午前九時二十六分
午前九時二十六分〇秒
高校。
廊下の窓。
去年の秋についた小さな傷が、
朝日を受けて光る。
誰も見ない。
新入生は、
その傷が最初からあったものだと思う。
三年生は、
いつできた傷だったか思い出せない。
傷は、
覚えられていなくても、
そこにある。
午前九時二十六分八秒
商店街。
八十歳の定食屋の主人が、
シャッターを少しだけ開ける。
朝の光が店の奥まで伸びる。
古い柱時計が一つ、
遅れて鳴る。
九時二十六分なのに、
八回しか鳴らない。
主人は笑う。
「お前も年を取ったな。」
時計は返事をしない。
けれど、
長く一緒にいるものには、
返事がなくても会話がある。
午前九時二十六分十六秒
高校の図書室。
誰も借りない詩集がある。
十五年間、
同じ場所。
司書だけが知っている。
春になると、
必ず一度だけ、
誰かがその本を手に取ることを。
今年は、
まだ来ない。
本は急がない。
読む人より、
季節を信じている。
午前九時二十六分二十七秒
病院。
廊下の観葉植物に、
新しい葉が一枚開く。
誰も気づかない。
車椅子が通る。
看護師が走る。
医師がカルテを見る。
葉は静かに、
世界へ加わる。
成長には、
拍手がない。
午前九時二十六分三十六秒
公園。
ベンチの下。
一匹の蟻が、
パンくずを運んでいる。
その横を、
就職活動中の大学生が通り過ぎる。
俯いて歩く。
蟻は見えない。
大学生も、
蟻には見えない。
それでも、
どちらも今日を生きている。
午前九時二十六分四十四秒
高校。
職員室。
若い教師が、
生徒の作文を読んでいる。
一枚だけ、
句読点のない作文がある。
読みにくい。
でも、
最後まで読む。
最後の一行に書いてある。
「先生は最後まで読んでくれると思った。」
教師は、
赤ペンを置く。
何も直さない。
午前九時二十六分五十九秒
世界中で、
時計の針がまた一つ進む。
針は急がない。
戻らない。
迷わない。
人だけが、
立ち止まり、
振り返り、
迷う。
だから人は、
時間より少しだけ、
美しい。




