午前九時二十五分
午前九時二十五分〇秒
校庭。
風が吹く。
桜が五枚散る。
一枚は地面へ。
一枚は側溝へ。
一枚は体育館の屋根へ。
一枚は自転車のかごへ。
もう一枚は、
数学教師の肩に落ちる。
教師は気づかない。
そのまま授業を続ける。
教室の一番後ろの席で、
女子生徒だけが見ている。
「春って、先生にも降るんだ。」
そう思う。
誰にも言わない。
思ったことは、
言葉にならないまま、
人を育てる。
午前九時二十五分七秒
郵便局。
配達員が封筒を一通、
郵便受けへ入れる。
「コトン。」
その音で、
家の中の犬が起きる。
犬が吠える。
台所の女性が窓を開ける。
春の匂いが入る。
女性は深呼吸する。
その日の夕方、
仕事を辞めようと思っていた考えを、
一日だけ延期する。
理由はない。
人は、
理由のない春に救われることがある。
午前九時二十五分十五秒
古本屋。
六十八歳の男が、
昨日まで棚にあった文庫本を開く。
最初のページに、
鉛筆で小さく書かれている。
「二〇二二年四月九日。
読み終えたら、
誰かに譲ってください。」
男は微笑む。
本は所有されるものではなく、
旅をしているものなのだと知る。
午前九時二十五分二十四秒
病院。
看護師が、
窓を閉める。
「風、強くなってきましたね。」
九時二十二分に
「風と話した」と日記へ書いた女性は、
小さく首を振る。
「まだ話の途中。」
看護師は笑う。
意味は分からない。
分からないまま、
その笑顔だけを受け取る。
理解は、
優しさの条件ではない。
午前九時二十五分三十三秒
駅。
高校生が改札を抜ける。
遅刻した朝。
ポケットの中で、
定期券と百円玉が触れ合う。
小さな音。
彼は思い出す。
小学生の頃、
百円玉を握りしめて、
アイスを買いに走った夏の日。
記憶は、
思い出そうとして戻るのではない。
何かに触れて、
勝手に帰ってくる。
午前九時二十五分四十五秒
老人ホーム。
昼食の準備が始まる。
食堂から、
味噌汁の匂い。
九十一歳の男性が言う。
「今日は何曜日?」
職員は答える。
「木曜日ですよ。」
男性は笑う。
「そうか。
じゃあ今日は木曜日を食べよう。」
職員も笑う。
曜日は食べられない。
でも、
笑顔なら、
一緒に食べられる。
午前九時二十五分五十三秒
時計店。
店主が店の前を掃く。
桜の花びらを集める。
掃いても、
また風で散る。
店主は手を止める。
箒を立てかける。
そして花びらを、
掃くのをやめる。
「今日は、
散っていていい日だ。」
誰に言うでもない。
春だけが聞いている。
午前九時二十五分五十九秒
一分が終わる。
時間は、
誰の味方もしない。
けれど、
誰の敵にもならない。
人間だけが、
「あの日の一分だった」
と名前を付ける。
時間は、
その名前を知らない。
ただ、
同じ速さで歩き続ける。




