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スカーフと牙

 クロエは重宝されていた。N・K出版は海外の専門書を取り扱う小さな出版社で、各国の言語に現代、古典を問わず通じるクロエは得難い人材だった。故に彼女が黒い髪と黒い瞳を持つ、素性の知れぬ異国人であったとしてもクロエは職を、給金を得ていた。

「クロエちゃん、そろそろあがんなよ、暗くなる前にさ」

だいぶ薄くなったブロンドの髪を横になでつけた恰幅のよいN・K出版の社長、ニコルが年季の入った時計を見ながら言った。

「もうそんな時間ですか」クロエが抑揚のない声で呟いた。

「最近、物騒な事件が起きてるだろ。連続髪切り殺人鬼とかさ」

髪切り殺人鬼。若い女性ばかりを狙った殺人鬼で、被害者の死体からは髪の毛が切り取られているという。

「そうよ。明日からはもっと早めに上がってくれていいからね」ニコルの妻、コーニーが夫を眉をひそめる。

「こんな若くてきれいな子を遅くまで働かせて、襲われでもしたらどうするつもり」

これは長引きそうだな、とクロエは思った。手早く荷物をまとめ、扉に向かう。

「お疲れ様でした。また明日も宜しく御願いします」

ほそみの身体でぺこりと挨拶を述べ、クロエは扉を押しあけた。

その首には柔らかな黒いスカーフが巻かれていた。


 ロイは重宝されていた。まだ声変わりもしていない年頃ではあったが、彼はよく働いた。屋根裏のネズミ退治から迷い猫探しまで、仕事と言えないようなものでもなんでもこなした。とにかく大家であるジャックの頼みであればなんでもやった。とはいえロイがジャックの依頼を受けるのは夜だけであった。昼間は家賃のために内職をしていたからだ。

「悪いね」

飄々とした物言いがジャックの特徴だった。洒落たネクタイに赤みがかった髪は今風に少し乱している。

「いえ」ロイはジャックから掃除道具を受け取った。屋根裏の掃除道具だ。

「こうして住む場所をもらえるだけで有難いお話です」

幼い見た目に反してロイの口ぶりは落ち着いている。さらさらの金色の髪が揺れる。


 クロエは小走りにアパートに向かっていた。コーニーさんの言うように明日以降は少し早めに帰ろう。確かに暗くなるのが随分早くなっている。

まばらな街灯がやる気なく路上を照らす。昼間と違い、夜は人通りが少ない。

路地裏に入ろうとした瞬間、不意に声がかかった。

「お嬢さん」

振り向くと2人組の男たちが立っていた。クロエは足をとめた。

「なんでしょうか。お巡りさん」

灰色の制服を身にまとった警官たちがじろじろと無遠慮にクロエに視線を向けた。

「仕事帰りかい?」

「えぇ、出版社で雇って頂いています。なんなら社員証もお見せいたしましょうか」

「その会社の名前は」食い気味に警官が口を挟む。

クロエは内心ため息をついた。慣れた事とは言えやはり異国人の自分は浮いている、改めてその現実を見せ付けられる。

N・K出版の名を出し、その後クロエはようやく解放された。犬でも追い払うかのようにしっしと手を振られた。


 夜更け。クロエとロイは狭い部屋の中向き合っていた。

「少し疲れているね」

「いえ、そんなことは」クロエが首をふる。ひらひらとスカーフが揺れる。ロイは目を細めた。

「今日はもう休んだほうがいい。お願いだ。ただでさえ無理をさせているのだから」

哀願するようなその響きにクロマはしぶしぶといった様子ながら頷いた。

 寝室、といっても一つの部屋をカーテンでしきっただけだが、でクロマはスカーフをほどき、その細い首筋をそっとなでた。慈しむように、いたわるように。

カーテン越しにかすかにロウソクの明かりが漏れ出しているのがわかる。

 N・K出版の海外の難解な翻訳はロイがこなしているのだった。


 疲れていない、といえばうそになる。ここ1年の間にクロエに降りかかった労苦は相当なものだった。

でも、とクロエは思う。ロイさまの「疲れ」とは比較することもおこがましい。自分の今やっていることはN・K出版で働いていることなどは、例えるならば幼児が家事の一部を手伝って、親に褒めてもらいたがっているようなものだ。役には立っているが、そう大したことでもない。

