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天使のキス

 これは手に巻いた包帯が蒸し暑くなる時期のお話。

 

 あの、シミズが「天使のキス」を探してる。その名が出てこなければ、いつも通りの一日になるはずだった。

「シミズって、あの清水?」

「らしいよ」

 あの、清水。有名だ。あまりヨクナイ方向ではあるが、彼女の名を知らない生徒はいない。

 水を掛けられた気分だ。楽しい午後の談笑気分は一気に冷めた。しかし、そんな僕を放って、友人たちは会話を続ける。

「天使のキスってなんだよ」

「しらねーけど、援交の隠語とかじゃね?結構稼げるらしいぜ」くるりと僕の方を向き、「なぁ、何万もらったらオッケーするよ?」

「百万」仕方なく、答える。

「やっす!」

「冗談だよ」

 用事を思い出したと言い残し、僕は席を立った。


 清水は僕にとってどういう存在だろう。友人ではない、恋人ではない。でも、それ以上に僕の心の中に清水はいる。

 中庭のベンチに腰掛け、清水は一人弁当をつついていた。うつ向き加減のせいで、長い髪がだらんと垂れて顔に影を作っている。

 近づく僕に気づいたのか、箸を置き、ふーっと息をついた。

「なんか用?」

疑問形にしては余りに尖った言い方に、言葉がつまる。しかし、ここで引くわけにもいかない。

「久しぶり、清水」

「なんか、用?」

無駄話をする気はないようだ。

「天使のキスって知ってる?」

「オトモダチかネットに聞けば?」

「援助交際、クスリ、風俗…。よく分からないけど、ロクなもんじゃないことはわかった」 

ざっと検索しただけでフィルタリングぎりぎりのサイトばかりに繋がった。

「ふーん。で、だから?」

清水は弁当をまとめ、紙パックジュースをごくりと飲んだ。

「あたしが援交してクスリやって、JKカフェで働いて、汚いオヤジに抱かれてたとして、あんたになんの関係があんの」

「カンケイはない、ない…けど、もし天使のキスってのが、本当にヤバイやつなら。そういうのはやめといた方が、」

 ぱしんっ。足元にぐしゃぐしゃに潰された紙パックが叩きつけられる。

清水はかっと目を見開き、荒々しくベンチから立ち上がった。

「かんけーねぇなら口出すんじゃねぇよ!」

 くるっと僕に背を向け、清水はずんずんと早足で去った。

 振り向きざま、清水の首筋が長い髪の隙間から覗いた。

そこには、生々しく縦に走る傷痕。

 これが、この傷痕が、僕と清水を否応なく繋いでいる。


 幼い頃、僕は原因不明の病気で入院していた。同室には、同じ症状の清水がいた。 

症状とは、首の腫れ。しかし、熱が出るとか、身体がしんどいなどといったことはなく、まるで健康そのものだった。

 同い年と言うこともあって、僕と清水は仲良くなった。

同じテレビを見て、同じ場所で遊び、同じルートで病院を駆け回り、同じ看護士さんに怒られ…。僕と清水は友達だった。間違いなく、あの時までは。

 清水が手術を受けることになった。そして、例の傷痕が残った。だが、僕は手術を受けることはなかった。なぜなら、清水の手術の結果、この病気は薬物治療でも完治することがわかったからだった。

 清水は、悪く言えばモルモットになったのだ。

 しかし、彼女に目立った精神面での変化はなかった。退院するときも、仲良く手を握り合って別れたくらいだ。

 そして時がたち、高校生になったとき、僕らは再会した。

 清水はずっと明るくイイコだったらしい。小学校でも、中学校でも。傷のことなどまるで気にしていないかのように。

 だが、そんなものは「フリ」でしかなかった。気にしていないフリ。長年、溜まっていた言葉にならないモヤモヤが、僕に再会したことで一気に噴出した。

 清水と再会した時、僕はノーテンキに笑った。そして、こう言った。

「久しぶり!髪、伸ばしたんだ。大人っぽくなったね!」

 次の瞬間、強烈な平手が僕を襲った。次に硝子の割れる音。ばらばらと破片が降り注ぐ。

 清水は僕を張り倒し、手近にあった椅子を振り上げたのだ。そのとき、勢い余って窓ガラスを割った。そこで清水は取り押さえられた。

 髪を伸ばしていたのは隠すため。

 焼けるような激痛が襲う。見ると、僕の手は硝子の破片でズタズタに切り裂かれていた。

 その傷は、未だに包帯の下にある。


 僕は町に出た。『天使のキス ○○町』。検索して出てきた場所をしらみ潰しに探す。廃墟のビル、地下のバー、ヤンキーの溜まり場の店、入れる所なら18禁の店にも足を踏み入れた。

