【8】明:川辺
十歳の宗明は、家を出て川辺へと向かった。以前、夕方に川辺を訪れたとき、偶然凛に会った。また会えるかもしれないという期待があった。
川辺には誰もいなかった。水面には、夕日がきらめいている。対岸の山はすでに暗く、どこかで鳥が鳴いている。
小石だらけの河原になんとなく座り、懐から凛の書を取り出す。その書をじっくり見て、優美な曲線を指でなぞる。そうして、足元の枝を拾い、地面に文字を書いてみる。
(うまくいかないな)
地面の文字と凛の筆致を見比べていると、後ろから声がかかった。
「明さま」
凛の声だ。慌てて、凛の書を懐にしまい込んだ。
「偶然ですね」
と、彼女は隣に座った。
偶然などではない。会うために来たのだから。
しかし宗明は、うん、と頷いた。
「家は気詰まりなんだ」
兄二人は、自分のことを蔑んでいる。大好きだった母上は、もう死んでしまった。あの家に、妾の子である自分の居場所はない。
「そうですか。私もです」
「じゃあ、おそろいだね」
凛自身のことは、あまり聞いたことがなかったから、事情は分からない。
「家がつまんないなら、またここに来れば? 俺も来るし」
「そうですね」
宗明は、石をひとつ拾った。それを川へぽんと投げる。小さな飛沫があがった。凛も同じように投げる。
「どうしたら、凛みたいに書がうまくなるかな」
「練習と、古典や神話の勉強です。あとはまあ、才能でしょうか」
はっきりと言い切る凛が、とてもかっこいい。
彼女は、領主の息子である自分に媚びない。彼女の前だけでは、自分でいられる気がする。
「凛はきっと、すごい祐筆になれるよ。慧伯みたいな」
慧伯は、凛がよく口にする伝説の祐筆だ。朝廷の兵部尚書を務めながら祐筆も兼ね、洒脱な古典の引用と、さりげない韻を織り込んだ公文書を数多く残した。
しかし凛は、うっとうしそうに眉を寄せ、
「女の身では、宮仕えができませんので」
と言い捨てた。
その言葉に、宗明はハッとする。彼女が女であるために祐筆になれない現実を、何も分かっていなかった。
「ごめん……」
「いえ、いいんです。仕方のないことなので」
凛は、ひときわ大きな石を、川へ投げ込んだ。ドボンと大きな水しぶきが上がる。宗明も真似をして、大きな石を投げる。しかし、選んだ石が大きすぎた。遠くに投げられず、すぐ近くで水しぶきが上がる。
「うわっ」
水がこちらに飛んでくる。それを見て、凛がくすりと笑った。ぶるぶると頭を振り、顔についたしぶきを袖でふき取った。
今度は、小さい石を投げ込む。凛も同じくらいの石を投げた。
「どこか、遠い所へ行きたいね……」
宗明は、川の流れをじっと見つめる。
この川の流れる先。知っている人が誰もいない街。そこなら、領主の息子として扱われない。兄上たちもいない。
「ええ」
彼女はぽつりと同意した。
どこか遠い所へ、凛と一緒に。
祐筆になりたいのなら、男のふりをして、仕官すればいい。知っている人が誰もいない街なら、それができるかもしれない。
(凛と一緒に、遠い所へ)
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