 この国は、この街は異国人であるクロエに冷たい。戦争のせいか、最近話題の殺人鬼のせいか、どこか排他的な空気が漂っている。その空気は四方八方から形を変えてクロエを圧迫している。身体的にというよりは精神的な疲れがたまっているのだと、クロエ自身は考えていたし、そう間違っていないとも思う。

 N・K出版の雑多とした狭いオフィスでクロエは黙々と翻訳をしていた。クロエ自身もかなり高い教養を持っていた。それでも対処できないようなものをロイが補助しているのだ。

その日の夕方、納期までかなりの余裕をもって翻訳を終え、クロエはそれをニコルに手渡した。

「相変わらずなんだが、すごいな。細かいチェックは後ほどやるとして、いやはや・・・」

ぽりぽりとニコルは頭をかいた。

「ありがとうございます」クロエは頭をさげた。

ニコルは本を脇に寄せた。いつの間にか、コーニーそばにきていた。

「うちのとも話し合ったんだがな、クロエちゃん」ニコルが神妙な面持ちで口をひらいた。「うちは2階が居住スペースなのは知ってるよな、そこに客間があるんだが、そこに弟くんと一緒に越してこないか」

唐突な申し出にクロエは驚いた。二の句が告げずにいると、コーニーが会話の穂をついだ。

「今住んでる所、あんまり治安のいい所じゃないでしょ。最近は物騒だし。それに、そこの家賃も少し、その、、」さらにニコルが後をつぐ。「足元見られてる」

確かに生活費のほとんどを家賃に費やしている。

「でも、それは私が異国の出身で・・」

「それのなにが関係あるんだ」いつになくニコルが強い口調で断言した。

「俺たちは、姉弟2人で慎ましく真面目に働いてるそんなクロエちゃんと弟くんの力になりたい、そう思ってんだ。この国の人だとか、異国の人だとかは関係ねぇ」

「そうよ。クロエちゃん。今すぐ返事しろなんて言わないから、今日はもう上がって。そして弟くんと相談してから返事をちょうだい、ね」

2人の言葉が水が地面に吸い込まれるようにクロエの心に染み込んだ。クロエはうつむいた。

「はい。ありがとう、、ございます。また明日、お返事、させていただきます」

赤くなった目を見られたくなかった。潤んでいるのを見られたくなかった。

 路地裏のアパートまで慣れた道を歩く。クロエは少しぼんやりしていた。なんだか夢のようだ。ロイさまもきっと喜んでくださる。

「嬉しそうですね、クロエさん」

振りかえると、洒落たハットを被った、大家のジャックがいた。


 ロイは屋根裏で腹ばいで掃除をしていた。小柄なロイでも窮屈で難儀な掃除だった。

まぁ、日が当たらないのが救いか、などと考えていると不意にめりめりと不吉な音がお腹の下から響いた。

まさか。そう思った瞬間、ロイは屋根板とともに階下に落下した。


 「なるほど、引越しですか」ジャックは紅茶に口をつけ、つぶやいた。

すっかり日が傾き、夜が訪れた時間、クロエはジャックの部屋でことのあらましを話していた。家賃のことなどは伏せていたが、、。

「どうぞ」ジャックが紅茶を進める。視線はクロエに向いているが、心ここにあらずといった様子だった。クロエは勧めらるまま、断りきれず紅茶に口をつけた。飲み慣れていないせいか、すこし苦い。

「まぁ引越しはご自由に」突然、そっけなくジャックが言った。

「ありがとうございます。それから、いままで親切に、」

「異人のあなたたち姉弟に行き場があるのは正直驚きですがね」

刺のあるいいようにクロエは思わず黙り込んだ。その言葉には異人風情が、という侮蔑的な色があった。

「しかし惜しい。実に惜しい」

「・・何がでしょうか」

早く部屋に、ロイさまのいる部屋に戻りたい。クロエはそう考えていた。

「あなたのことですよ、クロエさん。あなたは本当に美しい人だ」

話の繋がりが読めず、クロエは眉をひそめた。ジャックは構わずしゃべり続ける。

「顔立ちもいいが、その髪ですよ。髪。正直、金色だの銀色だの赤色だのには飽きあきしてたんですよ。これからは黒だ。そう思うでしょう、ね。ところで、、、全身そうなんですか、下とかも」