 時に脅され、時に馬鹿にされ、時につまみ出され。それでも僕は探し続けた。名前しか確かでない、いや、存在するのかすら分からない「天使のキス」を。

 見つけたら、どうするのか。壊す?持ち去る?買い取る?あるいは僕自身も「天使のキス」の奴隷になってみる?

 清水と一緒に墜ちる?

 

 いや、違う。引き上げるんだ。清水を腐らせたのは僕だ。間接的にであろうが、なんであろうが、僕が清水を傷付けたんだ。

 あの時、僕を張った、あの時。清水は確かに、泣いていた。涙を溢さずに、それでも瞳一杯に涙を堪えていた。


「おーい」

ひどく間延びした声。声の主は、空き店舗の2階に通じる外階段に腰かけていた。ちょいちょいと、白い手が僕を手招く。

 光に釣られる蛾のように僕はふらふらと近づいた。

 声の主は、まるで玉座に腰かける王のように錆びた階段に悠然と腰をおろしていた。だが、目をひくのはその容姿だ。

 中性的で、どこか現実離れした顔立ちだ。貴族なんかを思わせる風格と、尊大さがあった。

「で、何をなおして欲しいわけ?」

唐突な言葉に、二の句が告げない。

彼、恐らく男だろう…彼はいらいらと様子を隠そうともせず、こつこつと靴をならして催促する。

「探してたんだろ?「キス」を。お望み通り出てきてやったんだ。さっさと言えよ」

「お前が、「天使のキス」?」

「ああ。自分で自分のこと天使なんて言うのもアレだから、俺は「キス」っていってるけどな」

 からかっているのか。しかし、彼には有無を言わせぬ威厳がある。もし、冗談だろ?などと言えばそのまま、ふいっと消えてしまいそうな予感がした。

「なおすって言ってたけど、「天使のキス」ってのは、その、なおす、モノなのかい?」

「そうだ。望めばなんだってなおしてやるよ。有形無形問わずな。ただし、ひとつだけだ、何個も何個もってなるとダルい。あと、また後日出直しますってのもナシ。めんどくせーから」

 なんでもなおす。なんでも治す。それが「天使のキス」。

 答えなんて、決まっている。

「清水の、清水香織の傷を治してくれ」

「無理」

 難しい顔をして、彼は即答した。僕は思わず一歩詰め寄った。

「なんでもって言ったろう!」

「いやーちょっと諸般の事情があってな。シミズカオリの傷は治せねーんだわ。てか、他人の傷の前に自分のを治せば?」

ちょいちょいと包帯でぐるぐる巻きの僕の手をつつく。

 その時、彼は瞬間、固まった。そして、「あぁ…」となにか得心がいったらしい。一人で納得したようだ。

 僕はさっと手を引っ込めた。硝子片でズタズタになり、跡が残りはしたが、そんなものはどうだっていい。

「頼む。治すのが無理なら、清水の傷を俺に移してくれてもいい」

「本人がそれを望んでねーんだわ。いくら俺が天使だからって、本人が「治さなくていい」っつったものは治せねーよ」

「清水が、そんなことを…?」

清水はもう会っていたのだ、「天使のキス」に。

 彼はうんうんと頷き、言葉を続ける。

「昨日だな。シミズカオリが来たのは。で、俺は確かに直してやってたよ、シミズカオリが治して欲しいって頼んできたものをな。もちろん、首のキズについても聞いたが、断られた。「これは友達を傷付けた罰だから、治さないでくれ」ってね」

