大爆笑と冷たい心
ようやくシーツを干し終え、気持ちよく伸びをした。男手があるとさすがに楽だ。梔子たちが彼を重宝がるのはよくわかる。
午後に向けて強くなる日差しから逃れるように屋内へむかえば、やることを終えた浅葱は稲穂から離れる気はないらしく、後を追うようについてきた。
「稲穂ちゃんは自由な時間ってあるの?」
「ええ、まあ。でもここから出ることはありません」
「えっ?! そうなの?」
「あなたとお出かけする気はない、ということです」
「え〜、冷たいなぁ」
軽口を叩き合っていると、長い廊下のむこうから灰色の神官服が足早に近づいてきた。
「ああ、稲穂さん」
「涼也様……。ええと、あの」
長い裾を上手にさばき、急いでいるのに乱れなく駆け寄ってきたのは涼也だった。昨日ただよわせていた退廃的な雰囲気などウソのように、きらきらとさわやかな笑みを浮かべている。
彼の顔を見た途端、かりたままになった上着のことを思い出した。しかし、この場で昨日のことを話すのは何となくためらわれた。それは涼也も同じだったようで、口ごもる稲穂をさえぎるように素早く言った。
「ああ、アレならまた会ったときでいい。それより、探してたんだ。黒風高等神官がお呼びだよ」
その名を聞いた途端、稲穂の眉間にシワが寄る。
「なぜです?」
「今、大ホールで小桃さんが祈祷会の神官の補佐の練習中でね。君に彼女のお手本になってほしいそうだ」
「お手本? それなら涼也様のほうが適任でしょう」
「ぼくも例大祭への参加が決まっていてね、これでも忙しいんだ」
だからといって素直に請け負えることではなかった。
不満ではあったが、黒風の呼び出しを無視しては涼也にも迷惑がかかるし、後のことが恐ろしい。
「あー、それ、俺も行っても大丈夫ですか?」
返事ができない稲穂に代わるように、浅葱は片手をあげた。涼也はそこでようやく彼の存在を視界に入れたようだった。
「憑代様のお付きの方ですね。憑代様も大ホールにいらっしゃいます。入ることはできませんが……」
「俺はあくまで部外者ですからね、入口までで結構ですよ、どうも。じゃ、稲穂ちゃん。行こうか。上司に逆らえない辛さ、よくわかるよ」
「……はい」
浅葱はあげた手を稲穂の肩に置き、そっと先を促した。涼也はすでに背を向けて歩き出している。
稲穂は目線を落としながらも、小さな声で返事をする。さっきまでとてもいい気分だったのに、どうして神々はこうもいじわるをするのだろうか、と悩みながら。
「ウソつき。たくさん神官様がいらっしゃるではありませんか。この中に、小桃様へお教えできる方がいないとでも?」
「まあ、そう言わないで。みんなそれぞれ役目があって大変なんだよ」
大ホールには多くの神官が忙しく走り回っており、掃除や飾りつけに追われているようだった。その中には、涼也に連れられた稲穂を見て眉をひそめる友江の姿もあった。
「稲穂ちゃん、俺はここにいるから。がんばって」
言いつけ通り、浅葱は中に入ろうとしない。肩に置かれた手が離れるのを惜しむ気はないが、稲穂はほんの少しさみしかった。
「稲穂さんをおつれしました」
「よろしい、小娘、こちらへ来い」
祭壇の端では険しい表情の黒風が待ち構えており、その隣にはしょんぼりとしおれた小桃が立っていた。小桃はつぎはぎをあてた古いシーツを頭からかぶり、すそをずるずるとひきずっている。頭には頭巾のようなものをかぶっているが、隙間から除く目元はうるみ、今にも泣き出しそうだ。
「お呼びと伺い参りましたが、あの、これは……」
「小桃さんは、祈祷を行う神官の補佐について手本を見たいとおっしゃる。このわたしの説明ではご理解いただけないようなのだ」
疲労ゆえのやけっぱちな感じをにじませながら、黒風は心底うんざりしたように言った。
未来の大神官で、神々の寵児となるであろう相手への敬意。それが嫌味となって小桃をおびえさせているのは間違いない。
