傾国の鉄宰 第一話 【祝宴】 〜ロストジェネレーションって何だ!〜
――それは、傾国の予兆だった
帝都ルヴァンを覆う夜の闇が、その絢爛たる光を飲み込むように深まっていく。
ハイデル子爵領から遠く離れたこの帝都で、今まさに一つの運命が激しくねじ曲げられようとしていた。
十ニ歳の誕生日を迎えたケイン・ハイデルは、笑顔という名の「仮面」を貼り付け、祝宴の中心に立っていた。
銀食器が放つ眩い輝き、甘美な葡萄酒の芳醇な香り、着飾った貴族たちの高揚した笑い声。すべてがハイデル家の繁栄を雄弁に語っている――ように見えた。
だが、虚飾と打算、悪意に晒され続けたケインの胸中は、周囲の華やかさとは裏腹に、凍りついた湖面のように冷え切っていた。
銀食器の刺すような輝きは神経を逆なでし、葡萄酒の芳醇な香りは少年には理解し難く鼻を突く。貴族たちの笑い声は、ケインの耳には獲物を囲む餓狼の唸り声のように聞こえていた。
(……笑え。隙を見せれば餓狼の餌食になるだけだ。仮面を剥がされるな)
端から見れば穏やかな微笑み。だがその裏で、彼は必死に波立つ感情を抑え込んでいた。この祝宴の中心たる自分の立場など、薄氷の上でダンスを踊るが如く危ういものであることを、ケインは痛いほど知っていた。
ここ一年、社交界には彼を貶める悪評が、まるで毒霧のように立ち込めていた。
『ハイデル家の次男は無能』『残虐非道な行いがある』
一年ほど前までは、子爵家の耳に届かぬように巧妙に制御されていたそれらの噂。並の貴族など足元にも及ばない情報網を誇るハイデル家でさえ、後手に回るほど敵は強大で、根は太く、深い。情報網が噂話や情報操作を察知した時には、手遅れだった。誰かが丹念に作り上げた虚像は、既に「真実」として定着していたのだ。今さら否定したところで、痛くもない腹を探られるのが関の山だった。
英雄である父には遠く及ばぬと、凡庸と蔑む視線。悪評を鵜呑みにして嫌悪を隠しきれない者たち。大貴族の縁者たちの、粘りつくような探る視線。華やかさの裏に垣間見える悪意が、次の瞬間には自分を飲み込むかも知れない。その危機感が、ケインの精神をじわじわと削っていく。
喉が渇く。焼けるように渇く。
帝都に入ってからは、信頼できる者が用意したもの以外口にしないよう注意を払ってきたが――――――。
「おめでとうございます、ケイン様」
緊張で生じたわずかな綻びに、甘言が滑り込む。見覚えの薄い使用人が差し出した果実水。ふと気が緩み、ケインはそれを受け取り、一息に飲み干してしまった。
変化は突然だった。
喧騒が遠のき、視界が白と黒のモザイクに塗り替えられる。甘い花の香りが鼻腔に広がると同時に、脳髄を焼き切るような激痛が走った。
「あ……が、は……ッ!?」
うずくまることさえできず、ケインは大理石の床に倒れ込む。日々の鍛錬のおかげで無様に頭を打つことだけは免れたが、意識は急速に闇へと沈んでいった。
果実水を渡した者の姿は、すでに人混みの中に消えていた。
主役であるケインの昏倒に、周囲の貴族は気づかない。いや、幾人かは気づきながらも、益体もない話に花を咲かせて知らぬふりを決め込んでいる。
異変に気付いたわずかな者たちも、笑顔の仮面を貼り付けたまま、他者の注意を逸らすように下らない話題で盛り上がる。
それはまるで、舞台の暗転を手助けする劇中伴奏音楽のようなさえずりであった。
突然、視界が完全に暗転する。音はすべて消えさり、ただ一つの「声」が、ケインの魂を揺さぶった。
「選びし者よ。汝、二つの生を一つに結び、双子星の新たなる楔とならん。過去の後悔は未来を拓く剣となり、失われたる愛への渇望は人々を護る盾とならん」
「……うぐっ」
毒の痛みは一瞬にして遠のき、代わりに知識や記憶の奔流が意識を飲み込む。最初は他人の人生を覗き見している感覚だったものが、次第に自らの記憶や感情と結びついていく。自分とは別に存在する、もう一人の自分。矛盾だらけの事実に、ケインは不思議なほど自然に納得していた。
