傾国の鉄宰 第ニ話 【出立】 〜ロストジェネレーションって何だ!
裕翔の記憶は負荷なく、ケインと融合した。
「氷河期世代」を生き抜いてきた様々な記憶や思いが頭の中に浮かぶ。異世界の自分に必要な知識や経験は、ずっと不安だったケインの心を大いに慰撫した。まるで頼りになる兄がすぐ側にいるような感覚。
―――それは、自信を失いつつあった少年の大きな支えとなった。
想定外だったのは、もう一人。融合ではなく別人格として、時折、話しかけてくる『次郎』なる存在だ。手厳しいことも言うが、信頼できる「先生」のようでもある。
融合と別人格の違いなど、今のケインにはよくわからない。ただ、頭の中に他者が同居している事実に、当初は「魔物憑き」にでもなったかと不安を覚えたのも事実だ。だが今のケインには異世界での記憶と経験という武器がある。彼はそれらを胸に、サクヤの街の再建を静かに誓っていた。
祝宴より七日後、旅立ちの朝は静かに訪れた。まだ陽も昇りきらぬ薄明の中、ケインは荷馬車の前で最後の荷を確認していた。
ケインは十二歳の少年としてはかなり大柄であったが、成長期特有の細身なシルエットをしていた。まだ父タリムや兄のような「恵まれた体躯」でなかったが、数年もすれば、ハイデルの騎士然とした体格に成長するであろうことが予見できた。
髪は黒色に近い緑色でありながら、しっとりとした光沢を帯びている。その色は、天鵞絨と呼ばれ、黒髪が多い帝国の東部にあっても特徴的でハイデル子爵家の代名詞ともされている。
顔立ちは育ちの良さを感じさせるもので、肌は白く、繊細な貴公子のようだ。その端整な顔立ちで際立つのが、深紫と呼ばれる瞳だ。あらゆる感情を色彩として映し出すその瞳は、ケインの精神を鋭角に描き出す。
「狂気」「思慮」「憤怒」「温厚」―――、どんな感情の発露も如実に表す、この瞳はケインの弱点であり、強みでもあった。
輝きを失いつつあった瞳だが、最近になり輝きを取り戻していた。いや、前にも増して、強き思いを宿して、光を放っていた。
昔から ケインを見守り続けた家内の者たちは、この変容に気付くと密かに、しかし大きく喜んだ。
今回不意に決まったサクヤの街への下向にあたっても、テキパキと己の仕事をこなし、深紫の瞳の輝きを失わないケインを見て、安堵のため息を飲み込む者も少なくない。
代官任命から僅か七日。有り得ないほどの短期間で任地へと赴くケインの周囲では、急ピッチで準備が進められていた。
今日まで奔走し、出立の目処をつけたハイデル子爵家の者たちが見送りに来ている。だが、その数は驚くほどに少なく、子爵家当主である父、タリムの姿も無い。
その異様な雰囲気に新人らしき使用人はしきりに周りを気にしている。対して古参の使用人たちは誰もがこの「左遷」の空気を表に出すことなく、淡々と準備を進めていた。
そこへ執務室からケインの補佐官に選ばれたヴォルターがやって来た。
「旦那様は所用によりお見送りは出来ないそうです」
その言葉に、荷物の整理を終えた使用人たちの空気がわずかに硬くなる。
皆が戸惑う中、一人だけ怒り心頭の女性がいた。メイド頭のマイヤーだ。彼女はケインが生まれた時からの付き添いで、今回のサクヤ行きにも同行してくれる。事情をある程度理解している彼女だが、『まだ幼い我が子の門出に、見送りもできない所用とは何事か』と、今にも抗議の声を上げそうだ。
ケインは彼女の怒りを和らげる様に微笑んだ。その笑顔のままで玄関の前に立つ子爵家の執事に声を掛ける。
「では行ってくる」
「…お気をつけて、ケイン様」
執事の言葉に小さく頷き、ケインは馬車に乗り込んだ。
一行の編成は騎乗した護衛騎士が四名。客車と荷馬車がそれぞれ二台ずつ。御者二名と使用人が二名。補佐官のヴォルターとメイド頭のマイヤー、それにケインを加えた十一名。辺境に赴く代官としては標準的な編成だが、子爵家次男の待遇としてはあまりに荷物が少なく、護衛も最小限に留められていた。