頬がさっと赤くなるのがわかった。羞恥よりも怒りが先に湧き出る。

出ていこう。クロエは立ち上がろうとしたが、力が入らない。声も、でない。舌が痺れ、力が抜ける。

「まぁ、いいですよ。答えてもらわなくても。自分で確かめる方が好きですしね」

悪魔的な笑みでジャックがのっぺりとワラッタ。

 椅子に縛られている間、意識だけはあった。ジャックはままごとをする子どものようにはしゃいでいた。

「クロエさん、初めてあなたを見た時からこうすることを決めていました。異人を留めるなんてまっぴらでしたが、今回は特別ってことでの、というよりこれでちゃらです」

ジャックの手がクロエの髪に触れる。虫唾が走る。が、どうすることもできない。その手がゆっくり下に向かい、首に巻かれたスカーフで止まった。

心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。

「・・・ところでこのスカーフですが、別に流行りってわけでもないのになぜあなたはいつもつけているのですか」

いやだ。それだけはいやだ。いやだ。嫌だ。イヤだ。厭だ。

クロエの目から明確な拒否を見てとったジャックはにやっと笑った。いたずらっこのような表情で、スカーフが取り除かれる。

 「これは、、」ジャックの表情が歪む。

 そこには針で刺したような生々しい傷あとが2つ。クロエは目の前にいるジャックを、動けない自分自身を呪った。

「吸血の痕、、、じゃああなたは、吸血鬼のパトロンなのですね。なんと、おぞましい」

怒りや羞恥、なにより悔しさで景色が滲む。こんなやつに「痕」を晒すなんて。

「でも、だとすると吸血鬼は、まさか」

 その時、ドアに乱暴に開けられた。


 ロイは椅子に縛られ、スカーフをとられたクロエを見、ここ最近感じたことのないほどの怒りが湧き上がるのを感じた。

細身の剣の鞘を抜き払い、ジャックにつきつける。が、難なくさけられ、横っ腹を蹴り飛ばされた。ロイは吹っ飛び、クロエにぶつかった。そのまま2人して床に叩きつけられた。

「剣に振り回されるようなお子様が吸血鬼、ですか」ジャックがナイフを腰元から抜き放つ。「軍人になんかならずに吸血鬼ハンターにでもなった方がよかったですかね。まあ、ナイフの使い方は学べましたがね」


 クロエは椅子に縛られたまま倒れた。とっさにロイが腕をクロエと床との間に差し込まなければ強打していただろう。

「ロ・・イ、さ、、」

口が上手く回らない。だが、そんなことは言ってられる状況ではない。

「クロエ、すまない」よろよろと立ち上がる。剣を構える姿が痛々しい。

「だ、めで、す。『その、ま、ま』では」

『そのまま』ではこの状況を抜け出せない。

 ジャックが一歩踏み出す。他愛ないと思ってはいても、吸血鬼を警戒しているのだろう。

「か、噛ん、で」


 「か、噛ん、で」

ロイにはそう聞こえた。ロイは考えた。このままでやつを倒せるか。死体の髪を集め、それを自身のアパートの一室に保管するようないかれた元・軍人に。なにより・・・。

 クロエを守れるのか。

 ロイはとっさに手元にあった机のシーツを引き抜き、ジャックとの間に壁をつくるように投げ広げた。

「許してくれ、クロエ」

クロエの細く、白い、そして自身が過去につけた傷痕の残る首筋に牙を突き立てた。

 例えば砂漠に放り出され1週間ぶりに飲む水のように、あるいは断食が解除されて始めて食べる食べ物のように、クロエの血液は全身を巡って、ロイに、場違いなほどの恍惚をもたらした。

曇り空から晴れになるように視界は澄み渡り、耳栓を抜くように聴覚は研ぎ澄まされ、錆び付いた歯車に油を指したように関節に力がめぐる。

 そして何重にも鎖を巻いて閉じていた箱を開けるように、自身の奥底で眠っていた本能が顔をのぞかせた。

 ジャックが駆け出したのがわかった。おれが逃げるとでも考えたのだろう。ロイは床の剣を、いまや腕の長さほどの使い慣れたそれを握り締め、さきほどとは比べ物にならないほどの勢いでシーツを、そしてその先にあったジャックの足を貫いた。

 

 不意の一撃に崩れ落ちたジャックは信じがたい光景を目にした。そこにいたのは、クロエを片手で抱え、もう一方の手で剣を握っているのは、ロイと呼ばれる少年の姿ではなかった。

すらりとしつつ、彫刻のように無駄のない体つきの青年。見とれるほどのブロンドの髪をなびかせ、悠々と部屋の片隅に歩いていた。そこにクロエを絹を扱うようにそっとおろした。