異世界の島国、「日本」で平凡なサラリーマンとして懸命に生きた自分『裕翔』。そして子爵家の次男として誕生し、人柄や才能に反して不当な悪意に苦しむ少年、ケイン・ハイデル。
二つの記憶が、元々一人の人間であったような親密さを伴って溶け合っていく。
◇裕翔の記憶◇
満員電車、終わりの見えない残業。誰にも気づかれぬまま、ただひたすら消費されていく灰色の日々。
裕翔は『氷河期世代』=ロストジェネレーションと呼ばれ、上の世代からも下の世代からも便利に使い潰される運命の中にいた。
それでも彼は、懸命に生きていた。小さな幸せを見つけ、誰かのために、何かのために存在しようと足掻き続けていた。
そして、あの日――。
父を失った瞬間の記憶が、鮮明に蘇る。大地が消えたような浮遊感。言葉にできなかった後悔。
もっと話せていれば、もっと素直になれていたら…。感謝も謝罪も伝えらぬまま、父は旅立ってしまった。本来それは自分を見つめ直す切っ掛けとなるはずだった。
だが会社は、そしてこの国は、『氷河期世代』に己を顧みる時間など与えはしなかった。
父を見送って数時間後、裕翔はいつも通りパソコンに向かい合っていた。
たった一人の管理職が不在なだけで回らない職場。そんな歪な環境を作り出した上司や、問題を野放しにした会社は、その尻ぬぐいをすべて裕翔に求めた。
「お前の責任だ」
「お前の変わりなど、どこにでもいる」
投げかけられるのは、血の通わぬ誹りと罵倒ばかりだった。
若手に仕事を振ろうにも、少子化で絶対数が足りない。その上、社会にすり潰される氷河期世代の背中を見て育った彼ら・彼女らは、会社への帰属意識など持ち合わせてはいなかった。
プライベート至上主義という別種族へと進化していたのだ。
それ自体を悪いとは、裕翔も思ってはいない。社会の変化に順応するため、『新しい基準』が広がるのは必然だ。ただ、いつも過渡期に割を食らうのが自分たちの世代であるという事実に、ただただ虚しさが募る。
先祖代々受け継がれてきたパワハラやモラハラという「武器」さえ、使いこなす前に奪い取られた無権限管理職には成す術もなかった。
気づけば、父の四十九日法要の日さえ、彼は実家に帰れぬまま22時過ぎまでオフィスにいた。周囲を見渡せば、終わらぬ仕事と増え続けるカスタマーハラスメントに首を傾げながら、黙々と働き続ける同世代の「社畜」たちが数人。
(明日はなんとか半休を取って母さんの所に顔を出したいし、今日ぐらいは終電までに仕事を終えて家に帰りたいな)
無意識にキーボードを叩きながら、漠然とそんなことを考える。
パワハラ、セクハラ、 モラハラ、アルハラ 。今やあらゆるハラスメントにラベルが貼られ、ハラスメント・ハラスメント=「ハラハラ」なる奇妙な造語まで生まれている。
―――『世はまさに大ハラスメント時代』―――
だが大企業からのカスハラは相変わらずにまかり通り、自社の失敗の尻ぬぐいを押し付けてくる。
スケジュール管理のミスを短納期で解決させ、無駄な開発費を価格低減で補填し、人員削減で溢れた仕事を取引先に回す。挙句、不良品の責任までなすりつける。
そんな妄言の盾にされるのは、いつだって氷河期世代だ。
俺たちは、常に冷や飯を食わされてきた。高校までは学校が足りず狭い教室に大勢が押し込まれ、大学受験では122万人の受験者に対し、用意された学籍は60万以下。18年もの猶予がありながら学籍を補充しなかった政府の怠慢。俺たちの人生は、常に「無理ゲー」の椅子取りゲームだった。
周りを蹴落とし、ようやく椅子を確保したと思えばバブルが崩壊。大卒は必要ないと、手のひらを返したように門前払いを食らった。
何百と履歴書を書き、なんとか滑り込んだ会社では、ぞんざいに扱われる。その理由は能力や人間性ではなく、単に「人数が多いから」だ。
上は詰まり、同期は溢れ、出世も昇給も望めない。色々なものを諦めて、ようやく管理職になれば、「新入社員は貴重だから丁寧に扱え、お前らと違って替えが効かないんだ」と管理職勉強会で教え込まれる。節約生活で必死に生き延びてきた俺たちを嘲笑うかのように、部下の初任給が、俺たちの基本給を飛び越していく。
