ユキコさん
303号室の上島さんの最期を看取ったのは、○○病院の清掃員である私と、たまたまお見舞いに来ていた高校生の志穂さんだった。上島さんの娘さんだ。
「ユキコ」
私と志穂さんが傍らにいたことに気づいていたのかいなかったのか。定かではないが、それが上島さんの今際の言葉になった。わずか55歳の生涯だった。
上島さんの言葉、実の父親の言葉に志穂さんは目を見開き、やがて何かを握りつぶすようにつぶやいた。
「誰、その人」
私が知っている範囲だと、上島さんの奥さんは3年前になくなり、名前は小夜子さんだったはずだ。
その後のことはよくわからない。ただの清掃員である私に上島家の内情などそうそう知りようがない。
ただ、ひょんなことから私は志穂さんと再開した。
志穂さんはその腕に小さな赤ん坊を抱えていた。
「まずはおめでとうございます」
私の言葉に志穂さんは照れくさそうに微笑んだ。
しばらく旦那さんとの馴れ初めなんかのなんてことない話をしていたが、やがて「あの言葉」の話になってしまった。
「ショックでしたよ。父がまさか、母を裏切っていたなんて」
整えられた眉をひそめ、しめやかに志穂さんはつぶやいた。
「看護婦さんからこっそり聞いた話ですけど、父は時折どこかへ抜け出していたそうです」
その事実を当時の志穂さんに告げなかったのは、その看護婦さんなりの配慮だったのだろう。ま、さすがに時効と考えたのか口にしてしまったようだけども。
「当時の志穂さん、すごい顔してたものね。殺してやる、とか言ってなかった」
「そんなこと言ってましたか、わたし。・・・でもその時は割と本気だったんですよ」
赤ん坊をあやす仕草は柔らかで、その一方で目は笑っていない。心境は年を経た今でもそう変わっていないのかもしれない。母性に覆われたその胸のうちには、今も呪いの言葉が渦巻いている、のかもしれない。
「でも」
ひょい、と志穂さんが顔をあげた。その顔は晴れ晴れとしてさきほどの影などそぶりもない。
「あの時以来、いろんな苦労がありましたけど、くじけそうになるたびにこう思うことにしたんです。
『こんなことで挫けてどうする。ユキコよりも絶対幸せになってやるんだ』って」
「サンドバックがわりにしてたのね」
「ええ。そして、今はこうして結婚してこの子にも恵まれました。わたし、幸せです」
後光すら感じるその幸せオーラに私はくらくらしそうになった。
「ごちそうさま」
私と志穂さんは笑い合い、そして別れた。
どんなことが人生には起きるかわからない。けど、どんな出来事もバネにしていけばきっと幸せに手が届く。志穂さんはそれを私に教えてくれた。
さぁ、今日もお仕事頑張るぞ!
え、私の名前ですか。小林ユキコっていいます。ありふれた名前ですね。ごめんなさい。