痛みをこらえ、ジャックが立ち上がる頃にはクローゼットから軍服を取り出し身にまとっていた。

軍神。不意にジャックの脳裏にそんな言葉が浮かんだ。

「さて、」低いがよく通る声で吸血鬼が口をひらいた。その瞳は月のそれのように神秘的な光を放っていた。「やり合おうか。まさか無抵抗なやつしか相手にできないわけじゃないだろう」


 怒声とも嬌声とも奇声とも聞こえる、獣じみた声でジャックがナイフを振りかざす。鈍い動き。肩口を狙った突きは、寸分の狂いなく目標に刺さった。引き抜き、間髪いれずもう片方にも突き刺す。先ほど貫いた脚を払い、床に押し倒す。ちょうど床に縫い付けるようにジャックに剣を突き立てる。

「や、めてくれ」

「なにをだ?まさか今更命乞いもないだろう」

「血を吸うのだけは。化物、、いや、吸血鬼にはなりたく、ない」

ロイのなかで苦い想いが広がる。つまり不快感が湧き上がった。

「お前の血を吸うなど、こちらから願い下げだ。これまで辱めた人とそしてクロエに詫びろ」

ジャックの中指の骨を躊躇なく折る。これでもうナイフは握れない。

痛みと恐怖が臨界を超えたのか、ジャックは短くさけび声をあげたあと、二度とは声を出さなかった。

 ロイは立ち上がり、ジャックに一別をくれた。あとの裁きは「人」に任せよう。こいつを生かすも殺すも「人」次第だ。ロイはクロエに駆け寄った。

 

 壁にもたれ浅い呼吸を繰りかえし、弱々しくではあったがクロエは微かに微笑んだ。

「ロイさま、ご無事でなによりです」

「おれのことはいい。それより大丈夫か。頭をうったりとかは・・・」

「それは問題ありません。それより、その、スカーフをとっていただけませんか」

ロイがスカーフを拾い、それをクロエに差し出す。クロエは宝物のようにそれを胸元に抱き寄せた。

「すまない。クロエ。また『痕』を」

クロエの首には4つの穴、『痕』が生々しく刻まれている。この『痕』は消えない。だからこそ、かつては奴隷の証などど言われていた。だが、なにより身体に傷をつけられることを喜ぶものなどいないだろう。

 クロエは首をゆっくり振った。

「いいえ、ロイさま。わたしは『痕』が増えたことは気にしておりません」

「だが、きみはいつも家の中でもスカーフを巻いているじゃないか」

クロエの頬に朱がさし、ロイから視線を外した。

「いくらお慕いしているひとの前であったとしてもはだかで過ごしたりはしませんでしょう。わたしにとってこの『痕』を晒すのは、はだかを晒すようなものなのです。だってこの『痕』はわたしとロイさまとの繋がりですもの」

潤んだ瞳でクロエがつぶやく。反則だ。ロイはそう思った。こんなことを言われるといくら長寿で様々な経験をしてきた俺でも免疫がない。耐性がない。

 ロイはクロマを抱き寄せ、そのまま口を・・・・・。

 不意にロイの身体が重くなっていく。なんと表現すべきか、身体のなかに水を注ぐように、鉛を注がれているような。いや、この場合は・・・・・・・・・・・・・・。








 N・K出版の2階。客間のスペースには異国からきた姉弟が住んでいる。

「まさか、あのタイミングでこの姿になるとはな」声変わりもしていない、ブロンドの髪の少年が一人つぶやく。クロエは黙っている。冷静になってみて急に恥ずかしくなったのだろう。なんでもない風を装っているが耳たぶが赤い。その首には黒いスカーフが、空いた窓からの風に揺れていた。

「いろいろな文献を調べているがやはりこの症状を治す方法は見つからないな」

やはり始祖さまを頼るしかないか。ロイは一人そんなことを考えていた。

 だけどまぁ。『連続髪切り殺人鬼逮捕』の見出しが踊る新聞をたたむ。ふと視線をやると、クロエが窓際に腰掛け、コーニーさんのクッキーをつまんでいた。

しばらくはこういう日常もいいかもしれない。

「クロエ、買い物に付き合ってくれないか」

「はい。ロイさま。なにを買われるのですか」

「スカーフ。たまには気分を変えるためにと思うんだが、どうかな」

クロエは微笑んだ。黒い髪をなびかせ、黒い瞳を細めて。

「えぇ。喜んで」






 






 

 






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