あの二人ならお似合いでしょう
「げっ、携帯の電池切れている」
そう独り言を言ったのは田中先生のようだった。何となく慌てているようだったので、声を掛けることが出来なかった。そっと隣室の様子を伺う。左手を心臓よりも下に下ろしてしまったまま。
出血でスーツが塗れているがどうということはない。全てクリーニングに出せばいいことだ。ちなみにマンションの近くのクリーニング屋さんは配達もしてくれて、留守だと専用のボックスに入れてくれる。ハンカチや下着まで全部クリーニング屋さんにお任せしていた…。
医局の電話を使って、NTTの番号案内にRホテルの電話番号を聞いていた。
Rホテル?そういえば、今日の夕方Rホテルの乳液――男女どちらでも使えるように配慮されているのだろうか?甘い中にもどこかキリリとした――香りを漂わせていたことを思い出す。
ツイ息を潜めて様子を伺う。
「クラブフロアですか?香川聡がそちらに泊っているか、クラブフロアに居るかなんですが、呼び出して貰えますか?」
電話で言っている。教授の名前が出て来た時は驚愕半分、納得半分だった。だが、一流ホテルの人間は宿泊客のことをみだりに口には出さないだろう。
「クラブフロアには居ないのですね…分かりました。有り難うございます」
そう言って電話を切ると、慌てたようにダイアルを叩いた。
「ちっ。阿部師長に掴まったのがマズかった…」
そう呟きながら。
阿部士師長…?聞いたことがある。救急外来の生え抜きのナースで、そこの主のような人だと…そういえば、田中先生はしばらく救急外来の宿直もしてたと以前教授に聞いたような…。
「げ、携帯も通じない。圏外にでも居るのか?これはマズい。次は自宅か…」
慌てたようにプッシュホンを叩く。多分留守番電話に吹き込んでいるのだろう。
「すみません。人手が足りないと阿部師長に泣き付かれまして…今からホテルに向かいます。だから…待っていて」
そういえば長身の田中先生の白衣にはところどころ血が飛んでいる。
出て行く機会を完全に逸してしまったので、先生が――多分、香川教授と待ち合わせをしていたのだろう――着替えのために出て行くのを待つことにした。
やっぱり二人はRホテルで逢う間柄だったのだな…と思った。慌しく医局を出て行きかけた田中先生の足が止まった。
「教授…どうして?」
確かにそう聞こえた。
「いくら待っても来ないから…多分何かが起こったのだと思った。携帯電話も通じないし…祐樹が事故にでも巻き込まれたのかと居ても立ってもいられなかった。職場に居るのなら、分かると思って引き返して来た」
聞き覚えのある香川教授の声だったが僅かに言葉が震えている。こんな声を聞いたのは初めてだった。
ますます出て行くことは出来なくなった。そっと覗く。私服の教授は慌てたような、途方にくれたような、そして安堵を浮かべているような複雑な顔をしていた。
「すみません。帰りがけに阿部師長に掴まってしまい…気管縫合の人手がどうしても足りないと…」
「…そうか…それならいい。祐樹が…もう来てくれないかと…そう思うと…」
覗き見している自分を恥ずかしく思ったが、身動きすれば多分気付かれてしまうと思ってフリーズしていた。
田中先生は辺りを窺うように見渡してから、教授に近寄った。幸い細く開いた隣室のドアには気付かなかったらしい。
「そんな顔をしないで下さい。ちゃんと約束は守りますから」
そう言って近寄り、教授の顔に手を当てた。その手に教授の手が重なる。血で染まった白衣を脱ぎ捨て、教授を抱き締めて、おもむろにキスをした。
教授の手が田中先生の背中に回る。キスは角度を変えて長く続いていた。教授の手は田中先生のジャケットにシワが寄るほど強く縋っている。
息を止めて見入ってしまっていた。映画のワンシーンのようなキスだった。
息を詰めていたのが災いして呼吸困難になった。急いで新鮮な呼吸をしようとしてギョッとする。ツイツイ怪我のことを忘れてた。掌が血で染まっている。反射的に左手を上げようとするとドアにぶつかった。音は大きく響いてしまい、二人の動作が凍りつく。先に行動を起こしたのは田中先生だった。
扉が大きく開けられる。
「長岡先生、どうしてここに?」
異口同音に叫ばれてしまった。
「あのう…怪我をしてしまいまして…いえ、覗き見する積りは全くなかったのですが…そもそも…全く他意はなくてですね…」
左手をかざすと、黙って田中先生が三分もかからずに手当てをしてくれた。イソジンを浸した綿棒も医局備え付けの物を使用して。
しばらく沈黙が漂う。誰かが話し出すのを待っている、そんな静謐さが医局に漂う。
静寂を破ったのは教授だった。
「…この人が、アメリカ時代に言った『心に決めた人』です。軽蔑しますか?」
静かな口調だった。その言葉に、心底驚いたかのように田中先生は教授を見詰めた。
「いえ、驚きはしましたが、何となく納得しました…もちろん誰にも言いません。私だけの胸に秘めておきます」
そうキッパリと言うと、教授は静かに、田中先生は面白そうに笑った。
大学病院の夜間通用口の前には深夜にも関わらずタクシーが列を作っている。几帳面に巻かれた白い包帯と血まみれの姿は病人待ちのタクシーの運転手には見慣れたものだったらしい。
寄り添う二人に頭を会釈して病院を後にした。胸のつかえが下りたような清清しい気分だった。
あの二人ならお似合いだ…そう思った。
フト、自分の足元に眼を落とした。
右足は岩松とのデート用のピンヒール、左足は職場用のフラットシューズを履いていた。
これで良く歩けたな…と自分でも感心してしまう。あのお二人には気付かれなかったか、少し心配した。