それでも、堪えて堪えて定年後は年金でのんびりしようと思えば氷河期世代は「人数が多く」収入の上昇幅も小さいので年金の支給額は目減りしますと歳若い経済学者様がスマホの画面で宣う始末だ。少子化対策に何をしようが、効果なんて有るわけがない。自分たちの20年後、30年後が目の前で絶望しているんだから。
「……やってられるかよ」
そう口にして、裕翔はパソコンの電源を落とした。
名ばかり管理職には残業代、休日出勤代が割増されるという「都市伝説」は聞いたことがあるが、タイムカードは総務が勝手に予定表通りに打刻しており、管理職になってから、その機械に触れたことさえない。
「……やってられるかよ」
誰に届くでもなく、裕翔はもう一度呟いた。
◇ケインの記憶◇
異世界の裕翔の記憶を受け入れたケインの胸に、鈍い痛みが走った。
裕翔が抱えた悲哀と怒りは、今の自分の状況とあまりに酷似していたからだ。
この世界でもまた、世代間の格差が広がり続けている。
大陸二つを巻き込んだ「大戦」の終結後、帝国の人口は増え続け、ケインの出生時にピークを迎えた。社会は発展期から安定期へ移り、急激な少子化が始まった。歪な人口ピラミッドが、徐々にこの国を蝕んでいる。
ケインが周りの貴族から目の敵にされる根本的な理由がまさに同世代の「人数の多さ」だった。
世界でも有数の広大な領土を誇る帝国ではあったが、治める土地やポストは無限ではない。
大戦中は戦死者に加えて、生活環境も悪かったため、常に人が足りなかった。
だが戦後、もちろん戦死するものはいなくなり 、衛生環境や食糧事情が向上したために病死や事故死も激減した。
人余りは貴族の中でさえ深刻になりつつあった。
それでも当初はケインの周りは穏やかで、幸せに過ごせていた。
父親であるタリム・エレ・ハイデルは『大戦の英雄』の一人だった。
一地方領主ながらも中央に大きな影響力を持ち、兄のタジム・ハイデルは神童、麒麟児と周りからの評価も高い。タリムの後継として充分に役割を果たすだろう。
次男のケインの出生時は周りの貴族たちも喜んでくれた。普通に育てば兄の補佐として、または地方代官として生きていくものと皆考えていたのだ。
その流れが変わったのは、二年前。
帝国の国力低下に危機感を抱いた皇帝が、人材登用の門戸を広げる勅令を出した際、皇弟が放った一言が原因だった。
『ことは民間に留まらず受領貴族以上の子弟にも中央官吏全ての門戸を開くべきかも知れぬな…』
皇弟もまた『大戦の英雄』の一人で、軍務経験も豊富なうえ、地方貴族との繋がりも深い。その皇弟の発言に中央官吏を輩出する法衣貴族やそれらを統括する大貴族は慄いた。
自分たちこそが帝国を動かし支配してきたという矜持と莫大な利権、その二つを失う危機に直面していると考えたのだ。
皇弟の発言はただの私見に過ぎず、法制も整った訳でもない。それでも皇弟にして『大戦の英雄』の発言は無視できるものではなかった。
その危機の象徴として、数多いる受領貴族の子弟の中で一番に目をつけられたのがケイン・ハイデルだった。
父親は『大戦の英雄』タリム・エレ・ハイデルであり、大戦中は皇弟の「懐刀」と呼ばれており帝室との関係は今も良好であった。
継嗣のタジムは当時から麒麟児と呼ばれ領地の継承に問題はない。
となれば、皇弟が中央へ引き上げようとする「地方貴族の子弟」の筆頭候補はケインになる。当時のケインは領内での評判が非常に良かった。
万が一にも彼が中央に登用されれば、雪崩を打って地方貴族が中央へ流入する。
本人の預かり知らぬところで、ケインは大貴族と中央官吏共通の「敵」と見なされたのだ。
他の地方貴族は大貴族の報復を恐れて距離を置き、あるいは子弟の将来のライバルとして彼を敬遠した。結果、父や兄は丁重に扱われる一方で、次男のケインだけが孤立するという歪な構造が生まれた。
◇ケインの意識内◇
