか?」
「はい。勿論です」
ランゼルが伝言を伝え終えると、シモーヌの姿は再び闇に溶け込んだ。
シモーヌは代官所の重厚な石壁を、重力がないかのような身のこなしで駆け上がり、夜のサクヤの街へと躍り出る。
かつては帝国の「東の宝石」と称された街の裏通りは、裕福な人々で賑わう目抜き通りとは対照的に人通りは少なく、皆が疲れたように歩き、殺伐とした雰囲気が辺りに広がっている。
シモーヌは音もなく屋根の稜線を跳ね、影から影へと渡っていく。その瞳は、眼下に広がる街の「病」を冷静に捉えていた。
表通りの喧騒は、どこか空々しい。代官所や大きな商館などは綺羅びやかに飾り立てられ、街灯が煌々と灯り、夜空を焦がさんとしているかのようだ。だが一本路地を曲がれば、そこには沈黙と諦めが広がり淀んでいる。
かつて白磁のように美しかったであろう石畳はひび割れ、隙間には汚水が溜まり、鼻を突く腐敗臭が立ち上がる場所さえあった。管理の行き届かなくなった魔導灯はほとんどが輝きを失い、わずかに残る物も力なく明滅を繰り返す。打ち捨てられた空き家の軒下では、虚ろな目をした人々が身を寄せ合っている。
(……これが、かつて帝国有数の美しさを誇った街の姿なの…)
「不平」「不満」「不安」。先ほどランゼルが口にしたその言葉が、霧となって街を覆っているかのようだった。
道端でうずくまる男性、骨が浮き出るほど細い手。それを 不可視を使い通り過ぎながら、シモーヌは思う。肥え太った代官たちと、痩せ細っていく人々。この歪なコントラストこそが、今のサクヤを象徴する景色なのだ。
宝石と謳われた街の輝きはとうに失われ、今はただ、汚泥を隠すための色のついたガラス玉が砕けるの時を待っている。
(マイヤー様に、そしてケイン様に出会わなければ自分たちも似たような汚泥の底に沈んでいただろう)
シモーヌは心が痛みながらも一度として足を止めることなく、主が待つ宿へと脚を加速させた。
彼女の向かう先「蒼空の舟亭」そこには、サクヤの新代官ケイン・ハイデル様が自分の報告を待ちわびているはずだ。この街の、この領地の将来のため、今も寸暇を惜しんで働いておられるだろう。そう考えるだけで気持ちは逸り、脚に力がはいる。
サクヤの街の北の大通りで一番の大宿、「蒼空の舟亭」に辿り着いたシモーヌ。目指すは主が執務する三階の部屋。再び重力がないかのような身のこなしで石壁を駆け上がり、ケインが借り切っている一室の窓枠に手を掛ける。
鍵のあけられた窓は滑らかに開き、音も無く室内へ入る事ができた。彼女の胸中にあるのは、領民の苦境を憂い、深夜まで机に向かって辣腕を振るう若き主君の姿だった。
当然の如くシモーヌの侵入に気付いたマイヤーとヴォルター。向けられた視線に一礼するシモーヌに、マイヤーは穏やかに微笑み、ヴォルターも労るように穏やかに頷く。
早速報告をと、主へと視線を向けると、シモーヌの思考が瞬間に凍りついた。予期せぬ目の前の光景に認識が追いつかなかったのだ。
彼女が想像していた「険しい表情で書面を睨む主」の姿はそこには無く、目に映るのは寝椅子に腰掛け、膝の上にオーケンの赤子を乗せて、全力で「変顔」を披露しているケイン・ハイデルの姿であった。
「ほーら、高い高ーい!…反応が今ひとつだなぁ。じゃあ ……あぶぶ、ケイン兄ちゃんですよー。いないないバァー。よし笑った」
セブルスの詰所で見せたあの鋭い眼光も、『銀の燕亭』で垣間見た全てを見透かす千里眼のような視線も露とも見せず、ケインは目尻を下げきって鼻の下を伸ばしている。対する赤子は、ケインの指を小さな手で握りしめ、「きゃはっ!」と甲高い声を上げて喜んでいた。
「……ケイン様、何をされておいでですか?」
シモーヌの、感情の籠もらない低い声が室内に響くとケインは弾かれたように肩を震わせ、ギギギ、と錆びついた人形のような動きでシモーヌの方を振り返った。その顔にはまだ、赤子をあやすための「おどけた表情」の残滓が張り付いている。
「やぁシモーヌ…元気?これはその…。オーケンの赤ちゃんが急な長旅で少し体調不良だと聞いてマイヤーに治癒魔法を掛けてもらったんだ。奥さんも介抱に付きっきりだったらしいから、湯浴みで身体を清めたり、身嗜みを整えるように言ったんだ。その間は僕が預かることにしたんだよ。オーケンたちがセブルスの街を出る羽目になったのは僕が原因とも言えるしね。決して遊んでいたわけでは……」
