第二話 【皇帝の死】〜傾国の鉄宰〜
「先程、陛下が紫雲に昇られました。
大総主教猊下からは全て滞りなくとの御言葉を戴いきました」
その報告をケイン・エレ・ハイデルが受けたのは帝都には珍しく長雨が降り続けた3日目の深夜のことだった。
なぜこうなったのだろうか。
何度考えても答えは出ない。
凶報を吉報に変えるべく熟考した行動の結果であり受け入れるしかない。
俺は異世界で働くサラリーマンの記憶を持っていた。
特別な何かを経ることも無く、ある日突然に魔法もステータスも無い異世界での記憶が鮮明に甦ったのだ。
常識が異なる世界の35年分の知識と経験は他の者にはないアドバンテージではあった。
だがそれ以上に自身に影響を及ぼしたのは異世界での記憶が日々更新されるということだ。
不思議なことに貴族の庶子として育つ間も異世界に存在する【自分】の記憶は増えていく。
まるで二つの世界を同時に生きているような感覚で時間や知識、経験などは言うに及ばず喜怒哀楽も2倍になった。
感情の振れ幅の大きさに適応するにつれて脆弱であったメンタルが少しず強くなっていった。
更に異世界での記憶が甦ってからはステータスに経験値獲得なるものが表示されるようになり地力は大幅には向上した。
この20年で神々の意に沿う行動や結果を残した者に与えられるという特別報酬なるものもを数回得た。スキルを得る事自体かなり稀で有る為そこそこの能力を持つ事も出来た。
それでもそこそこ止まりで異世界のカリスマ経営者のような才覚やこの世界の英雄の様な圧倒的なステータスも神贈能力も手にすることは無かった。
貴族の庶子に生まれた平凡な自分。
異世界でサラリーマンとして生きる自分も平凡な考え方の持ち主だった。
新卒入社した大手電機メーカーは業績不振が続き入社時点で既にブラック企業へと変貌していた。
このままでは体を壊すと一念発起で電機関係の中規模メーカーに転職した俺だが出世街道を邁進するようなタイプではなく気楽に働き少し贅沢をする程度の生活を送っていた。
平凡なサラリーマンと地方の受領貴族の庶子として穏やかな代官職を求める自分。立場違えど価値観も似ており致命的な違和感はなかった。
異世界の記憶を持つ者としては、せっかく剣と魔法の世界に生きているのだから大冒険を求める気持ちはあったが特別報酬で自分の能力ではSランクの冒険者には到底成れないという現実を知った。
異世界知識で無双しようにもラノベ、転生モノなるジャンルが世にある事を深夜の国営放送で知った程度でファンタジーの知識なんて国民的ドラゴン討伐ゲームぐらいでしか知らない。
大学も経済専攻で理数系や技術系はさっぱりで趣味人オタクでも研究者でもない。
この世界でも有用な色々な知識はあっても専門的な知識が不足していた。
なぜ自分だけがこんな苦労を…と思ったのも束の間、異世界の自分も上司・同僚から面倒事を押し付けられる日々ー送っているようだ。どうやら面倒に巻き込まれる体質は異世界の境を越えついて回るらしい。
不幸中の幸いは親兄弟が部下の話を聴いて理解してくれる事と人より幾分ましなステータスとスキルが現状で思いのほか活用できる事か。
ブラック企業で働いてきた頃と比べれば肉体的な負担は軽い方だ。
社畜に戻らぬ様に仕事を抱え込まず肉体的な負担の軽減と精神的なプレッシャーの軽減を考えなくては。
〜まぁいいか。もういいか〜のスタンスを忘れない事だ。
異世界には『男子三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る』なんて言葉があるけど、32歳の俺はまだまだ自立独歩の途中で他の誰かならとっくに乗り越えそうな壁に未だにぶつかっている。
異世界の知識と経験が35年分。
今は32歳で貴族としての知識や官吏としての経験も積んだ。両世界の年齢を加算するならばもう67歳だ。
自分が若い頃は50歳も過ぎれば人生経験豊富で凄い大人というか初老で何事にも動じない様に見えていたんたが。
先輩達は本当に50歳で天命を見付けたのだろうか。
知ったふりが上手だったとか…。
これ以上 深く考えるのをやめておこう 。気分が落ち込んでしまう。
ここで気分の切り替えができるだけでも成長したと思っておこう。
この世界では子爵家の庶子としてサラリーマン時代よりも圧倒的に高い立場からのスタートで面倒事のレベルも格段に高い物が多かった。 正直ここまで来られた事は奇跡に近いだろう。
それでも自分なりに藻搔き続けてここまで来たという自負はある。
貴族としての立ち振舞や高位官吏としての責任を取らない会話術など色々手にいれた。
人生を振り返りながらも来訪者の応対なんかを問題無く熟す器用さも手に入れた。
「君が来ると言う事はそうだろうね」
皇帝陛下の崩御に対してショックは無い。とっくに覚悟は決めていた。
当たり障り無い返事を口にした俺は今後の展望に思いを馳せていた。
その時何かを叩く音が響いた。
俺は窓に視線を向ける。
この世界の窓ガラスはまだまだ技術不足で厚みがあり、歪みも大きい。
数刻前から強く吹き始めた風に煽られ、大粒の雨が時折窓ガラスに打ち付けられて低い音を立てている。
「死神のノックか」
このタイミングでは不敬を疑われかねない呟きが漏れる。
「御遺骸にお会いにならないのですか?