大規模な盗賊団などに狙われれば一溜まりもないだろう。
代官用とさして変わらぬ質素な客車にはケインの他、守り役のヴォルターとメイド長のマイヤーが乗リ込んでいた。
客車の扉が閉まると直ぐにヴォルターがひとつの封筒を差し出した。
「旦那様より若様にと、お預かりしております。……乗車後直ぐに渡すようにと…」
封蝋は平坦な物でハイデル家の紋章などの封印はない。ヴォルターが手渡したものでなければ、父の手紙だと信じるのは困難なほど簡素なものだ。
ケインは一瞬、手を止めた。父が自分に手紙を?あの冷たい態度の裏に、やはり何かがあったのだ。
揺れる魔導灯の下で封を切る。
手紙は簡潔に、必要な情報だけが綴られていた。署名はない。
だが文末に一言だけ、力強い筆致で父としての言葉が添えられていた。
ケインは手紙を胸に抱き、そっと目を閉じた。異世界で失った父の面影が、今の父の背中と重なる。
「ありがとう」と「ごめん」
裕翔が伝えられなかった言葉を、今度こそ僕が伝えるんだ。
「……行ってくるよ、父さん」
馬車が静かに動き出す。
ケインが車窓から子爵邸を振り返ることはなかった。
カーテンが閉め切られた執務室の窓、その内側から。見えるはずのない息子の後ろ姿を、タリムがじっと見送っていたことを、ケインが知る由もなかった。
〜子爵家執務室〜
「ケイン様が出発されました。……準備も十分とは言えぬ中での出立、よろしかったのですか?」
ケインを見送った執事が静かに問う。
「……奴らの動きが、予想以上に乱暴で性急だ。毒を使い、公の場でケインを貶めるなど常軌を逸している」
タリムは煙草に火を付け、紫煙を燻らせながら閉ざされたカーテンの先を見つめた。その横顔には、不器用ながらも息子への深い情愛が滲んでいた。
「ケイン様を辺境に送ったのは、賢明な判断かと。帝都から離れれば、露骨な手出しは難しくなります」
「難しくなるだけで、無くなりはしないだろう。先ずは無事に…到着出来るかだが、あの子の眼は変わった。あの眼なら、彼等と共にやれると信じている」
「しかし、サクヤは現状あまりに難しい場所です。援助を……」
「無用だ。帝都の貴族どもには『ハイデル子爵は無能な息子を辺境に追放した』と思わせておけ。できる限りの金と人と情報は渡した。これ以上の援助は、かえって奴らの注目を集める事になる。サクヤは、あの子自身の力で変えていくしかない」
タリムは自分自身に言い聞かせるように、そう口にすると、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。その指先が微かに震えていることに、本人は気づいていない。だが、長年仕えた執事だけは、主の隠しきれぬ苛立ちを見逃さなかった。
〜客車〜
「ヴォルターは今回の件、何処まで聴いているの?」
「およそのことは、旦那様より説明を受けております」
ヴォルターから予想通りの言葉が返ってくる。
「マイヤーは何か聞いているかな?」
「何も。何かあるなら教えて下さい。隠しごとはなしでお願いします」
マイヤーは父にも意見する胆力と多岐に渡る見識を持ち、理知的な女性なのだが、ことケインのこととなると極度に感情的になってしまう。今回の件を詳細に聞けば、父に強く詰め寄ったことだろう。
(タリムさん、マイヤーさんに怒られるから逃げたね)
〈理屈をこねる男は、理屈を超える女性には勝てないものだ〉
二人の声を頭の中で聞きながら、父の人間らしい部分を少し知れた気がして、ケインはなぜだか嬉しかった。
「分かったよマイヤー。実はね……」
一行は帝都を抜け出て朝靄で霞む帝都郊外を駆けていく。
後々国内情勢を大きく動かす変動の一頁目は静かに始まった。




