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ヒトの時代、人魚の時代

 人魚が、ヒトの町に転移してしまった。人魚の保護のため、役所の職員全員が駆り出された。

 見つけた。町中にポツンと建つ貯水タンクの中から、顔だけを覗かせている。

 僕は人魚に近づいた。

「○役所の者です。海へお送りいたします」

 人魚はじっと僕をみ、そして頷いた。

 僕は人魚を軽トラの後ろに乗せ、そのまま海へ車を走らせた。


「ありがとうございます」

人魚の声が脳内に響く。いわゆるテレパシーだ。人魚は言語能力が退化したかわりに、このような力を得たのだ。

「いえ、お気にせず」僕は窓を開け、応じる。人魚は耳がよいので、大声を出す必要はない。

「失礼ながら、なぜヒトの町などに転移されたのですか?」

 転移もまた、人魚の能力のひとつだ。その精度は高く、失敗など万一にもないと聞いている。ただし、転移にはかなりのエネルギーを消耗するらしく、そのため、貯水タンクから動けなくなったのだろう。

 しかし、不可解だった。転移の制度の高さを考えると、荷台に乗る、この人魚は自ら進んでヒトの町に転移したことになる。

 人魚からの返答はない。

 話は変わるが、一般に人魚というと、半人半魚を想像するかもしれない。しかし、実際にはアシカを思い浮かべてもらいたい。

「…ヒトの町が、懐かしくなったのです」

人魚がぽつりと話しかけてきた。

「懐かしい?するとあなたは」

「ええ。私は後発組なのです。人魚になってはや5年。もう、すっぱりヒトへの未練は絶ちきったつもりでいました。しかし、海底に沈んだかつての町の名残を見てしまい、胸を締め付けられる想いがしました。それで、つい…」

テレパシー越しでも、悲痛な気持ちが滲み出ている。僕は返す言葉もなく、ただただアクセルを踏み込んだ。

 沈黙の中、車の走る音だけが響く。

「役所の方、あなたは遺伝子組み換えカプセルには?」

人魚が再び口火を切る。

「いえ、私はもうヒトとして死のうと思います」

どのみち、あと2、30年後には、地球に残された僅かな大地も海に沈む。そして、その時が、ヒトの最期だ。

 時代の波に対応しなかった、ヒトという旧人類はまもなく滅び、そして人魚という新人類の時代が幕を開ける。

「ヒトの時代の末期は酷いものでした。だけど、最後の最後にヒトは、唯一偉大なことを成し遂げました。それが、あなた方、人魚を産み出したことです」

 崩壊したビルを横目にハンドルを切る。

 大穴の空いたビル。家に突っ込んだ戦車。積み上げられた銃の山。ヒトの罪の跡が、町の至るところに点在している。

「ヒトは、同じ種の中でさえ、手を取り合えない愚かな生き物でした。でも、人魚は違う。そうでしょう?広い海のなか、人魚たちは上手くやっている」

「ええ。いまのところは」人魚が静かに応じる。「しかし、時折どうしようもなく苦しくなるのです。大地を踏みしめていた、あの時代を思いだし、帰りたいと心が騒ぐのです」

「人魚たちは陸に来るべきではありません。あなたたちが踏み入れるには、この地上はもはや汚れすぎています」

「それでも、です。本能、とでも言うのでしょうか。特に後発組のわたしのようなモノには、あの大地の記憶が刻まれているのです」

 僕はかつての記憶を思いだし、心に暗雲が立ち込めた。煙、血、痛み、涙、汚れ、そして、死。僕にとって、過去、この大地の上で起こったことは羨望を呼び起こすものではない。

 荷台の人魚は、それでも懐かしいという。人魚になってから5年ということは、ヒトの末期のことを知っているはずなのに。

 理解できない。

「役所の方、あなたはヒトを愚かと切って捨てています。しかし、ヒトはそれほど酷いものでしたか?あなたの記憶の片隅にでも、宝石のような綺麗なモノはありませんか?」

「ないです」

だから僕は人魚になることを拒んだ。人魚となって生き永らえれば、穢れたあの歴史を思い出すことになる。それだけは耐えられない。

「しかし、誤解しないで頂きたいのです。私は人魚のことを、そして人魚に成ったかつてのヒトのことを、どうこうとは思っていません。ヒトという種が絶え、人魚という種がそれに代わって地球の覇者になる。ただそれだけの話です」

 人魚は沈黙したまま。

 やがて、海が姿を現した。いまや、この地球の9割を覆う、巨大な海。国境も、いさかいもない。そんな海が、姿を現した。

 僕は車を停めた。

「さあ、お帰りください」

 人魚は器用に荷台から飛び降りると、ペタペタと浜辺を進む。

「役所の方」僕に背を向けたまま、人魚がテレパシーで話しかけてくる。

「ヒトは、人魚など産むべきではなかったと思いますか。陸地が海に沈み始めたのは、神なる何かが、いえ、この地球がヒトに滅びろと声なきサインを送ってきたのだと思いますか」

「過去の議論です。答えはもう出ています」

人魚はぴたりと動きを止め、やがてまた進み始めた。

「そう、でしたね。こんな水掛け論、もはやなんの意味もないですね。…では、さようなら。そして、ありがとうございました」

「ええ、お元気で」

 人魚は海に消えた。

 僕はしばらく海を眺めていた。やがて、それにも飽き、車に乗り込んだ。

 ちょうど日は落ち、黄昏の時刻。もはや二度と来ないヒトの夜明けを想い、僕はひとつため息をついた。

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