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あらいぐまの憂鬱

 あらいぐま。それが新井千夏のあだ名だ。

彼女は昔からあらいぐま、などと呼ばれていたわけではない。高校に入りたての頃は、なつ、とかそんなありふれた、しかし愛嬌と親しみを込めたニックネームだった。だが、あらいぐま、は違う。そこには彼女を陰で指差し嘲笑う響きが込められていた。

 呼ばれるようになったきっかけはささいなことだった。

ある体育の授業後、新井が友人たちと話していると、別グループの女子が何気なく、

「てか、新井さんの手汚れてるー、」といったのだ。

確かに、新井の手は、授業の時についたのだろう、微かに汚れていた。

 汚れ自体はすぐに落ちた。しかし、言葉は新井の心にこびりついてしまった。

 その時から新井は汚れ、に過敏に心がざわつくようになった。

 授業が終わる度に手を洗いにいくのは当たり前、チョークなどに触れようものなら休み時間ぎりぎりまで洗ったとしても、どうしても手が汚れているようで落ち着かないのだ。

 そしてその症状は新井の家のなかでも収まらない。

 帰宅した父が手を洗わずに家の中のモノをベタベタ触るのを見ると、どうしても気になってしまう。仕舞いには、母が素手で食材を触って調理しているのをみると、そのご飯に手をつける気にならなくなってしまった。

 新井自身も、この症状をバカらしいと思っている。手なんて何度も洗う必要はないし、自分が汚れていないこともわかっている。だが、どうしても落ち着かない。

家のなかでは、なるべく我慢しているが、母の手料理を前にどうにもならないほど、「症状」がひどいときは、調子が悪いとうそをつき、自分の部屋でこっそりコンビニ弁当を食べた。

そんなことをした夜は、罪悪感で一晩中泣いた。

 

 ところで新井には彼氏がいる。別クラスの同級生で、まだ三ヶ月の付き合いだ。

 付き合うようになったのはあらいぐま、などと呼ばれるようになる前。新井はそのあだ名のことは黙っていた。だが、うすうす勘づかれていることには気づいていた。

 放課後は二人で帰るのが日課だった。その日も校門近くで待ち合わせ、肩をならべて歩いた。

 新井にとって彼は初めての彼氏だった。付き合いはじめた三ヶ月。以前は、そろそろ手を繋いでも、などと浮かれていた。しかし、今はそう考えることもしない。新井が意識して考えるのをやめていた。 

もし、手を繋いでそれを汚い、と感じてしまったら。そう考えるだけで泣きそうになる。

 微妙な距離を保ったままいつもの分かれ道にさしかかった。

 いつもなら、バイバイ、だ。

 「千夏」

ふいに彼が新井の手をつかんだ。

突然のことに新井は固まった。

「千夏がどう思ってても、千夏は、、きれいだから」

 突然の宣言に新井は頬が熱くなるのがわかった。一方の彼の方もみるみるうちに赤くなっていく。それでも視線はまっすぐに新井に向けられていた。

「ありがとう。ほんとに、ありがとう」

 涙がこぼれるのをみられるのが気恥ずかしくて新井は横をむいた。  

 彼の手はあたたかい。手汗だって、正直すごい。でも、新井はそんなことは、ぜんぜん気にならなかった。


 あらいぐま。それが新井千夏のあだ名だった。

 何気ない言葉がきっかけで新井を縛っていた「症状」は、いまはもう姿を消した。

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