意識下で裕翔と次郎と出会い、受け入れることを決めたケイン。互いの知識や認識が混ざり合う中、ケインの心に諦念が染み出していく。
『異世界でも、この世界でも。僕らはすり潰される運命なんだね』
(冗談じゃない、まだ間に合うよ。二度とこんな扱いはごめんだね。僕たちでなんとかするんだ)
内なる裕翔の意志が、ケインの絶望を弾き飛ばそうとするが、大人たちの悪意にさらされ続けた、少年の心は凝り固まっていた。
この世界の「ケイン」は、かつて隆盛を極めた帝国の辺境領主の次男。剣の腕はそこそこ立つが、政治や魔法の才に乏しいと、今は周囲からは軽んじられている。策謀や利害関係に翻弄されて心はすり減り、父との関係も歪で疎遠となりつつある。そんな自分に何かできることがあるだろうか。
〈本当にそうか? 周囲の雑音に惑わされ、自分の価値を見誤っていないか〉
また心の中から声が聞こえる。先ほどの裕翔の優しい声とは違い冷徹な口調。自らを協力者と名乗る『次郎』の声は言動とは裏腹に暖かみを感じるものだった。
〈その若さで帝国の構造と己の立場を客観視できている。凡庸な十二歳にそんな真似ができると思うか? 君と父親の関係も、もう一度冷静に見つめ直してみたまえ〉
置かれた状況は裕翔の末路に似ている。
(だけど、僕らの手にはまだ「やり直すための時間」がある)
ケイン(裕翔)は、強く心に誓う。
『この世界じゃ、氷河期世代なんて、呼ばせない』
異世界の裕翔と協力者である「次郎」の存在を受け入れると、身体の奥に沈み込んでいた何が軽くなり、スッキリとした気持ちで目を覚ますことができた。
状況を理解しようと 周りの声に耳を澄ますと父親と薬師、それに治癒魔法師の話が聞こえてきた。
意識を失ったケインはその後、祝宴会場から別室に運び出され、治癒魔法師と薬師の治療を受けていたようだ。
「症状からすると鬼火蘭の毒かと……」
「相当な手練れの仕業でしょう……。弱い毒である事を逆手に取って、防御術式の隙を突いたようです。毒見の目を盗むために認識阻害の術式を使った形跡もありますが、痕跡を探るのは困難です」
「体調に問題がないならば宴席は続けられるとしても…してやられたな。帝国学院への入学は諦めるしかあるまい」
周りの騒がしさに目覚めたケインの眼前には、父、タリム・エレ・ハイデルがいた。眉間に深い皺を寄せ、歯噛みをする姿は、雷を纏う黒龍のようだった。静かな怒りが大気を震わせ、かつてのケインならその威圧感だけで後退りしていただろう。だが今のケインは、その怒りが自分へではなく、自分を傷つけた「見えない敵」へ向けられていることに気付く余裕ができた。
「入学を諦めるしかあるまい」の一言に、息子への憐憫が感じ取れるだけの経験が、今の彼にはあった。
「祝宴は……?」
意識がはっきりすると、自らの誕生宴の対外的な意味を理解しているケインは、慌てて体を起こそうとする。
「意識が戻ったか…。身なりを整えたら、会場に戻りなさい」
優しい言葉をかけるでもなく、子爵は静かに言い放ち、遠ざかって行く。だが、その背中は、不思議なことに異世界で失った父の記憶にどこか似ていた。
孤高な力強さを纏いながらも、どこか大きく、優しい雰囲気を持った背中。記憶が戻る前の閉じかけた心では気づけなかったことに、今のケインは気づけている。
その後、祝宴会場に戻ったケインにかけられた、父であるハイデル子爵の言葉は、冷酷とも感じられるものだった。
「先程の様に戦地や宮廷で倒れられては敵わぬ。ケイン、其方を新領地サクヤの代官に任命する。準備が整い次第、任地に下れ」
「――畏まりました」
サクヤ領――かつては肥沃な大地からの恵みである農作物と、東の共和国との貿易の窓口として役割を両輪に発展し、『帝国の東の宝石』と呼ばれた帝室直轄領であった。
大戦のおりの「魔獣氾濫」により魔力の奔流が乱れた影響で気候が変質し、作物は育ち難く、魔獣は増加した。貿易額も年々減少し、今では盗賊や魔獣の脅威にさらされる、辺境の厄介地である。子爵家の勢力減退を狙って、帝国官吏から直轄領の下賜を大義名分に半ば押し付けられた場所である。