相変わらず性格の悪い男だ、と稲穂は正直に口元をへの字に曲げた。
「おかわいそうな小桃様」
「かわいそうだと? 手に負えん。面倒を見ろ」
「このわたしが?」
「いいから、これをかぶれ!」
稲穂の不敬な態度への文句を言うのさえ疲れた、と黒風は小桃がかぶっているのと似たぼろぼろのシーツを稲穂へと押し付けた。
「ああ、例大祭で使う儀礼用ローブの代わり……」
「さっさとしろ」
「はい、かしこまりました」
稲穂はこちらを見ようとしない小桃を気にしつつ、頭からシーツをかぶる。普段の祈祷会で使うものより裾も袖も長い。稲穂も着るのは初めてだったが、なんとなく勝手はわかった。
そのままでは隠れてしまう手は、もう片方の手で押さえつつ手首までをのぞかせる。それ以上は出さないのが、肌の露出を良しとしない神官の鉄則だ。神官ではないけれど。
ひきずる裾はちょっとだけつまむ。頭の位置を変えないよう膝と背骨を意識して歩けば、たっぷりとした布のおかげでまるで滑るような足取りに見えるだろう。
するすると近寄れば、黒風は眉間のシワをなぜかより深くした。
「この姿で神官様のお手をふくやり方をお教えすればよろしいのですか?」
「いや、違う」
「違う? では何を?」
話が違うではないか、と首を傾げれば、地を這うような声で答えがかえってきた。
「……歩き方だ」
「え?」
「歩き方をお教えするのだっ!」
「はァ?」
「ええとね、稲穂さん。小桃さんは、ちょっとこの服に慣れるのが難しいようなんだ。君は、その、まとったとたんにできてしまったようだけど」
涼也の言葉に稲穂が小桃を振り返ると、彼女はふるふると身体を震わせていた。よく見れば膝や靴で踏みそうな足元あたりの布がちょっと裂けている。そうとう激しく転んだに違いない。
「あ……。ああ、そういう」
稲穂はこほん、と咳払いをしてごまかした。なるほど、祈祷の補佐の仕方うんぬんの以前の問題だったか、と納得してしまったのだ。
これは笑ってはいけない、と稲穂は口元をひきしめた。
「小桃様、気になさることはありませんよ。要は慣れです、さあ、いっしょにやってみましょう」
できるだけ優しい声で呼びかけるが、小桃の反応は鈍い。よほど黒風に意地悪を言われたに違いない。ならばもっと早く呼んでくれればいいものを。
先ほどはあれほどいやだと思ったのに。やはり小桃にはなぜか甘くなってしまうようだ、と稲穂は内心苦笑する。
だが、目の前の本人は、なんと。
「あ~っはっはっはっはっはっは~~~~!!!」
突然顔を上げたかと思えば、いきなり大爆笑を始めたのだった。
「………?」
「あ、ひひひひっ、は、ふうっ、あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
涙を流し、腹をよじらせ、暴れるように笑い続ける。
「……怖い」
すぐさま稲穂を捕まえ背後に隠した黒風は、小桃と距離をとった。
「まさか悪しき神が憑いたか!? 小娘、お前何かしたのか!?」
「し、していませんっ。こ、怖い、本当に怖いです! 何があったのですか!?」
「わからん、とにかくそこを動くなっ!」
思わず大嫌いな黒風にしがみついてしまうほどの恐ろしさだ。
大ホールには小桃の狂気的な笑い声が響き渡り、他の神官たちもおびえたようにこちらを向いている。
神々は、確かにヒトを狂気に誘うこともある。しかしそれは神々の怒りに触れた結果であり、こうして神々を奉る大神殿では起こりえないはずだった。
大神官のもとへ、他の高等神官をおよびしろ、と年かさの神官たちが指示を飛ばしている声が聞こえるが、稲穂の目は小桃から離れなかった。そらすには怖すぎたのだ。ぎゅうっと黒風にしがみつく腕に力がこもる。
黒風は動揺してはいるものの、おびえてはいなかった。ただ一人、堂々とした態度で小桃へと向き合う。
「答えなさい、小桃さん、あなたは正気か!?」
「あっは、ひっ、だめだ、なんか我慢できないっ! あ、ごめんなさいっ!」
