守ってね。わたしが人間であるために
黒井瞳は、毎日放課後図書館に籠っている。閉館するまでずっとだ。かといって彼女は本の虫というわけではない。
家に帰りたくないのだ。図書館籠りはその口実にすぎない。
今日も今日とて日が落ち暗くなるまで粘っていた。
ひとり、とぼとぼと家路につく。鎖でも付けられたように、その足取りは重い。
瞳がふっと視線を上げる。見慣れた帰り道、塀と塀に挟まれた、車二台がやっと通れる程の幅の、アスファルト道路。
そこに、男が仁王立ちで立ち尽くす。顔は見えない。モザイクをかけたように、ブレているのだ。
瞳は、ふっと短くため息をついた。くるりと彼女が、その細い首を回し、背後に視線をやると、そこにも見慣れない男がいた。ちょうど、瞳を挟み撃ちするような格好だ。
この時、瞳の胸のうちに宿った感情は苛立ちだった。寝苦しい夜に、耳元で蚊の羽音を聞いたときのような。
正面に立つ男がするりとナイフを抜いた。取り立てて特徴のない、ホームセンターでバラ売りされているような代物だ。しかし、その刃先は水で濡らしたように怪しい光をまとっていた。
瞳はぼんやりと空ろな目で、すっかり暗くなった空を見た。ちょうど面白くない授業を聞くときのように。
殺すか。
はっと瞳は我にかえった。たった今、自分の胸中に唐突に去来した感情に、思わず身震いする。これじゃあまるで「ヒトデナシ」じゃないか、と。
「もしもし!警察ですか!男が刃物を持って暴れてます!場所は…」
上ずった大声が響く。少し離れた街灯のした、制服姿の男子が耳にスマホを当てていた。
ナイフを持った男たちの目に瞬間、迷いが過る。しかし次の瞬間にはてんでバラバラに駆け出した。細い路地に身をねじ込み、瞬く間もなく姿を消した。
「大丈夫!?」
男子が瞳に駆け寄る。非現実めいた出来事に興奮を隠しきれないのだろう、だらだらと汗を流していた。
「警察、よんだの?」
ややピントのずれた言葉が瞳の口から漏れる。
「え?…あ、いや、掛けてない」
彼のスマホからは、一本調子の音声で翌日の天気予報が流れていた。110と117を間違えたらしい。
「ふふっ」
なんとも間の抜けた、機械の声に、思わず瞳は笑みをこぼした。
バツの悪そうに、男子もあいまいな笑みを浮かべる。瞳のそれと比べるとぎこちない。
「怪我とか、ない?」
表情を引き締め(今さらだ、と瞳は思った。)、男子は瞳を気遣う。
瞳は驚いた。やや間があって、そうやく自分がいま「心配されている」のだ、と気づいた。まるで産まれたての雛のように。
それは見知らぬ男たちに襲われたこととは比にならない衝撃だった。
「えーと。…うん。平気。平気、だよ?私…。ありがとう(ありがとう!だって!まさか私がこんな台詞を使う日が来るなんて!)まーくん…」
「覚えてたんだ!よかった。忘れられてるのかと…」
「ううん。ちゃんと覚えてるよ」
瞳は、ここ数年心の引き出しの奥にしまっていた笑顔が込み上げ来るのを感じた。
ひとりで帰れるよ、と言った瞳に、まーくんは驚愕の眼差しを向けた。裸で北極を探検すると宣言した冒険家を見たときみたいに。
幼いころよく遊んだ瞳とまーくん。距離が出来た原因は、ただふたりが女子と男子であるというその一点のみ。
そのまーくんとの再会は、率直に瞳の心に柔らかな光を灯した、だが、それ以上に瞳をハイにしたのは、まーくんが瞳を「心配」し、「守ろう」としているということだった。
大切なことはそれだけ。
例え実際にはまーくんが瞳を一切守ることができていなかったとしても、そんなことは毛先ほども問題だとは、瞳は思っていなかった。
まーくんが瞳を、彼女の自宅まで送り届けるまで20分たらず。その間に襲撃は20回あった(そのうち5回はまーくん諸とも瞳を無き者にせんとする攻撃だった)。
