マーメイドインプール
プールで生徒が勝手に泳いでいる。
夜、残業ついでに屋上に向かう。形だけの水泳部顧問の僕。これだから生意気なガキの相手なんて嫌なんだ。
屋上プールは夜と昼とで顔を変える。昼間はぎゃーぎゃーとやかましいガキで騒がしい。しかし、夜はまるで地獄の釜めいている。
プールに視線を配りながら、プールサイドをぺたぺた歩く。
誰もいない。黒く透けた水が、風で水面をたてているだけだ。
ガセネタじゃねぇか!
「クソがっ!何でこんなことしねぇといけねぇんだ。顧問なんか引き受けるんじゃなかった!」
プールサイドで胡座をかき、タバコに火をつける。
「暑いし、じめじめしてるし。まだマシなのは水着姿みれることくらいじゃねえか」
高校生ともなれば体つきもそれなりになる。それを間近に見て、彼女のいない自分を慰める道具にする程度だ。
「あーあ、せめてポロリくらいねぇとやってられねぇよ」
「ビキニじゃないんだからそれはムリがあるねー」
にょき。もぐら叩きみたく、突然水面に女の顔が現れる。
口から落ちたタバコがももを焼く。
「きゃは!ポロリさん、すーごいアホなかおしてるー」
後ずさる僕。水面の顔は、プールサイドに取り付き、まるでお風呂でくつろいでいるような体勢をして、ウィンクをする。
「お、おいっ」
絶対に人には聞かせられない毒を聞かれた。その羞恥で耳が火照るのを感じる。しかし、引くわけにはいかない。
「いま、何時だと思ってるんだ!出ろ!」
「ひひっ。いまさらとりつくろってもおそーい」
意地の悪い笑みを浮かべて水面の顔が言う。
「まぁでも顔をたててあげーる。よーいしょっっと!」
縁に手をつき、ぐっと水面から身体を引き上げる。
僕を再び衝撃が走る。
暗がりだからこそ際立つ肌の白さ。引き上げられ、露になったその上半身は、なんと裸だった。
思わずその体に目が奪われる。
女はそんな僕を見てまたしてもにまーっと笑う。
「きゃは!ポロリさんわかりやすーい、めがえろいよー」
こいつ、からかってやがる!
一言言ってやろうと口を開いたが、僕はこれ以上発することはできなかった。
女はその肢体を全て露にした。プールサイドに横たわり、やけに楽しそうだ。
上半身は、布っ切れひとつない完全な裸。そして、下半身は…。
「さ、さかな…、う、ウロコが…」
「ん?そーだよ。いろぽっーい、でしょ?」
びったんびったん。鯛を思わせるその下半身を床に叩きつける。
若い男として、女性の身体に興味がないことは絶対ない。しかし、下半身が魚であるというその一点が加わったことで、一気に性的な欲が引っ込んでいく。
いま、僕の目の前にいるのは半裸の女性ではなく、言葉を発する謎の生物だ。
逃げよう。勢いをつけ、立ち上がろうと力を込めた瞬間、女が甲高い声をあげた。
しかしてそれは「言葉」として意味を成したものではなかった。少なくとも僕にはなにか意味のある言葉には聞こえなかった。
だが、女の声は僕から力を奪った。
へなへなと腰砕けになり、僕はへたりこんだ。
「きゃは!べつにたべたりしなーいから、おはなししーましょ、ポロリさん」
八重歯をちらり。女の笑みは幼子の無邪気さと娼婦の色気を備えてみえた。
「お、お前、誰…いや、何だ?」
「なんにみえる?うっふん」
豊かなむねを自分で揉みしだく。普段なら興奮間違いなしだが、今は化物に触手を伸ばされたようでぞっとする。
「…」
答えに窮する。答えを発した瞬間に取って喰われそうだから。
黙り込む僕をみて、女は自分の身体に僕が釘付けになっていると思ったのか、やけに上機嫌だ。
「きゃは!このおっぱいすごーくいいよねー。よーくかんさつしてマネしたーんだよー」
「そ、そう、だな」期限を損ねないように、相づちを打つ。
「きゃは!あーりがと。そーだ!ちゅーしてあーげる」
ずるりっ…。匍匐前進の要領で、女が這い寄る。
磁石の対極のように、僕は後ずさる。
女の顔から笑みが消える。スイッチを切ったように、表情が曇る。
「なんで?」
買ったばかりの包丁が脳裏に浮かぶ。よく光るそれが首に当てられたような感覚。胃の腑がざわつく。
「ちゅーしたじゃんきょうもきのうもおとといもなんどもなんどもなんどもなんども!わたしでからだあらったじゃん!わたしをのんだじゃん」
泥のような粘着質な声で、叫ぶ女。
意味不明な内容。しかし女の狂気は増していく。
「わたしはあなたのからだのすみずみをしってる!あなたのくちものどもしんぞうも!わたしはあなたのぜんしんをめぐりめぐってる!わたしはあなたのはいせつぶつまでうけとめてる!だいもしょうもそれいがいも!わたしはあなた!わたしなしじゃあなたはいきられない」
もはや生物とは思えない。こいつは、それを越えたナニかだ。
女の目がぎらりぎらりと光る。
「わたしをこばむの?」
不意に女の手が僕に触れる。ヒヤリとしている。濡れた布を当てられたような、いや、むしろ水そのものを掛けられたような感覚。
女の顔がどろり、と溶ける。
「おぼえてて」
雪だるまが溶けていく様を早送りで見ているような。
「わたしはいつだってあなたのそばにいるあなたがいきてるかぎりわたしはあなたのものあなたは」
もう、何が何やらわからない。原型すら、ない。
「わたしのもの」
そこには夜の闇を吸い込んだような、黒く透けた水溜まり。
僕は教師をやめた。今は別の職に就いている。
外回りの最中、公園でペットボトルの封をきる。
ごくり。水を飲んだとき、微かに口内で水が震えた。
気のせいだ。きっとそうだ。きっときっときっときっときっときっときっときっと。
ねぇ、ポロリさん。
不意に誰とはなしにそんな台詞が口をついた。