だが、だからこそ「誰の目も届かない」聖域になり得るのだと父タリムは考えたのかも知れない。
この祝宴に参加した大貴族の縁者たちは、総じてこれを悪行が過ぎた凡庸な次子の「左遷」と嘲笑するに違いない。
主役であるはずの祝宴で、体調不良との理由で早々の退出を命じた子爵が、ケイン個人に掛けた言葉は、目を見ることもなく小声で発せられた、たった一言だった。
「…お前の為だ」
その言葉が今のケインには、偽らざる父の本心だと分かる。それだけで心穏やかでいられた。
(敵から君を守る為に、冷徹な父親という汚名を被ってまで距離を置いてくれたんだろうね)
〈見えざる敵相手だ、物理的な距離をとるのは当然の戦略だ。その上左遷先がもともと帝国の公領で寂れた場所なら密偵たちが潜伏している可能性は極めて低い。しがらみのない『独立した城』を築くには絶好の舞台と言える〉
裕翔たちの内なる声にケインは確信を得る。
『ありがとうございます、……父上』
〈……甘いな。感傷に浸る前に、まずは現状を『整理』しろ。感謝や親愛は大事だが、筋の通らない感情優先の行動は毒にしかならない。左遷先で力を示せなければ、いつまでも親の庇護下だぞ〉
次郎の厳しい言葉が、心地よい緊張感を与える。
霧の向こうで葉巻を燻らすような、毅然とした男の影が浮かぶ。
その声は、裕翔の記憶にあるどの知人とも違っていた。だが、霧の向こうで葉巻を燻らせ、毅然と立ち上がる絶対的な「行動基準」を持った者の強さが思い浮かんだ。
これから何をすべきか、裕翔の経験や記憶、次郎から守るべき原則を得たケインに迷いは無かった。
祝宴が終わり、貴族たちが去った後の静寂の中。執務室でハイデル子爵は静かに窓辺に立ち、遠く朧月に照らされた帝都の街を見つめていた。
「……あの子は、少し、変わったな」
領国で別れてから数カ月。落ち着きや周りを観察する目が育った様に思う。そして今夜、ケインは毒を盛られた時も冷静であったし、タリムに従順というよりも、タリムの指示の真意を慮って行動しているように感じた。
「あの子であれば、あるいは…」
子爵は自らの言葉に苛立ち、拳を握った。それは、自分勝手な期待と希望が混ざった、独り言だった。
それでも、思わずにはいられない。願わずにはいられない。
「サクヤで、お前は何を見て、何を成すのか……その間に俺は何が出来るか。それぞれの試練だ」
朧月に照らされた帝都の街は、影と闇との境界線が曖昧で、子爵の心を波立たせた。二つの生を結んだケインの運命は、この瞬間、父の思惑とも大貴族達の思惑とも違う、新たな道を歩み始めたのだった。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
「???様。ハイデルの次男ですが鬼火蘭の毒では死なず、祝宴に戻ったそうです。」
「魂も擦り減っていたはずだが、案外しぶとい子供よなぁ。まぁよい。祝宴で、緊張のあまり倒れるようでは中央官吏や貴族の後継としては不適格だ。帝国学院への入学も子爵自身が取り下げ、子供はサクヤへ下向か、まぁいいだろう」
深夜。広大な屋敷の、広大な室内の真ん中で、二つの影が蝋燭の灯りを受けて揺らめいている。
帝都でこれほど広大な屋敷を持つ者が魔導灯ではなく蝋燭を用いて密議は進められる。
「刺客と手配主が、報酬の受け取りに来ているそうです。いかが致しましょう?」
「良き働きであったのぅ。大義、大義、殺せ」
「承知致しました」
「より苦しむようにして、殺すのだぞ。辺境貴族の出涸らしの小僧とはいえ、『青き血』に連なる者に毒を盛るなど、許されざる暴挙ゆえな」
「…はい。しかと承りました」
「他に関わった者は、苦しまぬように処置せよ。せめてもの情けよ」
「…???様の御心、しかと胸に刻みました」
蝋燭の灯りが揺れた瞬間、ゆらめく影は一つになっていた。残された影が呟く。
「さて次なる手は…芥を使うか、塵掃除にはちょうどよかろう」
その声は広い室内の端に広がる暗闇に飲み込まれるように消え去った。