ケインは慌てて表情を取り繕い、咳払いを一つして赤子を抱き直した。他の者に赤子を渡す気はないらしい、腕に小さな身体を乗せた抱き方も手慣れており、説得力がない。
「…領民の将来のため、寸暇を惜しんで働いておられるものと信じておりました…」
「も、もちろんそうだよ。でもこの子も大事な領民の一人だよ。この子が笑えば、この街の未来を一つ守ったって…そうは思わない?」
開き直ったように微笑むケイン。その腕のから赤子手を伸ばし、ケインの頬をペチペチと叩いている。
(しかし『高い高い』や『いないいないばあ』は異世界でも鉄板だね)
〈子供の笑い声は何よりの癒しだ。ここまでの癒しはクラシックの名曲たちでも太刀打ちは難しいだろうな〉
『二人は少し黙ってて下さい』
シモーヌはわずかに溜息を吐いた。街で見かけた、骨の浮き出た男性の手、諦めや絶望がそこら中に溜まる街の惨状。気の重い報告に来たはずの彼女の心から、トゲトゲとした毒気が抜けていくのを感じた。
自分のこのような態度にも寛容で、ちゃんと話をしてくださる主。だからこそ、一命を賭して仕える価値があるのだ。
然るにこの状況は当然とも言えるのだ。
「……左様でございますね。その甘さこそが、私が貴方様に命を預ける理由でもありましたね。大変失礼を致しました」
シモーヌは静かに膝をつき、「密偵」の顔を少しだけ緩めて、年相応の少女の顔で主君へ頭を下げた。
ケインの腕の中から小さな観客が不思議そうに、その様子を見つめていた。
「ケイン様、そろそろ」
母親がこちらに近づく気配を感知したのだろう、マイヤーから声が掛かる。
ケインは名残惜しそうに、自分の指を握りしめていた小さな手をそっと解いた。その表情に慈しみ溢れる兄のような温もりが残っていたがマイヤーへ赤子を託し、領主としての思考へと切り換える。
「……すまない、マイヤー。この子をお母さんのところへ。それと、夜食に温かいスープでも用意させてやってくれ。母親が倒れては、この子の笑顔も消えてしまうからね」
「はい若様。伝えておきましょう。ご安心下さい」
マイヤーが赤子を受け取り母親の元に向うため部屋を出ていく。扉が閉まり赤子の声が聞こえなくなると、ケインは寝椅子から立ち上がった。その瞳からは先ほどまでの「甘さ」が消え、鋭い光が宿っている。
シモーヌは居住まいを正し、膝をついたまま報告を始める。
「ランゼル様より伝言です。『副代官はこちらを籠絡対象と見なした模様。東の正門からの道程には多くの密偵が配されており、代官所の中にも密偵の気配あり。但しS級やA級程の手練れの気配は現在のところない』そうです。ランゼル様ご自身が、泥酔を装い敵の警戒を解くことに成功しておりますので、今後も監視を続けるそうです」
「そうか。ランゼルには不快な役回りをお願いすることになりそうだね。……それで、街の様子はどうだった?」
ケインの問いに、先ほど見た「東の宝石」の裏側に広がる惨状が脳裏をよぎる。
「……酷いものでした。目抜き通りの煌びやかさは、ただの薄っぺらな皮一枚に過ぎません。一歩路地裏へ入れば、そこには管理を放棄された魔導灯の残骸と、腐敗臭、そして絶望が澱んでおります。住人は痩せ細り、あれで働くこともままならないでしょう」
シモーヌは努めて冷静に報告をするが、その端々に悲しみや怒りが透けて見える。
彼女の報告を聞きながら、ケインは静かに窓の外を見やった。遠くに見える代官所の灯りが、今は領民を吸い尽くす怪物の目のように見える。
「裕福な者たちの欲望のために、弱き者たちの明日や希望を喰らう街。自分たちだけが肥え太るためだけに街が存在すると信じて疑わない者たち。シモーヌ、君が見たその光景こそが、僕たちがこれから向き合い、正さなければならない『現実』なんだ」
ケインはそう呟くと、マイヤーが連れて行った赤子の笑い声が微かに聞こえた。ついさっきまで自分の指に感じていた小さな温もりを、忘れ無いように新代官は強く拳を握りしめた。
「どれほど汚泥に塗れていても、その下に埋もれている宝石を掘り起こす。あの子の未来に、薄暗い路地裏を引き継がせるわけにはいかないからね」
その言葉は静かだったが、夜の静寂を切り裂くような確かな決意が込められていた。シモーヌはその背中を見上げ、改めてこの主君のために影となり、盾となることを心に誓うのだった。
ガザルが「食い甲斐がある」と笑った獲物は、すでにその喉元に牙を突き立てる準備を終えている