貴方の位階なら拝謁も叶うでしょう」
俺の不敬な呟きを華麗にスルーして背後から声が掛かる。凶報と吉報を併せて告げるヒーラに俺は改めて視線を向けて今の考えを口にする。
「拝謁の叶う位階と言っても所詮は中級貴族、高位官吏とはいえ儀礼局典礼司に回された今の俺ではお側に寄り添う事は難しいだろうね」
会いたいのは山々だがマイナス要素が多すぎる。とはいえ秘密裏に崩御前に陛下へのご挨拶は済ませてある。
陛下の死に対する覚悟も出来ていた。
これから起こる面倒事への対処案も準備済みだ。後は粛々と事を進めるだけである。
最善の結果を得たとしても今まで以上に忙しく大変な日々が続く。
本音が言えるならば『嫌だよ。面倒くさい』である。
本音を押し隠すように再び外を見る。
分厚い窓ガラス越しに見えるのは深夜の渡り廊下の灯りだけ。薄明かりが仄かにガラスを輝かせている。
しばし間をおいて部屋に視線を戻すヒーラと視線があった。
こちらをずっと見ていたようだ。
閑職勤めの役人とはいえ直謁可能な高位官吏、帝国中級貴族を直視し続ける事など普通有り得ない。
しかし彼女は国教である聖火教の司教で、巡検使の役職にも就いている。
つまり列記とした高位聖職者だ。
帝国は政教分離がされていない。
国事、祭事に聖火は深く関わっており大きな影響力を持っている。
利権や既得権益もかなり大きいはずだ。
それでも聖火教は清廉・清貧を旨とし、組織全体もかなり公明正大な印象を受ける。
この世界には神が実在するらしい(実際に俺のステータスには特別報酬の表示が訳だし)
聖職者の悪さが過ぎると神罰が下されるという話を聞いた事がある。
かなり稀なケースらしいが。
それにしても、俺の周りはお偉方ばかりだな。かく言う俺も閑職に回ったとはいえ高位官吏だ。
異世界の俺も今年会社の取締役になるらしい。嫌々そうだが。
偉くなんてなりたく無かったんだが…。ヒーラの昔と何も変わらない穏やかで暖かな笑顔が陰鬱になりがちな気分を和ませてくれる。
「無理に謁見した所で上級高位の方々のお邪魔をして不興を買うだけだよ。今は自らの職責を全うするのが最善かな」
巡検使のヒーラ・シモンズとの出会いは5年前、ただのヒーラとの出会いは17年以上前になるのか。
俺の言葉を耳にした彼女は穏やかな微笑みのまま問う。
「今行くのは面倒くさいですか」
5歳年下のヒーラに全てを見透かされているようで気恥ずかしくなる。
視線を外す為に三度、窓の外を見ると益々風雨が強くなり時折走る稲光が分厚い雲の奥で瞬いているのが歪んだガラス越しにも分かる。
本格的な嵐だな。皇宮外苑の警備をしている者は大変だろうな。
「この雨は朝まで降り続きそうだね」
「灰色の皇帝の最後に相応しい…と臣民達が騒ぐでしょうね」
彼女の発言に思わず苦笑いが漏れた。
「巡検使殿も口が悪い、非礼とも受け取られかねませんよ」
「典礼司様こそ人が悪い、御身もそうお考えでしょうに。それに陛下はそんな事はお気になさりませんよ」
今度は笑いが漏れた 。
こんな状況でも 人は笑うことができるらしい。
「フッ、相変わらず巡検使殿は手厳しいな。 もう少しお手柔らかにお願いしたいね」
「典礼司様の方が手厳しいことをお考えのように思いますが」
「大したことじゃないさ。臣民達よりもお偉方の方にこそ灰色の皇帝と騒ぎ立てる方が多いような気がしてね」
