午前九時二十三分
午前九時二十三分〇秒
高校。
ホームルームが終わる。
教師が教壇を離れる。
その一秒だけ、
教室から音が消える。
誰も気づかない。
三十五人が同時に息を吸う。
教室という生き物が、
呼吸をした。
午前九時二十三分六秒
駅のホーム。
女子高生が白線の内側へ半歩下がる。
その半歩ぶんだけ空いた場所へ、
急いできた会社員が立つ。
会社員は礼を言わない。
女子高生も気にしない。
二人とも、
相手の顔を覚えない。
世界は、
感謝されなかった親切で、
静かに保たれている。
午前九時二十三分十三秒
病院。
診察室の前。
「どうぞ。」
名前が呼ばれる。
立ち上がる人。
座る人。
椅子が一つ空く。
すぐ、
別の誰かが座る。
椅子は、
今日だけで百人の体温を知る。
何も話さない。
何も選ばない。
それでも、
誰より多く人生を見送っている。
午前九時二十三分二十一秒
パン工場。
ベルトコンベヤーを、
食パンが流れていく。
一斤だけ、
ほんの少し焼き色が薄い。
検品係は迷う。
三秒。
「大丈夫。」
流す。
その食パンを買うのは、
今日が誕生日の少年だ。
少年は、
焦げ目が苦手だった。
誰も知らない。
迷った三秒が、
誰かの「おいしい」になることを。
午前九時二十三分三十四秒
海辺。
風が変わる。
カモメが向きを変える。
漁師も向きを変える。
港の猫だけが、
まだ眠っている。
世界は、
目覚めているものだけで
動いているわけではない。
午前九時二十三分四十二秒
図書館。
返却された一冊の本。
最後のページに、
栞が一枚挟まっている。
職員は抜いて、
カウンターへ置く。
夕方。
高校生が取りに来る。
「ありましたよ。」
「ありがとうございます。」
二人とも笑う。
その笑顔は、
栞のためではない。
「戻ってきたもの」がある日の笑顔だった。
午前九時二十三分五十秒
老人ホーム。
窓辺。
九十歳の女性が、
外を歩く園児たちを見る。
園児は手を振る。
女性も振る。
互いの名前は知らない。
年齢も知らない。
今日限りかもしれない。
だからこそ、
手は振れる。
午前九時二十三分五十九秒
日本中で、
無数の時計が、
同じ時刻を示す。
しかし、
同じ一分を生きている人間は、
一人もいない。
恋人を待つ一分。
手術を待つ一分。
叱られる一分。
生まれる一分。
別れる一分。
眠る一分。
笑う一分。
泣く一分。
世界は、
同じ時刻を持っていても、
同じ時間を持ったことは、
一度もない。