いずれの襲撃も巧みで高度で、静かなものであった。実際、まーくんはそよ風ひとつ吹いたとは感じなかっただろう。
瞳はそれらをまーくんとの久方振りの会話を存分に楽しみながら往なした。会話・襲撃対処=9.999999…・0.00000001…くらいだ。
「それじゃあ」
「うん」
まーくんはひらりと手を振った。自転車に跨がり、すーっと夜の町に消えていった。
瞳は、自分でも浮かれてると自覚しながら、それでも沸き上がるにやにやを抑えられずにいた。
私は「守られるべき、か弱い存在」なのだ。雛のように子犬のように、子猫のように。
取り立てて特徴のない家。それが瞳の家だ。ドアを開け、安っぽいフローリングの廊下を抜ける。狭くも広くもないリビングに踏み入れる。
「「「おかえり」」」
「…ただいま」
ドアを入る前とは打って変わって、瞳は沼の底に沈んだような声で応じた。
「「「ごはん、できてるわよ」」」
ありふれた木目のテーブルには鍋敷きがしかれていた。そこには、「取り立てて特徴のない、ホームセンターでバラ売りされているような代物」のナイフが無造作に突き立てられていた。
ダイニングキッチンから瞳の母の声が、楽しげに響く。
「「「今日の晩ごはんは魔術師のおにく入りカレーよ」」」
「…いらない」
「「「そう?おいしいのに」」」
瞳は自室への階段に向かうとき、ちらりと母の立つキッチンに視線を向けた。
ミミズを彷彿とさせる触手がうねり、縦に裂けた口が3つ、地獄の釜を鳴らすがごとくの甲高い呪いの鼻唄を口ずさむ。
瞳はふんと鼻をならした。馬鹿な魔術師たち。母さんに挑むなんて、地面を押せば地球を動かせると確信してるようなものだ。
ホームセンターで買った一万円のベッドに横になり、瞳は目を閉じた。
瞳は考える。私は何者なのだろうか。
「あの」母から確かに瞳は産まれた。父親は、知らない。
母が長年対峙していた異界の神々を皆殺しにしたときに口走った話によると、瞳の父は「「「それはそれはスバラシイ『モノ』」」」だったのだという。
瞳は考えた。私はバケモノなのか、人間なのか、と。
以前、瞳は自分に何ができるのかを試してみたことがある
指先で鉄を切る。空を飛ぶ(期待していただけにこんなに簡単にできたことに失望したことを覚えている)。時間を止める(1週間程で飽きて止めた)。宇宙にいく。太陽に触る(仄かに温かかった)。別の宇宙に行く(太陽系とあまり大差がなくてがっかりした)
。地球に戻って。狼人間、吸血鬼、魔術師と戦ってみる(楽しかったが、弱いもの苛めをしているようで気が引けて止めた)。この時の戦いのせいで魔術師たちに恨まれて、今現在も付け狙われているわけだが…。
結果、できないことを数える方が早いとわかった。
瞳は思う。人間に、ただの人間の女の子になりたいと。だからこそ、こんな母のいる家はまっぴらだし、バケモノ染みた自分自身も嫌だった。
「まーくん。わたしを守って」
誰かに心配されるなんて初めてだった。他者の羽の下で、守って守ってと、ぴーぴー鳴くなんて、生涯体験することはないと思っていた。
「わたしは、人間だもの」
階下でバタバタと物音が響く。魔術師たちがまたやってきたのだろう。母が狂喜の悲鳴をあげる。絶好の遊び道具を手にいれたこどものように。
「わたしが、人間であるために」
ドアがひとりでにぶち開けられる。数人の魔術師たちが手に手に武器を持って乗り込んできた。呪文が唱えられ、火焔が稲妻が瞳に向かって放たれる。
ふうっとため息ひとつをついて、瞳は本格的に寝る体勢に入った。
先程まで部屋にいたはずの魔術師たちは煙のようにたち消えていた。
無垢な寝顔の瞳。その顔は安らかで、口元には穏やかな笑みを浮かべていた。