「確かに」
穏やかな彼女の返事に思わず愚痴を口にしたくなった。
「陛下は良き統治者だったよ。問題は周りの者達が良き統治者を求めていなかった事なんだ」
「はい」
またも穏やかに返事をする彼女。
陛下は財政難の中で国内のインフラ修繕の目処つけ、減少傾向にあった貿易収支を増やし僅かながらも黒字化させた。
外交面では対外援助によって周辺国家との関係の改善を果たした。
陛下が齎した30年の平和が国内基盤を安定化させ、傾きかけたこの帝国の屋台骨を支えている。
限られた予算や人材で着実な結果を残した陛下。
だが自尊心の塊である貴族達は周辺諸国が超大国である帝国の言う通りにするのは当たり前だと考えた。
援助外交や協調外交は帝国の品格を徒に貶める弱腰外交と揶揄された。
帝国が超大国であったのは50年も昔の話だというのに。
自分達の利権を脅かしかねない陛下の親政は官吏からも不評だった。
国力が減衰すると官吏に流れる袖の下も目減りした。
官吏達は自分と自分達の組織の目前の利権を守ることで精一杯で陛下の5年後、10年後、100年後を見据えた政策には非協力的だった。
親政に否定的な大貴族と官吏が情報統制を敷いたため、陛下の功績が一般の市民達に広まることはなかった。
功績を残さなくても治世が安定している幸運な皇帝との侮蔑の意味を込めて呼ばれる灰色の皇帝だが。陛下御自身は気にいってさえいた。
「白黒つけるような極端苛烈な治世は私の性には合わない。灰色がちょうど良い」
貴族や官吏の権謀術数などと意に介さず常に臣民のことを考え続けた陛下らしい考え方だった。
「王様は闇の精霊がちゃんと送ったからねぇ。トゥーリエもさみしいけど、みんなもいるから大丈夫だよ、ケイン。」
「ありがとう…」
トゥーリェにも気を遣わせてしまったかな。気持ちを切り替えて戯けて話す。
「今頃は貴族と官吏が騙し合い、空騒ぎの準備を始めている頃だろうね」
俺の言葉にヒーラは眉を寄せた。
「それでは私はそろそろ戻ります。空騒ぎを目の当たりにするのは気が進みませんがお役目上、致し方ありません」
心底嫌そうな口調でヒーラが言った。
「大司教様は教会に戻られたのかな?」
「はい。陛下をお送りした後直ぐに」
「相変わらずせっかちなお方だ。
それでは仕方ないね。お役目御苦労様。役者は揃っているから下手な三文芝居を観劇するよりは余程、面白い物が観られるかも知れないよ」
ヒーラは俺の言葉に少し表情を和ませた。
「確かに…やはり典礼司様は手厳しい。精々出演者にはならぬように観覧者として努めます。…ではまた後程。またね、トゥーリエ」
「またなの〜」
ヒーラは表情を引き締め涼やかな一礼を残して退出していった。
彼女と出会う更に前、異世界の記憶が甦った時の事を思い出す。
あれから長い時間が過ぎた。普通の者なら二十二年、俺の感覚で言うなら四十四年。
大変な苦労もしたが過ぎ去れば充実したあっと言う間の時間だった。
今日のことも振り返ればそうなるのだろうか。
「長い一日になりそうだ」
王宮上の雨雲を突き破らんばかりに堆く積み上がっているであろう書類仕事を片付けるべく俺は執務室へと向かった。
帝国暦437年5月15日
豪雨は一層勢いを増し分厚いガラス窓を打ち据えている。