ひとしきり大爆笑した小桃は、息も絶え絶えにようやく人の言葉を話した。
「……意識はあるな?」
「こ、小桃様? 大丈夫ですか?」
「ひゃは、は、はい! ごめんなさい、なんか、ひひっ! つられちゃって!」
いくぶん勢いがおさまったようで、小桃は笑う合間になんとか説明を始める。
「あの、なんだろ、あたし、ついつられ笑い? みたいなことをしちゃうみたいで」
「つられる? どういうことだ」
「あはははは、なんでかわかんないけど、いまめちゃくちゃ笑ってて、みんな! もうとまんないっ」
「……まさか」
当然だが、この場で笑っている者など小桃以外いるはずがない。となれば、それは。
「えっと、えへ、いひ、神様たち?」
またもや神の声を聞いたという小桃に、慌てふためいていた大ホール内がまた静まり返る。
「な、なぜ神が爆笑するのだ」
「わかんないですう、けど! あれ、なんだったっけ。えっと、そう、稲穂が」
「……わたし?」
「い、稲穂がここに来たとたん、ちょっと笑い声が聞こえて、あれ?って思ってるうちに、なんか、爆笑になっちゃって、あたし、つられて」
「わ、わたしが、ここに来たとたん?」
笑っている。
神々が?
「そのカッコになったらもう、止められないほどで! あっははははは」
小桃はまだ笑っている。
きっと自分が何を言っているのかもわかっていないのだ。
稲穂は呼吸が止まりそうになった。
稲穂を笑っているのは小桃ではない、神々だ。だが、彼女のせいでわかってしまった。神々が、稲穂を、神官のなりそこないを笑っていることが。
気づけば黒風をつかんでいた手が揺れている。
震えていたのだ。
唾を飲めば、こくりと動く喉の音がやけに大きく感じた。
小桃の笑い声。
自分へと刺さる視線。
一秒ごとに荒く、強くなっていく胸の鼓動。
息が苦しい。
ひっとひきつけのように息をのめば、震える手をつかまれた。いつの間にか側に来ていた涼也だった。彼はいたって冷静な面持ちで、稲穂へ顔を寄せた。
唇だけの動きだった。だが、何を言ったかはすぐにわかった。
『泣く?』
彼はそう問いかけた。
稲穂が視線をさまよわせれば、黒風がこちらを向いていた。石のような、いつもと変わらない、いじわるな目。
稲穂は荒い息をつき、それをじょじょに深い呼吸へと変えていった。
ゆっくりと黒風から離れ、するすると歩いていく。その動きはヒトではない何かのようで、向かう先が狂ったように笑い続ける娘だというのだから、怪談話のような光景だ。
稲穂はぐっと背筋を伸ばし、優雅にのぞかせた指先を小桃の唇へと押し付ける。まるで息の根を奪うかのように。
「笑わせてくれるのはどちらでしょう」
ぞっとするほど冷めた笛のような音は、大ホールの隅々までいきわたった。
「御神々が小桃様の口をかりて笑うというのならば、この状況をつくりだしたご自身たちのことではないでしょうか。神代の相貌を持つ者が、偽物に教えを乞う姿など、滑稽以外のなにものでもありませんもの」
小桃の両目は見開かれ、かわりに口は閉ざされた。もう笑い声は響かない。
「神官様方も、ああ、おかしいこと。なんとまあ、愚かしい。歩き方一つお伝えできないなんて。だからわたしのような偽物がここを汚すことになるんです。笑うのも当然ですね、わたしだって笑います。でも、お世話になる身ですもの、なんだって教えて差し上げます。ねえ、小桃様。あら、もう笑うのはおやめになるの?」
指を離しても、小桃は黙ったままだった。顔面は真っ青だ。
「小桃様。まずは立ち方を。間違ってもそのような、背骨が丸まり首だけ前に出てお尻に力の入らない姿勢はおやめくださいね。さあ、お覚悟を」
稲穂はおかしい、滑稽だ、と言いながらまったく感情をのせない絶対零度の麗しの相貌を、凶器のように小桃へと突きつけた。
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