 僕の世界がぐにゃりと溶けたように感じた。

 罰?罰だって?違う、清水、それは違う。その傷は、鎖だ。棘のついた鎖。清水を絡めとっていつまでも苦しめる呪いだ。

「で、どうするよ?」

彼はいくぶん柔らかい口調で僕に話しかけてきた。

 なおして欲しいものなど、ない。僕の手の傷痕など、どうでもいい。

 断ろう。そう思ったとき、ふとした思い付きが降ってきた。

「有形無形を問わないっていったっけ?」

「ああ」

僕には、なおして欲しいモノがまだあった。いつしか壊れてしまったモノが。

 僕は彼にそれを直して欲しいと頼んだ。


 翌日、よく晴れた日だった。はっきり覚えている。

 清水は昨日と同じように弁当をつついていた。

「清水」

清水はちらっと横柄に視線だけを寄越してきた。

「清水!頼む、聞いてくれ」

 ようやく清水は箸を置いた。

僕は必死だった。今日のこの瞬間を逃せば、僕は、いや「僕ら」は一生傷を引きずって生きることになる。

 僕は手に巻かれた包帯をほどいた。その下には、傷痕がある…はずだった。しかし、僕の手は、「あの時」以前のように傷ひとつもない、つるりとした状態だった。

 清水が「天使のキス」で治したのは、僕の傷だった。

「ありがとう」

「…」

「どうしてもお礼が言いたかったんだ」

「別に…」

 沈黙。清水は僕から目線をきった。

 僕は大きく息を吸った。心臓がどくどくと暴れまわる。今しか、ないんだ。

「ごめんなさい!」

 びくっと清水が飛び上がる。自分でも驚くほどの声が出た。

「な、なに急に、びっくりした」

「俺があんな無責任なこと言って、それで清水が怒んのは当然なのに、なんか、清水が悪者みたいになって、なのに俺は、俺はなんにもしようとしなくて」

あの事件以後、どんどん孤立していく清水。一方の俺はまるで被害者のように扱われた。

 サイテーなのは俺だ。その言葉が出なかった。

「本当に、ごめんなさい!」

 俺に今できるのはこれしかない。頭を下げる。

 永遠にも感じる時間が過ぎた。

 すんすんと鼻をすする音に、思わず顔をあげる。

そこには顔をくしゃくしゃにして涙を流す清水がいた。なぜか幼い頃の彼女とダブって見えた。

「ごめんなさい、私の方こそ。あ、あんなヒドイことを」

泣きじゃくりながら清水は、それでも言葉をつむぐ。

「分かってたのに、首の傷は、誰のせいでもないってことは。…あのあと、もうどうしていいか分からなくなって。ホントに、私こそ、ごめんなさい!」

 気づくと、俺は泣いていた。何が悲しいわけでもなく。ただ単に感情の制御が効かなくなっていた。

 僕も、清水も落とし処を逸してしまったのだ。そしてようやく今、かけ違っていたボタンが収まるべきところに填まった。そんな気がした。

 その後、僕と清水は学校を抜け出し、公園のベンチで色々な頃を話した。病院で別れて以降のアレコレを。まるで、今までの分を取り返すかのように。


「そういえば、彼には何をなおしてもらったの?」

清水の傷を治すことはできなかった件を話していたとき、この話になった。

「んーそれは」

少し話すのは照れくさい。清水は何度か食い下がってきたが、結局僕はうまく逃げ切った。

 まあ、面と向かってはいいずらい。

 「友情」を直してくれ、なんて頼んだことは。そして、早くも「天使のキス」はその効果を表してきたようだ。


 これは手に巻いた包帯が蒸し暑い時期のお話。


「私、髪切ろうと思うんだ」

清水が空を見上げていう。表情は晴れ晴れとして、影はもはや見当たらない。

「だってもう夏だし!」

にっこりと笑う彼女は、かつての明るさを取り戻してきている。

 似合うかな?少し不安げに尋ねる清水。

「きっと似合うよ」

 自信をもって言える。元々清水はショートの似合う明るく、元気な娘だったから。


 そして、蒸し暑い時期は終わりを告げ、夏がやって来る。

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