二十七冊の引継書
王宮へ行く朝、ミナがいつもの服を用意した。
濃紺の、襟の高いものだった。
私はそれを見て、今日の会議で頼まれそうなことを考えた。すぐ帰るつもりでも、何があるか分からない。筆記具と、予備の紙と。
「お嬢様、鞄はこちらでよろしいですか」
ミナの手には、大きな書類鞄があった。
「……小さい方でいいわ」
父からは、説明をするだけで帰ってきてもよいと言われた。
昨夜、家令が出席の返事を届けたときにも、新たな役目を引き受けるための出席ではないと伝えてもらっている。
それでも、何も持たずに行くのは落ち着かなかった。
小さな鞄に筆記具を一本入れた。
◇
会議室の扉の前で、いつものように殿下を待ちかけた。
近衛の方が、中へどうぞと言ったので、ようやく入る。
殿下はもういらしていた。隣に、リリア様が座っている。
私は殿下の後ろへ回ろうとして、書記に止められた。
「お席は、こちらです」
長い卓の端に、椅子が一脚空いていた。
腰を下ろすと、卓の向こうにルッツ様が見えた。彼は軽く頭を下げ、すぐ書類へ目を戻した。
「お越しいただき、感謝する」
宰相が口を開いた。
「担当が曖昧になっている案件を、確認したい。お持ちの記録を、各局へ引き継いでいただく」
「記録は、王宮にございます」
思わず、先に言ってしまった。
宰相が私を見る。
「既にお持ちになったということか」
「いえ。執務室のものは、持ち出しておりません。手元にあった鍵や控えは、先日ルッツ様へお返ししました」
ルッツ様が、受領目録を上げた。
「こちらです。輸送局へ移したものもございます」
宰相は頷き、壁の黒板を示した。
案件名が八つ並んでいた。
食糧輸送。結界。慈善基金。
ほかにも、治水工事や騎士団の装備更新まである。
「工事の設計については、私は存じ上げません」
私は黒板の一行を指した。
「予算の支出時期だ」
工務局の責任者が答えた。
「秋までに一部を払うと聞いていたが、財務局の予定では春になっている。どちらが正しいのか、確認が取れない」
「合意書では、堤防の北側を秋、南側を春と分けています。川の増水前に終えるために」
「合意書は、どちらに」
「工務局に原本を一部、殿下の執務室に一部。私の使っていた引継書にも、参照先を記しております」
工務局の責任者が、自分の書類をめくった。
別の方へ何か言い、細い紙へ書きつける。
宰相はそのやり取りを待ってから、こちらを向いた。
「引継書とは、何の記録か」
「案件の経緯と、決裁された内容、関係する部署をまとめたものです。年度ごとに更新して、古い分も残しています」
「何冊ある」
「今使っているものは、分野別に二十七冊です」
殿下が私を見た。
「二十七冊も、いつ作った」
「毎年、少しずつ。年度が替わる際にご説明しておりました」
「あの、厚い綴りか」
私は頷いた。
殿下は椅子へ深く座り直した。
「あんなもの、全部読めるわけがないだろう」
「殿下には、当日の案件を一枚にまとめてお届けしていました。詳しい経緯は、そちらから辿れるように」
会議室に、頁をめくる音がした。
私は、水の入ったグラスへ手を伸ばした。
持ち上げると手が震えそうで、口をつけず戻した。
「なぜ、各局で使っていない」
宰相の問いに、ルッツ様が答えた。
「殿下の執務室内の資料ですので、持出しには許可が必要です。輸送の写しはエレノア様の覚書から探せましたが、ほかの分野は、まだ」
「持ち出してよいと、誰が許可する」
「殿下に、申請しております」
宰相が殿下を見た。
殿下は卓の上へ目を落とし、重なった書類を一つ引き寄せた。
「必要なら、写しを取ればよいだろう」
「元の綴りを借り出さないと、写しも作れませんので」
ルッツ様の声が、少し掠れた。
言ってから、彼は頭を下げた。
殿下の耳が赤くなった。
「今、認める。使えばいい」
宰相は書記へ命じた。
「所在の確認と、移管先の一覧を。正式な保管責任者を各局で定めなさい。王太子殿下の執務に必要な写しは、こちらに残す」
書記が立って出ていった。
私はようやく、水を一口飲んだ。
◇
資料を待つ間に、各局から質問があった。
すぐ答えられるものもあれば、最後に確認した日付を思い出せないものもあった。
騎士団の馬具について、以前の単価を答えかけると、装備担当者が首を振った。
「先週、革の規格を変えています。その前の数字でしょうか」
「はい。でしたら、私が知っている額は古いものです」
彼は頷き、自分の書類へ印をつけた。
分からないと答えても、会議は進んだ。
「商業組合の窓口は、相変わらず組合長か」
別の担当者が尋ねた。
「契約書の宛名は、そうなっております。ただ、日々の連絡は副長へ送っておりました」
「その副長が、先月引退したそうだ」
私は顔を上げた。
「存じませんでした」
「後任がまだ、こちらとの手続きに慣れていない。そちらで何か伝言を預かってはいないか」
「いいえ。最後にお会いしたのは、二か月前です」
相手は少し考え、隣の方へ何か頼んだ。
引継書に全部あると、言い切らなくてよかった。
辞めたばかりの私が知らないことが、もうあった。
「分かった。連絡先は、組合で確かめる」
そう言われ、私は頷いた。
もし私が手伝いに戻ったとしても、すべてを元のように運べるわけではない。そのことに気づくと、背中が少し冷えた。
工務局の責任者が、近くの文官を呼んだ。
「戻ったら、倉庫の奥も探してくれ。前の主任が綴った分だ」
文官が用件を書きつける。
私の答えを待つ人が、一人減った。ほっとするより先に、手持ち無沙汰になった。
私は卓の縁を見ていた。
いつの間にか爪が当たり、手袋の指先が少し白くなっている。
書記が、重い綴りを抱えて戻ってきた。
背表紙に、私の字がある。
角が潰れている一冊は、結界と魔石の記録だった。何年も前、紙の留め方が悪くて頁が落ち、写し直したことがある。
私は、そこだけ覚えていた。
書記が両手で綴りを支え、卓へ置く。今日は、その重さを私が受け取る番ではなかった。
宰相は一冊を開き、何頁か読んだ。
「これは、君が一人で?」
「元の報告書は、各局の方々がお作りです。私は、案件を追えるようにまとめただけで」
「目次は君が付けたのだな」
「はい」
宰相は、書記へ渡した。
殿下が横から手を伸ばし、別の一冊を開く。
「ここまで書いてあったなら、そう言えばよかっただろう」
私は殿下を見た。
何か返したら、言葉が多くなりそうだった。
「お伝えしたつもりでした」
それだけ言った。
隣にいたリリア様が、私と殿下を交互に見た。
「本日の確認は、以上とする」
宰相が告げた。
私は礼をして立ち上がった。
椅子を戻そうとしたところで、殿下が私を呼んだ。
「エレノア。待て」
鞄を持ったまま、振り返る。
殿下は開いた綴りへ手を置いていた。
「給金を出そう。それなら、戻れるだろう」




